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礼拝メッセージ


2025年10月26日 礼拝「真の自由を得るために」ヨハネ8:31~36
自由に生きられるというのは、とても魅力的です。さて、自由とは何でしょうか。自分 の思いのまま、何をしても良い、何でも許されることが自由でしょうか。自分さえ良けれ ば、他人がどうなっても構わないという言動は、真の自由と言えるのでしょうか。今日の 箇所で主イエスは、真理はあなたがたを自由にしますと言われました。私たちは、この主 イエスのことばを通して、真の自由とは何かを考えます。皆さまは、今自由でしょうか。 自由とは解放です。束縛や強制や義務からの解放です。なにものにも束縛されず、だれ からも強制されないで、自分の善悪の基準に従って生きられることです。自分の意志で決 断したことを行うにあたって、妨げのないことです。束縛されたり、強制されて、何かを するのではなく、自発的に、自分で決めた通りを行えること、それが自由です。 今、私たちが生きている日本の社会は、基本的に自由が保障されています。基本的人権 が擁護され、一人の独立した人間としての自由が保障されています。今私たちは、どんな ことを考えても良いですし、それを自由に発言することができます。どのよ
3 日前


2025年10月19日 礼拝「手足を義の道具として献げる」ローマ6:12~23
前回私たちは、キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた者はみな、十字架の死にあ ずかるバプテスマを受けたという霊的事実を確認しました。キリストとともに十字架に死 に、キリストともに葬られ、つまり完全に死んだので、キリストとともに死者の中からよ みがえって、新しいいのちに歩んでいるという霊的事実です。 11節で私たちは、認めること、認め続けることが命じられました。キリスト信仰者であ る私たちは、罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者です。私たちは認めな ければなりません。自分は罪に対して死んだという霊的事実をです。 12節。ですからと続けます。罪に支配されていた古い自分は死にました。今は御子イエ スにあって、新しいいのちに生きています。罪の性質を引きずっている死ぬべきからだに あって、新しいいのちを生きているのです。だから、その死ぬべきからだを罪に支配させ てはならないと命じられます。罪の誘惑に自分を従わせて、罪に支配させてはならないの です。肉が発する様々な欲望に従ってはならないということです。 私たちは肉体にあって、様々な欲求に
10月19日


2025年10月12日 礼拝「光の子どもとして歩む」エペソ5:8~14
エペソ人への手紙の後半部分を読み進めて9回目になりました。4章1節で、あなたが たは、召されたその召しにふさわしく歩みなさいと招かれ、4章17節では、異邦人がむな しい心で歩んでいるように歩んではなりませんと警告されています。5章2節では、愛の うちに歩みなさいと命じ、それは1節にあるように、神に倣う歩みです。3節からは、聖 徒にふさわしくない言動が列挙されており、それらを避けるようにと命じられています。 それらを行う者たちは6節で不従順の子らと呼ばれていて、神の怒りは不従順の子らに下 ります。7節で、彼らの仲間になってはいけませんと警告されています。 そして今日の箇所8節で、光の子どもとして歩みなさいと招かれました。キリスト信仰 は、歩み、生活です。心で信じていれば良いのではなく、実生活に生かされることで、キ リスト信仰は、主イエスを信じる私たちを真に生かすいのちとなるのです。 8節。主イエスを信じる前の私たちは闇でしたとあります。人と比較して、相対的に評 価するなら、それなりにましだと自負していたとしても、闇と言われる存在に変わりはな..
10月12日


2025年10月5日 礼拝「主の帰りを待つ」ルカ19:11~27
ルカが独自の視点で書き記した、主イエスの十字架への道の確認も、23回目になりまし た。エリコの町で、取税人のかしらザアカイを救いに招いた出来事を見聞きしていた人々 を前にして、主イエスは一つのたとえを話されました。今日私たちは、このたとえを通し...
10月5日


2025年9月28日 礼拝「罪責感から解放される幸い」詩篇51:1~4
私たちは日々の歩みの中で、何らかの罪を犯してしまいます。私たち人間は、神のかた ちに造られているので、だれもが心に神の基準を持っており、善悪の判断ができます。そ れが良心となっていて、何らかの間違いや罪を犯したときは、多少なりとも罪責感を覚え るのです。平気で罪を犯しているように見える人でも、心の疼きを覚えているはずです。 人はみな、罪を犯したという自覚があり、罪責感を引きずっているはずです。 ただし罪を犯したと自覚した時に、どのような態度をとるかによって、その後の歩みは 全く違ってきます。罪を罪として自覚し、真の悔い改めに進み、神からの赦しを受けるの か、さらに罪を重ね続けて、最終的に神に罰せられるかです。 この詩の作者ダビデは、罪を指摘されたとき、素直に罪を認め、悔い改めました。ダビ デは創造者である神の御前での罪を深く自覚し、神のあわれみを求めたのです。 51篇には表題にあります。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもと に来たときにとあります。バテ・シェバは人妻でした。ダビデはこの時、姦淫の罪を犯し...
9月28日


2025年9月21日 礼拝「罪に対して死んだ私たち」ローマ6:1~11
私たちが救われるのは、主イエス・キリストを信じる信仰によります。どんな良い行い もすぐれた業績も、私たちを罪から救うことはできません。そして、主イエスを信じて救 われた私たちは、罪に対して死んだ者たちです。救いは信仰によって与えられます。そし...
9月21日


2025年9月14日 礼拝「ずっと私の羊飼いであられた神」 創世記 48:15~16
今年も、敬老の日に合わせて、敬老祝福礼拝を主なる神にお献げします。私たちは、敬 老の日だからということではなく、聖書の教えに従って、いつも年配者を敬うことが大事 です。主なる神が、今は年配者である方々を、若い時に用いてくださって、築き上げられ...
9月14日


2025年9月7日 礼拝「十字架と復活の予告」ルカ18:31~34
医者であり歴史家であるルカが独自の視点で書き記した主イエスの十字架への道、エル サレムへの最後の旅も大詰めになってきました。今日の箇所は、エルサレムに平和の君と して入城する前に、弟子たちに、エルサレムで待ち受けている苦難と復活の最終予告、十...
9月7日


2025年8月31日 礼拝「恵みは満ちあふれる」ローマ5:12~21
1節でパウロは、私たちは信仰によって義と認められたという事実を確認させます。信 仰によって救われる。これがキリスト信仰の救いの根幹です。義と認められるとは、救い の別の表現で、無罪の宣告を受けることです。罪を犯したけれども、その刑の執行は終...
8月31日


2025年8月24日 礼拝「神のことばの光に照らされて歩む幸い」詩篇119:105
おはようございます。皆さまは道路地図を見ることは好きでしょうか。地図を見るだけ でめまいがするという人もいれば、地図を見るだけで日本旅行、世界旅行ができるという 人もいます。地図との関わり方においても、私たちは千差万別です。...
8月24日


2025年8月17日 礼拝「再会の約束に生きる」1テサロニケ4:13~18 召天者記念
年に一度ですが、先に天に召された方々を偲んでの礼拝の時を持っています。キリスト 教会が召天者記念礼拝を行うのは、先に召された方々を偲ぶとともに、主イエスを信じる 信仰によって永遠のいのちを与えられた私たちは、必ず死の時を迎えるけれど、それは天...
8月17日


2025年8月10日 礼拝「聖徒にふさわしく歩む」エペソ5:3~7
おはようございます。エペソ人への手紙の後半部分を、月に1度ずつ読み進めて、今月 で8回目になりました。4章1節で招かれたのは、私たちは神に召された者として、その 召しにふさわしく歩むことです。キリスト信仰は歩みです。心で信じていれば良いのでは...
8月10日


2025年8月3日 礼拝「永遠のいのちを得るために」ルカ18:18~30
いよいよ、主イエスの十字架への道が大詰めとなり、主イエスとその一行は、エルサレ ム近郊へと近づいています。今日の箇所では、ある宗教指導者が主イエスに質問をし、そ れに主イエスが答えました。さらに弟子たちの問いかけに、主イエスが答えています。...
8月3日


2025年7月27日 礼拝「心配するのはやめなさい」マタイ6:25~34
私たちは千差万別です。性格もそれぞれ違います。心配についても、すごく心配性とい う人もいれば、ほとんど心配はしないという人もいます。今は全く心配していない人も、 今後心配事に心を奪われることになるかもしれません。その時に、主イエスが、心配する...
7月27日


2025年7月20日 礼拝「神の愛が心に注がれている」ローマ5:1~11
ローマ人への手紙を通して、私たちは、福音とは御子イエスに関するもので、ユダヤ人 をはじめギリシア人にも、神の御子を信じるすべての人に救いをもたらす神の力であると 確認しています。福音は、主イエスの十字架による、罪の赦しと罪からの救いへの招きで...
7月20日


2025年7月13日 礼拝「愛されている子どもらしく」エペソ5:1~2
まず週報表紙にある、今年度のみことばを確認します。召されたあなたがたは、とあり ます。神の召しに応じたあなたがたは、と言い換えられます。神の召しに応じてキリスト 信仰者になったのが、私たちであるということです。神の召しに応じたのだから、その召...
7月13日


2025年7月6日 礼拝「自分を低くする者への招き」ルカ18:9~17
みなさんの周りにも、人と相対的な比較をして自己正当化し、人を見下すことで自分を 誇る人がいるかもしれません。客観的に見て、みっともないと思うのですが、本人は全く 気づいていないこともあります。これは信仰者の間でも見受けられるので、私たちも気を...
7月6日


2025年6月29日 礼拝「地の塩、世の光とされた私たち」 マタイ5:13~20
私たちは、主イエスを信じて救いに与ったときに、すぐに天の御国に連れて行かれるこ ともなく、地上での生涯が委ねられています。それは、地上での生涯を送ることで、人々 に、主なる神の恵みを分かち合い、罪からの救いを伝える祝福の器とされたからです。...
6月29日


2025年6月22日 礼拝「イエス・キリストによって歩く」使徒3:1~8
私たちは日々、様々な問題、課題に取り組んでいて、その解決を願っています。ただそ の願っている解決は、本当の解決となるのでしょうか。自分が願っている解決は、本当の 必要を満たすのでしょうか。真の意味での解決になっているかと問うことは大切です。...
6月22日


2025年6月15日 礼拝「信仰が義と認められる」ローマ3:31~4:25
3章28節でパウロは、人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると 考えていると書き記しました。それに対して生じる疑問とその答えが31節です。 31節。疑問は、律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められるならば、信仰...
6月15日
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