2025年6月29日 礼拝「地の塩、世の光とされた私たち」 マタイ5:13~20
- hikaruumichurch
- 6月29日
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私たちは、主イエスを信じて救いに与ったときに、すぐに天の御国に連れて行かれるこ
ともなく、地上での生涯が委ねられています。それは、地上での生涯を送ることで、人々
に、主なる神の恵みを分かち合い、罪からの救いを伝える祝福の器とされたからです。
主イエスは十字架での死を前にして、弟子たちのために、父なる神に願い求めました。
彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださいと。そう祈り終えた
上で、弟子たちをこの世に遣わしました。父がわたしを遣わされたように、わたしも彼ら
を世に遣わしましたと祈られた祈りが、本日の聖書交読箇所にあります。
今日私たちは、主イエスによる山上の説教と言われる段落の中から確認します。山上の
説教は、集まってきた群衆にではなく、弟子たちに向けて語られています。5章1節で、
そのことが分かります。まず本当の幸いとは何かを確認させます。3節。心の貧しい者は
幸いですと、私たちに心の貧しさを求めています。自分は主なる神の御前に極貧の状態に
あることを認め、主なる神に物乞いするのでなければ何も得られない者であることを自覚
することが幸いだと言うのです。キリスト信仰者は、この貧しさを体験した者たちです。
私たちがイエス・キリストを信じたとき、救われるためには、自分には何もできないこ
とを認め、主イエスを信じました。自分は罪を犯してきて、罪責感で心が疼いていて、そ
の罪からの救いと罪責感からの解放を求めていて、それは、主イエスの十字架による罪の
赦しと罪からの救いにすがる以外にないと認めました。そうして主イエス・キリストを自
分の救い主と信じたのです。まさに、主なる神に降参しました。
自分のプライドを捨てて、主イエスの十字架にすがりつきました。心の貧しい者となっ
たのです。この心の貧しさを保ち続けて、信仰生活を生きることが重要です。主イエスを
自分の主と仰いで生き、主なる神の支配の中に自分を置くことで、天の御国を生きること
になるのです。心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
13節、14節。主イエスは、ご自分を信じる弟子たちに宣言されました。あなたがたは
地の塩です。あなたがたは世の光です。主イエスは、ご自分を信じる者に、地の塩に、世
の光になれと言ったのではありません。そうではなく、今あなたがたは地の塩です、世の
光ですと断言されたのです。この文では、あなたがたはが強調されています。つまりあな
たがた、わたしの弟子であるあなたがたこそが、地の塩、世の光の役目を担っていると、
使命を委ねたたのです。イエスを主キリストと信じる者こそが地の塩です。世の光です。
その役目は何でしょうか。まず塩です。塩の役目は大きく二つあります。味付けと腐敗
防止です。味付けをする場合でも、腐敗を防ぐ場合にも、塩のままでは役に立ちません。
溶け込むことによって、塩の役目を果たすことになるのです。
キリスト信仰者が地の塩とされた役目は同じです。キリスト信仰者はこの世の、まこと
の神を知らない、信じていない人々の中に入って、キリスト信仰者としての味を失わない
ことで、その働きをするのです。キリスト信仰者がキリスト信仰者としてそこに存在する
とき、そこでの腐敗を防止します。悪を行ってでも利益を追求するという風潮の職場かも
しれません。放置するなら、その邪悪さはエスカレートしていきます。しかしキリスト信
仰者がいて、主の御前での義や善を求めるなら、その場では煙ったがられたとしても、そ
のキリスト信仰者の存在が、その職場の腐敗を防ぐことになるのです。
キリスト者が周りに溶け込みすぎて、周りに同調してしまうなら、人々と穏やかな関係
がとれたとしても、それは塩気をなくしている状態です。キリスト信仰者としての存在意
義を失っていることになります。
腐敗防止は塩の消極的な役目と言えます。塩の積極的な役目は味付けにあります。キリ
スト信仰者が地の塩であることも同じです。コロサイ人への手紙4章6節では、私たちの
ことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにと命じられています。親切であ
るということは、悪意がない、意地悪でないということです。しかしそれは耳障りの良い
ことを語ることではありません。親切であることと、塩味の効いたことば、その両面が必
要です。神の基準にしっかりと根ざし、神の愛と神の義を語ることが必要です。
罪は罪として指摘しなければなりません。そして罪を認めて、悔い改めるなら、罪の赦
しがあると伝えるのです。神の義と神の愛の両方です。神のことばの基準を曖昧にする
時、私たちのことばは耳障りの良いものになるでしょう。しかしそれは人を生かす神のい
のちにはなりません。かといって神の基準を杓子定規に押しつけるだけなら、それは人を
断罪することで終わり、これもまた、人を生かす神のいのちとはならないのです。
15節。光の役目は照らすことです。光は周りを照らし、明らかにするためにあります。
主イエスはまことの光として地上に来られたとは聖書の宣言です。私たちはまことの光で
はありません。キリスト信仰者は、まことの光である主イエスの光を反射する存在と言え
ます。太陽と月のような関係です。私たちは世の光ですから、自分がキリスト信仰者であ
ることを隠してはなりません。人々の前で主イエスの光を輝かせる存在です。
私たちはそれぞれのところに遣わされていて、そこには、あなたを通してでなければ、
キリストを知ることができない人がいます。その人々に接することができるキリスト信仰
者は自分だけという現実に置かれています。その人は私たちキリスト信仰者を見て、主イ
エス・キリストを知ることになるということです。
キリスト信仰者は世の光です。しかしまことの光はありません。太陽と月の関係にもた
とえられますが、私たちのうちに、まことの光である主イエス・キリストを宿す器とも言
われています。パウロは、私たちを土の器であるとたとえましたが、私たちの欠けや弱さ
という隙間から輝き出る光を人々は見ることになるのです。
月であっても、土の器であっても、私たちキリスト信仰者を通して、人々がキリストを
見るなら、私たちは世の光としての役目を果たしています。この目的のために、私たちキ
リスト信仰者は地上に置かれています。
16節。私たちが人々の前で光を輝かせるとは、人々が私たちの良い行ないを見るためと
言い換えられています。まことの光を主イエスから受けて、その光で照らすとは、主イエ
スにある良い行いに進むことだと分かります。そうして私たちが、主イエスに倣う良い行
いに進むことを人々が見ることで、人々は天におられる父なる神をあがめるのです。
私たちがなす良い行いとは、父なる神の御前での善です。この世の人々が良い行いと判
断しても、神の御前で良いとならなければ、それは良い行いにはなりません。私たちの肉
の頑張りでは、神の御前での良い行いをすることはできません。主イエスに聞き、聖霊の
助けを求めて、主イエスが喜ばれること、主イエスが良しとされること、主イエスに受け
入れられることは何かを考え、その良い方を選んで、一歩進むことが大事です。
私たちは父なる神の御前で自分を吟味し、良い行いを選び取るのです。その時、人々は
私たちを見て、まことの光、主イエス・キリストを見ることになり、罪とは何であるかを
知り、罪の赦しと罪からの救いを知って、創造者であるまことの神をあがめることになる
のです。まことの光は、人々の隠れた部分をも照らし出します。その人が隠している闇の
部分をも照らし出します。また罪の何であるかも明らかにします。その結果、その人もま
た、罪からの救いを求めるようになるのです。これが光を輝かせる目的です。
キリスト信仰者である私たちだけが地の塩、世の光として生きることができます。キリ
スト者としての塩気をなくしてはなりません。まことの光であるキリストを隠してはなり
ません。これは、心の貧しい者として生きることによってのみ可能です。自分の体験やそ
こで培ってきたものに頼るのではなく、いつも神のことば、神の基準に照らして、その基
準と異なっているときには素直にそれを認めて、自分のプライドを捨てて、神のことばを
選び取るのです。心の貧しい者としての歩みそのものが、地の塩であり、世の光としての
存在を保つことを得させます。
17節。律法や預言者とは、旧約聖書そのものです。主イエスは、律法や預言者を廃棄す
るためにではなく、成就するために地上に来られました。私たちは主イエスの地上の歩み
に倣うことで、神のことばを生きる信仰姿勢を学ぶことができます。主イエスは人々を、
そして私たちを招いています。マタイの福音書11章28節。有名なことばです。
そしてより大事なのは29節です。私たちは古いしがらみや決まりなどで疲れ果てている
けれど、主イエスのもとに行くことで、全く新しい基準を知り、解放されました。その上
で主イエスから学ぶ必要があります。真の自由は主イエスが与えてくださるのです。主イ
エスから学ぶことでたましいに安らぎを得る、真の自由を生きることになるのです。主イ
エスのくびきを負って、主イエスから離れずに、主イエスから学ぶのです。そのためにみ
ことばが与えられており、助け主の聖霊がキリスト信仰者の心に住んでおられます。
20節。律法学者やパリサイ人の義とは、律法を守ることで神に義と認められるという、
その義です。律法学者やパリサイ人と同じ土俵で、神に義と認められようとするなら、私
たちは到底太刀打ちはできません。彼らは律法を行うことによっては精鋭たちであり、彼
らにまさる律法の行いをするなど至難の業です。彼らにまさる義とは信仰による義です。
主イエスを信じる信仰によって、神に義と認められます。神が義と認めてくださるのは、
真にご自分を信じる者、主イエス・キリストを信じる信仰者だけです。
主イエスは私たちキリスト信仰者を、この世に遣わしました。主イエスを信じる信仰に
よって神の子どもとされ、天の御国の市民となった私たちは、この世のものではなくなっ
ています。この世のものではなくなった私たちが、この世に遣わされているのは、地の
塩、世の光としての役目を果たすためです。
主イエスは私たちのために祈りました。ヨハネの福音書17章17節。私たちを、真理に
よって聖別してくださいと。私たちキリスト信仰者は、神のものとして聖別される必要が
あります。神のことばが真理です。そして主イエスは、わたしが真理ですと宣言しておら
れます。神のことばが真理であり、主イエスが真理です。パウロは、真理はイエスにある
とエペソの教会に書き送りました。
私たちは、主イエスから学ぶことで、真理を知り、主イエスに倣うことで、真理を生き
ることになります。地の塩、世の光であり続けることは、真理によって聖別され続けるこ
とでできることです。
心の貧しい者として、主なる神に物乞いをするように、日々みことばに養われ、主イエ
スのくびきを負って、主イエスから学び、真理によって聖別されて、地の塩、世の光とし
て、恵みの器、祝福の器として用いられましょう。今週のみことば。心の中でキリストを
主とし、聖なる方とする。この信仰姿勢が、私たちをして、地の塩、世の光とならせ、私
たちの存在そのものが、主の証人とならせるのです。




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