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2025年4月6日 礼拝「十字架と復活の予告」マルコ10:32~34

  • hikaruumichurch
  • 4月6日
  • 読了時間: 7分

更新日:4月7日

 今年のイースター、主の復活を記念する日は4月20日です。主イエスが十字架で処刑さ

れたのは春分の日を過ぎた最初の満月の週で、今年は4月13日が満月ですので、18日(金)

が主イエスの十字架刑の日、そして20日(日)が、死者の中からの復活の日です。

 今月私たちは、主イエスの受難と復活について聖書から確認します。私たちが救い主と

信じ、自分の主と仰いでいるナザレのイエスは、ユダヤ教の三大祭りの一つ、過越の祭り

の時に、ローマ帝国の極刑である十字架刑に処せられました。その日が来週金曜日です。

そして三日目に、主イエスは死者の中から復活されました。その日が20日です。

 ある人々は、ナザレのイエスが十字架で処刑されたのは、本人にとって不本意な出来事

であったと言います。彼らは、ナザレのイエスは志し半ばで、不運にも処刑されてしまっ

たと考えるのです。ナザレのイエスは、貧困や病気に苦しむ人々、社会的に見下され、虐

げられている人々を救うという崇高な志を抱いて、人々を愛し、人々に仕え、人々の必要

を満たすなどして、大きな影響を与えたけれど、政治的な権力に押し潰されて、非業の死

を遂げる悲劇的な人物であり、三大聖人の一人とするのです。

 しかし聖書は、全く違う主張をします。ナザレのイエスの十字架での死は、権力の横暴

によって引き起こされたものではなく、神の救いの計画の実現であると記すのです。今日

の聖書の箇所で、主イエス本人が弟子たちに、自分が受ける苦難と死、そして復活を予告

しています。しかもその予告は具体的です。福音記者ルカは併行記事で、これらは旧約聖

書で預言されていることだと付け加えます。

 32節。主イエスとその一行はエルサレムに向かっています。主イエスはその先頭に立っ

て弟子たちを導いておられました。弟子たちは主イエスのその姿勢に驚き、その他、彼ら

について行く人たちは恐れを覚えたと記されています。異様な雰囲気だったのでしょう。

 そのような中で、主イエスは12弟子をそばに呼び、これからエルサレムで起こること、

特にご自分に関することを話し始めました。弟子たちに覚悟させたのです。

 33節。主イエスはご自分のことを、人の子と呼びます。その人の子である自分は、祭司

長たちや律法学者たちなど、ユダヤ教指導者たちに引き渡されるのです。誰かが自分を宗

教指導者たちに引き渡す、つまり弟子の中に手引きをする者がいるとの予告です。そうし

て宗教指導者たちは、人の子である自分を死刑に定め、異邦人に引き渡します。そのよう

な扱いが待ち受けるエルサレムに行くのだと、弟子たちに明言されました。そしてこれら

のことは、主なる神の救いの計画であると預言者を通して語られていたのです。

 預言者ダニエルは、主なる神がやがてメシヤ、救い主を遣わすと預言しました。その救

い主について、人の子のような方と表現しています。主イエスは、預言者ダニエルによっ

て預言されていた、このことばをあえて使うことで、自分こそ、神が約束された救い主、

メシヤであると主張したのです。

 34節。宗教指導者たちは、人の子を異邦人に引き渡します。聖書で異邦人とはユダヤ人

以外を指すことばです。ここではローマ人ですが、異邦人は人の子を嘲り、唾をかけ、む

ちで打ち、殺すのです。しかし人の子は、三日後によみがえると断言しました。

 ユダヤ教指導者たちからの敵愾心が日増しに高まっていく中で、彼らに殺されるかもし

れないということは、ある程度予測できたかもしれません。しかし異邦人に引き渡される

こと、その異邦人が殺すことまで予測することは難しいと言えます。しかも嘲り、唾をか

け、むちで打ちと、殺すまでの経緯が具体的です。さらに、三日後の復活を予告するなど

はだれにもできないことです。この予告が現実となることで、主イエスは私たちと同じ人

間ではなく、私たちの罪を赦すために、人となられた神である証拠となるのです。

 今日の聖書交互箇所、旧約聖書イザヤ書53章で、メシヤは神のしもべとして遣わされる

こと、人々は神のしもべメシヤを蔑み、のけ者にすると預言されています。3節。しもべ

として遣わされたメシヤは、人が顔をそむけるほど蔑まれ、彼を尊ぶ者は少ないのです。

その具体化として、嘲られ、唾をかけられ、むちで打たれると予告しました。

 神のしもべがむちで打たれることは、イザヤ書53章4~5節。彼、神のしもべへの懲ら

しめが、私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒されます。主イエス

はローマ兵によって鞭で打たれました。その打ち傷が、私たちを癒すのです。

 6節。主なる神は、私たちのすべての咎を彼、神のしもべに負わせるのです。私たちが

犯してきたあらゆる罪や過ち、その一つ一つに対する神の処罰を、メシヤ、主イエスは身

代わりに受けたことで、その打ち傷によって、私たちの傷は癒されました。

 異邦人は人の子を殺します。イザヤ書53章9節。神のしもべは犯罪人の一人として処刑

されます。ローマ帝国の犯罪人処刑の極刑は十字架刑です。手足を太い釘で十字架に打ち

付け、その釘の部分で全体重を支える状態にします。呼吸するために、息を吸う時にから

だを持ち上げ、息を吐く時にからだが下がる、その上げ下げの度に、釘を打ち付けられた

部分に激痛が走ります。その繰り返しが死ぬまで続くのです。痛みと苦しみの極限を味わ

わせる、見せしめのための処刑、それが十字架刑です。主イエスは罪のない方であるの

に、重罪人として十字架刑に処せられて、殺されました。

 しかしと主イエスは語ります。しかし人の子は、三日後によみがえりますと、殺された

後の、死者の中からの復活を予告しました。これほど大胆な予告はありません。もしその

予告が実現しなければ、イエスは口から出任せを言ったことになり、イエスのそれまでの

ことばも信用できないことになるのです。自分は神のわざを行っている、自分は神に遣わ

されて来た、自分は神の子であり、父なる神と本質において一つであるなどと語ってきた

すべては、ただの大言壮語であり、出鱈目、神への冒瀆です。もしイエスが殺された後に

復活されなかったなら、ナザレのイエスを救い主と信じてはなりません。メシヤ、救い主

として遣わされた者のことばは、100%真実でなければならないのです。私たちは、主イ

エス・キリストが復活されたことは事実であると認めたので、信じたのです。

 ナザレのイエスは、政治的権力によって抹殺されたのではなく、神の一方的な恵みによ

る救いの計画、罪人である私たちをその罪から救い出す神の計画に従って、十字架への道

を歩んでくださいました。これが聖書が記す主イエスの十字架刑です。

 罪の報酬は死ですと聖書は宣言します。神の命令に背いたとき、あなたは必ず死ぬと言

われたとおりです。私たちはみな、何らかの罪を犯してきたので、死ぬ者となりました。

これが私たち罪人の当然の報いです。しかし神は、そのような私たちに永遠のいのちをプ

レゼントされたのです。

 罪の報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のい

のちです、と続きます。永遠のいのちはキリスト・イエスにあり、キリスト・イエスを自

分の主とする者に与えられます。十字架で処刑されたナザレのイエスを、自分の神、自分

の主とすることが、永遠のいのちをいただくためのただ一つの条件なのです。

 神の御子は、ナザレのイエスとして、この地上に来られました。預言者を通してなされ

た数々の預言を成就する者として、この地上に人として誕生し、人々に仕えたけれど、蔑

まれ、嘲られ、唾をかけられ、むちで打たれ、殺されました。そのすべては私たちの罪の

身代わりとして処罰され、私たちに罪の赦しを備えるためなのです。

 このお方が、預言者を通して預言されていたとおりに、ご自分で予告されたとおりに、

十字架への道を進んでくださいました。私たちにいのちを与えるためにです。私たちが死

からいのちに移りたいなら、滅びから解放されて、永遠のいのちを生きたいのなら、十字

架で死なれたナザレのイエスを自分の救い主と信じ、自分の主としなければなりません。

 私たちがすることは、この一つだけです。そうするなら、主なる神は、私たちの罪をな

い者と見なし、私たちを罪を犯さなかった者と見なして、永遠のいのちを与えるのです。

そのために、主イエス・キリストは十字架で死なれ、三日目に復活されました。預言され

ていたとおりに、ご自分で予告されたとおりに、神の救いの計画を成し遂げてくださった

のです。主イエスの十字架と復活を覚えて、感謝を新たにしましょう。

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