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2025年7月20日 礼拝「神の愛が心に注がれている」ローマ5:1~11

  • hikaruumichurch
  • 7月20日
  • 読了時間: 9分

 ローマ人への手紙を通して、私たちは、福音とは御子イエスに関するもので、ユダヤ人

をはじめギリシア人にも、神の御子を信じるすべての人に救いをもたらす神の力であると

確認しています。福音は、主イエスの十字架による、罪の赦しと罪からの救いへの招きで

であり、この招きに応じるなら、だれであっても、ユダヤ人であっても、ユダヤ人でなく

ても、みな救われます。それは逆も言えます。この救いへの招きを拒むなら、ユダヤ人で

あっても、ユダヤ人でなくても、だれ一人救われません。

 1節。パウロは、こうしてと論を進めます。4章16節。パウロは、すべては信仰による

のですと、断定します。神の招きに応じることは、神を信じることであり、神の招きを拒

むことは、神を信じないことです。さらにパウロは、事が恵みによるようになるためです

と言い切ります。私たちは自分のどんな行いによっても救われることはできません。ただ

神の一方的な恵みによって差し出された、罪の赦しを受け取ることが救いの条件とされて

います。神の、アブラハムへの約束は、アブラハムの信仰に倣うすべての人に保証されて

います。すべての人ですから、血筋による子孫のユダヤ人だけにではありません。罪の赦

しと罪からの救いは、信仰によって、すべての人に与えられるのです。アブラハムは、私

たち、アブラハムの信仰に倣うすべての者の父とされています。

 1節。こうして私たちは、主イエスを信じる信仰によって、神に義と認められました。

義と認めるとは、罪のない者、罪を犯さなかった者と見なすこと、無罪の判決が言い渡さ

れることです。すべては信仰によります。神の民として選ばれたと自負するユダヤ人も、

ユダヤ人ではないすべての異邦人も、主イエスを信じる信仰によって神に義と認められま

す。その者たちはみな、神との平和を持っています。神と和解させていただいたのです。

 2節。このキリストによってとは、キリストの十字架の御業によってです。十字架によ

る身代わりの処罰を自分のためであると受け入れて、罪からの救いに与ることで、神との

平和という恵みに導き入れられました。義である神は、私たちのあらゆる不敬虔と不義に

対して怒っておられます。私たちは不敬虔と不義のゆえに、神と敵対していたのです。し

かし愛である神は、罪人である私たちを愛して、罪に赦しを備えて、罪からの救いへと招

いてくださったのです。この招きに応じることで、私たちは、神との平和を持つ者となり

ます。私たちは主イエスを信じる信仰によって、神との平和を持っています。これは恵み

です。この恵みに導き入れられたのです。そして、神の栄光に与る望み、やがて主イエス

の再臨の時に、栄光のからだに変えられる望みを見ており、それを喜んでいます。

 3節。神の栄光に与る望みを喜んでいるだけではありません。苦難さえも喜んでいると

パウロは言うのです。一般的に、苦難を喜ぶとは「困難や苦しみの中にいる時でも、それ

を成長の機会と捉え、前向きに受け入れること」と説明されますが、私たちキリスト信仰

者は苦難を、より積極的に捉えます。キリスト信仰者は、主イエスを信じる信仰のゆえに

苦難にあうことがあります。主なる神が、そのご主権のうちに、目的をもって苦難にあう

ことを許可されるからです。その苦難は信仰の試練と言い換えることができます。そして

主なる神は、私たちに耐えられない試練にあわせることはありません。私たちが耐えられ

る範囲で試練にあわせ、苦難にあうことを許可されるのです。この苦難をも喜ぶのです。

なぜでしょうか。それは、苦難が忍耐を生み出すと知っているからです。苦難の中で、私

たちキリスト信仰者は神への信頼を深め、神のみわざを待ち望む忍耐が引き出されます。

忍耐は信仰の深まりにしたがって確かにされていきます。忍耐とは我慢することではあり

ません。神のみわざ、神の最善を待つ信仰的で、積極的な姿勢です。

 4節。忍耐は練られた品性を生み出すと言われます。練られた品性とは御霊の実と言い

換えられます。苦難の中で、私たちに主の最善を待ち望む忍耐を得させてくださるのは、

私たちキリスト信仰者の心に遣わされている助け主の聖霊です。忍耐はさらに洗練された

人格を形成させ、助け主の聖霊はキリスト信仰者のうちに、霊的品性、御霊の実を結ばせ

ます。その実は愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の9つです。これ

らはすべての人が身につけたいと願う品性であり、これらに反対する人はいません。

 これら練られた品性は希望を生み出すことを、キリスト信仰者は知っているはずだと、

パウロは言うのです。この希望は神の約束に基づいているので、神の約束を確信している

者たちは、決して揺り動かされることはありません。ペテロは、生ける望みと、彼の手紙

に書きましたが、まさに神の約束は、確実に実現する生ける望みです。死んだ望みではあ

りません。神のことば、神の約束は、神の定めの時に、必ず実現するのです。

 私たちにとっての希望とは、この地上生涯で与えられる、神の様々な祝福の約束でもあ

りますが、それらを超えた希望です。私たちの最終的な、最大の希望は、主イエス・キリ

ストの再臨によってもたらされる栄光のからだに変えられることであり、天の御国への凱

旋です。永遠を神と顔と顔を合わせて過ごす、新しい天と新しい地の再創造を待ち望む希

望です。主イエスが再臨されるとき、すでに死んでいるなら、罪のない栄光のからだに復

活します。この地上で、主イエスの再臨を迎えるなら、一瞬のうちに、罪のない栄光のか

らだに変えられるのです。この神の約束が私たちの希望です。この希望は、品性が練られ

れば練られるほどに、確信となって、私たちを生かすのです。

 5節。この希望は失望に終わることがありません。私たちは確信しています。主イエス

を信じた時に、父なる神は私たちの心に、賜物として聖霊を宿してくださいました。この

聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているのです。私たちは、心に聖霊を宿して

いるので、父なる神をも、子なるキリストをも、心に宿しています。父、子、聖霊は三位

一体の神ですから、父なる神も、子なるキリストも、私たちのうちに、いつもおられ、神

の愛で、自分は愛されていることを体験的に知っています。

 6節。神の私たちに対する愛は、キリストの十字架によって、確認できます。私たちは

救われるに価する者ではありませんでした。私たちは弱く、不敬虔な者たちで、様々な罪

を犯し、何よりも、創造者である神を自分の神とあがめない、神と認めない、不敬虔極ま

りない態度を取っていて、滅ぼされて当然の罪人でした。そのような弱く、不敬虔な者

を、神は愛してくださり、救いへと招いてくださったのです。私たちは、自分が犯した罪

のゆえに、罰せられるはずなのに、愛の神は、私たちへの刑の執行を猶予して、私たちの

罪に対する処罰を、キリストを十字架で死なせることで終わらせたのです。キリストの十

字架の身代わりを自分のためであると信じる者を救うためです。神の愛が示されました。

 7節。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、

進んで死ぬ人がいるかもしれません。これが私たちの世界の常識です。ほとんどの人は、

人のために死のうとはしません。しかしキリストは私たちのために死んだのです。

 8節。しかも私たちが罪人であった時にです。自分が犯した罪のゆえに罰せられ、滅ぼ

されて当然の私たちのために、主イエスは死なれました。義の神は、私たちの罪、不敬虔

と不義に対して怒っておられ、必ず罰します。しかし愛の神は、私たちを罰することを先

延ばしにして、悔い改めに招いてくださいました。そのために、神の御子キリストを十字

架で代わりに処罰したのです。私たちの罪に赦しを備えて、救いへと招いておられます。

私たちが自分に罪のあることを認め、悔い改め、十字架によって差し出された罪の赦しを

受け取ることで、救ってくださるのです。

 私たちは、罪のあるままでは、完全にきよく、完全に正しい神に受け入れられることは

できません。私たちの汚れを神は拒絶し、私たちの罪を神は罰するのです。そのような私

たちは、主イエス・キリストの十字架で差し出された罪の赦しを受け取ったことで、罪の

ない者、罪を犯さなかった者と見なされたので、完全にきよく、完全に正しい神は、私た

ちを受け入れることができました。主イエスの十字架は、神の義と神の愛という相反する

特質のどちらも満足させる、究極で、唯一の解決策なのです。キリストの十字架によっ

て、神は私たちに対するご自分の愛を、明らかにされたのです。

 9節。私たちは、主イエスの十字架での死は、私の罪を赦すための身代わりの処罰であ

ることを受け入れ、主イエスを信じました。罪の赦しを受け取ったのです。私たちは主イ

エスを信じる信仰によって、神に義と認められました。無罪の判決が言い渡されれたの

で、神の怒りから救われています。それは確かなことです。神の怒りは、私たちの不敬虔

と不義に対して向けられており、罪を犯している私たちに対してではないことは、本当に

感謝なことです。主イエスの十字架を信じて、罪のない者、罪を犯さなかった者と見なさ

れたので、神の怒りの対象から外されました。神の怒りから救われたのです。

 10節。敵であったとは、罪のゆえに神に敵対していたということです。敵であった私た

ちが今、御子の死によって神と和解しています。御子の死によって神と和解させていただ

いたので、神との平和を持っています。神の一方的な恵みによって和解が差し出され、そ

の和解に信仰によって入ったのです。神と和解させていただいているのだから、御子のい

のちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。

 11節。主イエスを信じた私たちは、神の自分に対する愛を味わい知っているので、神を

喜んでいます。キリストによって差し出された神との和解を受け入れたからです。私たち

は神の愛を喜び、神ご自身を喜び、神の基準を喜んで、神に聞き従う者となったのです。

 私たちは確認しましょう。神の愛が私たちの心に注がれている事実をです。神に愛され

ている、いのちを捨てるほどの愛で愛されている。これ程までに大きな愛で愛されている

のですから、喜びと感謝をもって、さらに、父なる神に聞いて、従う者となりましょう。

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