2025年7月27日 礼拝「心配するのはやめなさい」マタイ6:25~34
- hikaruumichurch
- 7月27日
- 読了時間: 9分
私たちは千差万別です。性格もそれぞれ違います。心配についても、すごく心配性とい
う人もいれば、ほとんど心配はしないという人もいます。今は全く心配していない人も、
今後心配事に心を奪われることになるかもしれません。その時に、主イエスが、心配する
のはやめなさいと命じていると知っていることは役に立ちます。
主イエスが、心配するのはやめなさいと命じているのは、ご自分を信じ、ご自分ととも
に歩もうとしている弟子たちです。心配事が起こるのは避けられませんし、その時に、心
配してしまうのはどうしようもないことです。その時、心配し続けるのか、心配するのを
やめるのかは、私たちが決めます。主イエスは私たちに、やめる決断を命じています。
私たちが、心配するのをやめる決断ができるのは、父なる神を信頼するからです。ま
ず、心配しても何も変わらないと冷静になりましょう。心配するだけでは、何の解決もも
たらしません。逆に心配すると、私たちは活力を奪われます。その結果、なすべきことが
できなくなります。だから心配するのをやめなさいと言われるのです。心配することでは
何も生み出しません。そして私たちは、父なる神が私たちのことを心配してくださるとの
約束を受けています。私たちは、父なる神にすべてを委ねて、神の最善の解決を待てば良
いのです。心安らかに、日々の生活を前向きに生きることを得させます。
25節。主イエスは、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、と心配したりする
のはやめなさいと語られました。これは現代の多くの日本人には、ピンと来ない話と思わ
れます。私たちの多くは食べる物がない、飲み物がないという経験をほとんどしていませ
ん。着る物がないという状況も知りません。ですから、これらが、どれほど厳しい招きで
あるかを理解するのは難しいと思われます。しかし当時の人々にとって、生活必需品を確
保することは、切実な問題でした。それがどれほど切実であっても、それを心配しなくて
よい、心配しているなら、その心配するのを止めなさいと、主イエスは命じたのです。
26節。主イエスは、空の鳥を見なさいと、私たちの目を鳥に向けさせます。鳥は種を蒔
くことも、刈り入れも、倉に収めることも、何もしませんが、日々養われています。何も
心配しないで、日々食べ物を求めて飛び回っています。その日に、鳥に与えられている苦
労と言えます。創造者である神が、被造物にいのちの糧を備えておられるのです。そうし
て私たちに、私たちはその鳥よりも、ずっと価値のある者だと確認させています。私たち
は特別に、神のかたちとして、神の似姿に造られているので、他の生き物よりも価値があ
ると見なされています。そのような私たちを、父なる神は養っていてくださるのです。
今年は戦後80年になります。私たちの多くは戦後の困窮を知らないと思います。私は今
年71歳になりました。幼少時には貧しかったのですが、食べるのに事欠くというような記
憶はありません。しかし姉たちの話では、朝の食事が終わったら、昼は何を食べるのか、
夜ご飯はどうしようかという切実な状況の中で、生活していたということです。
目の前に食べる物はありません。しかし心配したからといって、食べる物が出てくるわ
けではないのです。そのような中で主なる神に信頼しながら、一日一日を、なすべきこと
をしながら過ごしていたというのです。主イエスが心配するのはやめなさいと招かれたの
は、このような心配せざるを得ない切実な状況に置かれている者たちに対してでした。
27節。私たちは自分のいのちを延ばすことはできません。いのちは創造者である神の支
配下にあります。創造者である神が私たちにいのちを与え、日々生かしておられ、生きる
に必要なすべてを備えていてくださるのです。だから心配しないで良いと言われます。
28節。主イエスは、野の花へと、私たちの目を向けさせます。野の花がどうして育つの
か、よく考えなさいと言います。野の花は働くことも、紡ぐこともしませんが、きれいに
花を咲かせます。29節。父なる神がきれいに装わせてくださるからです。
30節。今日はあっても、明日は炉に投げ込まれる野の草さえと、一日で咲き終わる野の
花を、主なる神は美しく咲き誇らせるのです。ましてあなたがたにはと、主イエスは、野
の草に比べて、私たち人間がどれほど高価で、尊い存在であるかを確認させます。私たち
人間は、高価で尊い存在として創造されたのだから、父なる神が良くしてくださるのは当
然なのだと、父なる神の恵みと祝福とを確認させます。だから心配ご無用なのです。
私たちは、自分の力で生きていると錯覚してはなりません。必要はすべて自分の手で備
えていると思いあがってはならないのです。健康が与えられています。職場が備えられて
います。働くことができて、その報酬としての給与が与えられています。また多くの人々
の助けがあります。そのような環境が整えられていて、毎日の生活を支障なく続けること
ができています。当たり前のように毎日を過ごしていますが、それらの支えがなくなるな
ら、すぐにでも私たちは生活に窮してしまうのです。父なる神が私たちを生かしておられ
るので、私たちの毎日が維持されていることを覚えましょう。
31~32節。私たちの心を、心配事にではなく、父なる神に向けるようにと招きます。
天におられる父なる神は、私たちの地上生涯を保ってくださる間、私たちに必要なものを
すべてご存じで、それらを満たしてくださるお方です。私たちは生かされており、主イエ
スを信じて、神の子どもとされた者に対して、父なる神は、生きるに必要なものをすべて
与えてくださるのです。
しかし私たちに心配事は尽きません。親であるなら、自分の子どもの成長のこと、その
教育のこと、交友関係、将来のことが気にかかります。勤労者であるなら、仕事の進捗状
況や職場での人間関係、会社の存続も気になります。学生であるなら、勉学や成績、就職
や進路のことが気になります。それらに対処して、事を進めることは大事です。
しかし対処するのではなく、心配してしまいます。定年後は、老後はどうなるのか、な
どと、自分でどうしようもない将来のことを心配し出したなら、心が乱されることは避け
られません。だから、心配するのをやめる決断をすべきです。主イエスは心配するのはや
めなさいと招いています。
33節。私たちが心配することから解放されるための処方箋です。まず神の国とその義を
求めることです。神の国を求めるとは、私たちを生かし、私たちの必要を知っておられる
父なる神の支配と保護の中に自分を委ねることです。国とは支配権が及ぶ領域です。私た
ちの国日本は法治国家です。日本の法律が及ぶ領域が日本の国です。国土としては日本に
あっても、日本ではない領域があります。その顕著な場所が米軍基地であり、米軍の施設
です。米軍基地内は日本ではありません。日本の法律が通用しないからです。
神の国とは神の支配です。創造者である神の支配に自分を置くのです。天地万物を創造
された方、そのすべてを支配しておられる神を、自分の神と認め、このお方の支配に自分
を任せてしまうのです。その時、私たちは心配しなくなります。すべてをご存じの神、何
でもできる神、そして私たちの父となられて、神の子どもとされた者たちを特別に愛し、
必要のすべてを満たして、日々を最善に生かしてくださる神が味方だからです。
神の義を求めるとは、生けるまことの神を義、正しいとし、神のなさることは義、正し
いと認めて、従うことです。神は最善以外はなさいません。地上生涯において、どれほど
困難な状況に置かれたとしても、どれほど理不尽な扱いを受けたとしても、その状況の中
に、父なる神はともにおられ、守り支え、最善に導いてくださいます。この事実を確認し
て、神である主のみわざを待ち望むとき、私たちの心配や不安は消えます。神の平安で心
が守られます。そして主なる神の、最善で、最良の導きを見ることになります。
34節。明日のための心配は無用です。明日は私たちのものではありません。明日も、将
来も神の領域です。だから明日のことまで心配しなくてよいと招かれます。明日生きてい
るかどうかは分かりません。神である主が私たちを生かしてくださるなら、新しい今日を
迎えます。明日を迎えることができるなら、明日のための必要はすべて与えられます。
私たちが心配になったり、不安を覚えたりするのは、すべて、これからどうなるかを思
い悩むからです。将来を思い悩んでも、何もできません。心配する分だけエネルギーを奪
われていきます。百害あって一利なしです。何の良いものも生み出しません。
明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。私たちの心を、
明日にではなく、今日に合わせるのです。今日の問題には対処できます。その問題解決の
ために取り組むことが大事です。苦労はその日その日に充分ありますと言われています。
心配している暇はないのです。だから、主に委ねつつ、主からの知恵を求めて、今日なす
べきことをするのです。心配しないで、今日なすべきことをなすように招かれています。
私たちは心配になることがあります。心配事が起こることは避けられません。その時、
心配するのをやめなさいと決断が促されています。心配するのをやめる。それだけです。
再確認しましょう。全能の神は、私たちを生かしておられる限り、日々の必要を備えてお
られるお方、私たちの父なる神となられるお方です。
このお方は、私たちをご自分の子にするために、罪のうちを歩んでいた私たちに罪の赦
しを与えるために、御子イエス・キリストを人として生まれさせ、私たちの罪を処罰する
ために、十字架で代わりに死なせたお方、愛の神です。私たちを愛して、私たちを罪から
救い出し、主イエス・キリストを信じる信仰によって、神の子どもとなる特権を与えて、
招いておられます。神の御子イエス・キリストの十字架の処刑は、私の罪のためであった
と受け入れ、差し出された罪の赦しを受け取る信仰が、私たちが救われるための唯一の条
件です。十字架による罪の赦しを感謝して受け取ることで、罪からの救いに与るのです。
主イエスを信じ、罪の赦しを受け取った者は、神の子どもとなる特権が与えられます。
そして神の子どもとされた私たちを、私たちの父となられた神は特別に愛して、私たちの
地上生涯に必要なものをすべて満たしてくださいます。さらに様々な問題に対して、真の
解決を備えて、導いてくださいます。だから心配するのをやめることができます。心配す
ることから解放され、安心が与えられるのです。父なる神、全能の神を信じ、信頼して歩
むことで、心配や不安から解放されます。神の平安が私たちの心と思いを守り、今日なす
べきことをなす力と知恵が与えられます。
今週のみことば。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたが
たのことを心配してくださるからです。これが、キリストを信じる信仰によって、私たち
に与えられた神からの約束です。まことの神とともむ歩む者に約束されている幸いです。




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