2025年5月11日 礼拝「新しい人として歩む」エペソ4:17~24
- hikaruumichurch
- 5月11日
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私たちは今、月にⅠ度、エペソ人への手紙4章から信仰生活について確認しています。
私たちキリスト信仰者に与えられた信仰は、歩み、生活です。心で信じれば良いという信
仰ではなく、日々神のいのちに生かされて、神のことばに同意して歩む信仰です。健全な
信仰生活は、健全な教会生活の上に整えられます。信仰生活は教会生活でもあります。
エペソ人への手紙は、前半1~3章で、救いとは何か、信仰とは何か、教会とは何かを
述べ、後半4~6章で、救われた私たちはどのように歩むのか、具体的な信仰の歩みを述
べています。聖書は、与えられた信仰が実生活に生かされていないなら、信じていないの
と同じだと言います。行いのない信仰はむなしいとあります。主イエスを信じて、全く新
しいいのちに生きる者となったのに、それが実生活に具現化されていないなら、信じてい
ないのと同じだと言うのです。行いのない信仰は死んでいると言われます。
しかし行いは救いの条件ではありません。このことは明確にしておくべきことです。救
いは主イエスを信じる信仰によってのみ与えられる神の恵みです。私たちは主イエスの十
字架の死と復活によって差し出された罪の赦しを受け取ることで救われます。
そのような私たちに、救われたのだから、キリストにある新しいいのちを豊かに生きる
ようにと、主なる神は招くのです。信仰を働かせて、新しいいのち、神のいのちを生きる
ようにと命じます。神のことばに自分を合わせることで、信仰を生活化させるのです。
17節。パウロは、主にあって厳かに勧めました。キリスト信仰者となり、神の国の国籍
を持ち、天の御国の民となったのだから、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んで
はならないのです。私たちは主イエスを信じる以前の歩みに戻ってはなりません。
4章1節。あなたがたは神に召されたのだから、その召しにふさわしく歩むようにと招
かれていました。しかし私たちキリスト信仰者は、神の民とされる前の、むなしい心での
歩みをすることもできます。召しにふさわしく歩むことも、むなしい心で歩むことも、選
べます。むなしい心での歩みは、2章1~3節で記されています。自分の背きと罪との中
に死んでいて、不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むこ
とを行い、生まれながら神の怒りを受けるべき存在、これがむなしい心での歩みでした。
しかし4~5節。あわれみ豊かな神は私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
キリストと共に生かしてくださったのです。さらに私たちを、神の教会の一員として、キ
リストのからだを構成する大切な器官として召し、集めてくださいました。
だから17節。もし私たちの生活が、主イエスを信じる前と何ら変わらないなら、それは
信仰に生きていないことです。ここで異邦人とは、ユダヤ人以外の人々ではなく、キリス
トを信じていない人々です。キリスト信仰者である私たちは、創造者である神を父なる神
と仰ぎ、神の国の市民とされ、キリストのからだの大切な器官となっているのだから、そ
の与えられた神のいのちにふさわしく歩むようにと招かれているのです。
キリスト者である私たちが戻ってはならない古い歩みが18~19節。これはかつての、
私たちの生き方でした。この世の知恵と知識は豊富であっても、神の知恵には貧しいこと
から来る知性の暗さ、神の国についての無知、神を拒み続ける頑なさのゆえに、神のいの
ちから遠く離れているので、あらゆる不潔な行いを貪ることになる。そのような歩みに
は、決して戻ってはなならないと注意されています。
これは、まことの神を知ろうとせず、自分の欲に従って生きる人々の現実です。そして
私たちキリスト信仰者も、いつでも古い人の歩みに戻れるのです。自分の意思で、自分の
決断で、まことの神と共に歩むことをやめることができます。だから聖書は、私たちにこ
のような歩みをしてはならないと言明し、厳かに勧めるのです。私たちは心してこの勧め
を受け入れましょう。そのためには、キリスト信仰者に与えられている新しい人の歩みを
積極的に求めることが重要です。
私たち人間が創造者であるまことの神から離れるとき、その心はむなしくなります。生
きていくうえでの絶対的な基準を失い、自分の欲望のまま生きた方が良いと思います。絶
対的な基準を持たないので、相対的な基準に頼り、その時々の状況や情報などに振り回さ
れます。自分は知恵がある、知識がある、優秀だ、自分は正しい判断ができると自負して
いても、その判断基準が絶対ではないので、こんなはずではなかったとなるのです。
創造者である神は人に与えた自由意志を最大限に尊重されます。私たちが自分の自由意
思で選ぶことを止めることはしません。その結果、自分の欲求に従った場合に、様々な間
違いや罪を犯すことになるのです。しかし創造者である神は、その愛とあわれみのゆえ
に、私たちにそれが罪であると自覚させ、悔い改めに招き続けますが、押しつけることは
しません。私たちが神の恵みを受け入れ、自分の罪を認めて悔い改め、救いへの招きに応
じることで、新しいいのちを生きることを得させるのです。
人は自分で選択して、自分の生き方を決めます。そしてその選択の結果を刈り取りま
す。頑なに神を無視して、神のいのちから遠く離れる人は、知性が暗くなり、道徳的に無
感覚に陥ることで、好色に身を委ね、あらゆる不潔な行ないを貪るようになるのです。
しかし20節。キリスト信仰者たちは、キリストをそのように学びませんでした。ここで
言われている、キリストを学ぶ、ということばは重要です。キリストについての知識を増
やすために学ぶのではありません。キリストご自身を学ぶのです。キリストとの個人的
で、霊的に、人格的に交わる中で、キリストを体験的に学ぶのです。私のうちに生きてお
られるキリストを味わい知るということです。
キリスト信仰者である私たちは、かつての古い人としての歩みを止めました。今私たち
が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信
じる信仰によっているのですとパウロは告白しました。私たちもパウロの告白に同意して
いるので、神のいのちに留まり続けるのです。
21節。私たちはキリストについて聞き、キリストにあって教えられることが大事です。
キリストについて聞き、キリストにあって教えられるという特別な恵み、特別な権利が与
えられているのだから、そう生きなければ損です。主イエスご自身が、わたしは心が柔和
でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい
と招きました。そうすればたましいに安らぎを得ますと約束しておられます。
主イエスはぶどうの木で、私たちはその枝です。枝は木から離れれば枯れます。主イエ
スとしっかり結びついて、いのちを受け取るなら、豊かな実りが保証されています。キリ
ストについて聞き、キリストにあって教えられることは、みことばに親しみ、その場、そ
の場で、主イエスならどうされるかを考えて、主イエスに倣う道を選んで一歩踏み出す、
この繰り返しが、私たちをして、豊かな実を結ばせるのです。まさしく真理はイエスにあ
るのですから。真理を知り、真理を生きる。これが私たちキリスト信仰者の幸いです。
22節。私たちキリスト信仰者は古い人を脱ぎ捨てました。主イエスを信じたときに、私
たちの古い人はキリストともに十字架につけられ、死んだのです。それなのに、古い人が
亡霊のように出てきます。古い人の歩みに戻ってはなりません。
キリストを学ぶとは、キリストとの霊的関係を体験することです。私たちの古い人はキ
リストともに死にました。そしてキリストとともに新しい人として誕生したのです。主イ
エスを信じた時に神がなしてくださった、この霊的事実を生きるのです。
23~24節。私たちは古い人を脱ぎ捨てました。新しい人を着たのです。これが主イエス
を信じて救われた私たちの霊的な実態です。それなのに、すでに死んだはずの古い人が亡
霊のように出て来ます。それは、主イエスを信じる前と、主イエスを信じた後で、私の肉
体は何も変わっていないからです。主イエスを信じて、救われたことを表明するためにバ
プテスマを受けたけれど、表面的には何も変わっていません。
私たちの肉は古いままです。これまでの生活習慣が身についています。価値観や好みな
どは古いままです。そのような私たちに神のいのちが与えられたことで、霊的な赤ちゃん
として生まれました。私たちのうちに神のいのちがあるので霊的に成長します。しかし時
間はかかります。古い人の性質が、霊的に成長しようとする私たちを誘惑し、新しい人と
しての歩みを妨げるのです。情欲に従わせようと、手を変え品を変えて惑わします。しか
し欺かれてはなりません。私たちの古い人はキリストともに十字架に死んだのです。この
事実を確認して、新しい人としての、神のいのちを生きるのです。
繰り返し確認しましょう。私の古い人は死にました。キリストにある新しい人として生
きています。古い人は成人です。新しい人は霊的な赤ちゃんとして生まれました。新しい
人は、古い成人と霊的な戦いをして、霊的な大人へと成長していきます。これが私たちの
信仰生活です。霊的に成長し続けて、霊的な大人へと整えられるのです。
この霊的な事実を確認し、神のことば、神の約束を、その通りですと同意し続けて、神
のことばに自分を合わせる歩みをして、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けていくの
です。神のことばに親しみ、祈りをして神ご自身との霊的交わりを深めて、キリストを学
ぶのです。キリストについて聞き、キリストにあって教えられましょう。
真理はキリストにあるのです。キリスト以外のものに真理を求めても、真理は得られま
せん。真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着るのです。主イ
エスは、わたしが道であり、真理であり、いのちなのですと言われましたが、キリストが
真理であり、キリストこそ、神の義、神の聖なのです。
古い人が亡霊のように出て来ます。それを脱ぎ捨てるのです。これは決断が必要です。
自分の意思による決断です。死んでしまった古い人を野放しにしてはなりません。古い人
が出て来たと気づいたなら、すぐに脱ぎ捨てる。キリストを学び、キリストについて聞い
て、キリストにあって教えられる。繰り返し、繰り返しです。神のことば、聖書に親しむ
のです。主イエスならどうされるかを考えるのです。新しい人を身に着る。これも自分の
意思による決断です。召しにふさわしく歩むことになります。




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