2025年6月8日 礼拝「神の聖霊を悲しませない」エペソ4:25~32
- hikaruumichurch
- 6月8日
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本日は教会暦において、聖霊降臨の記念日となります。主イエスの復活の日から50日目
であり、約束の聖霊が、主イエスを信じる者たちに与えられた日です。この日は、キリス
トの教会の誕生日でもあります。聖霊は、神の賜物として、主イエスを信じる者の心に遣
わされ、ずっと心に宿っていてくださるのです。ペンテコステは50の意味です。 キリスト信仰者である私たちは、主イエスを信じた時に、古い自分に死に、新しいいの
ちに生きる者として霊的に誕生しました。キリストともに十字架に死に、キリストともに
よみがえらされたのが、私たちキリスト信仰者です。それを表すかたちとして、バプテス
マ式があります。主イエスとともに古い自分に死んだことを表して水に沈み、主イエスと
ともに新しい自分に誕生したことを表して水から浮かび上がります。このことを22~24節
では、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着ると表現しています。
1章13~14節。主イエス・キリストを信じた者の心には、賜物として聖霊が与えられて
いますが、それは神の国の住民とされていること、御国を受け継ぐことの保証です。
だからパウロは、キリスト信仰者に、神の聖霊を悲しませていけませんと命じました。
聖霊は物質的な存在とか単なる力ではなく、人格を持っておられる存在であり、私たちと
人格的に関わられます。聖霊は私たちのふるまい、言動に対して悲しまれるお方、喜ばれ
るお方です。私たちキリスト信仰者が、かつての古い人の生き方をするなら、神の聖霊は
悲しまれます。だからそのように歩んではならないと命じるのです。
キリスト信仰者は罪を赦され、神のいのちに生きる者となりましたが、罪を全く犯さな
くなったわけではありません。キリスト信仰者は罪赦された罪人ですから、油断すると罪
の誘惑に引き込まれることがあります。自分は罪人に変わりないとへりくだることが大事
です。そのような私たちが、キリストのからだを構成する大切な器官として、神の教会に
召し集められました。キリスト信仰者は神のいのちに生きています。新しい人を着て、神
の基準を生きる全く新しい歩みを始めました。ただし、新しい人がぴったり合っていない
部分があります。私たちの古い人は、そこで鎌首をもたげてきます。しかし誘惑に陥って
はなりません。古い人を脱ぎ捨てた自分であることを繰り返し自覚するのです。
25節。ですからと勧めます。古い人の生き方から離れ、新しい人の生き方を追い求める
のです。まず、偽りを捨て、真実を語ります。隣人とは、この文脈では、神の家族とされ
た信仰者たちです。私たちは互いに、からだの一部分とあるからです。キリストのからだ
である神の教会において、神の子どもとされ、新しい人を着たお互いとして、偽りを捨て
て、真実を語るのです。私たちの古い人は、自己保身に走ることで、真実ではなく、嘘を
つき、自分を偽っていました。無意識に、平気で行っていたこともありました。新しい人
を着ていると自覚して、意識して、真実を語ることを追い求めるのです。
26節。私たちは怒ることがあります。腹を立てることがあります。それでも怒りを鎮め
ることができるなら幸いです。怒りを鎮めることができるのは、公正なさばきを行う神を
信じているので、報復は神に任せることができるからです。それでも怒ってしまうことも
あるでしょう。しかし怒っても、罪を犯してはなりませんと命じられています。怒りに自
分を任せてしまうと、正しい対応ができなくなります。また、翌日まで憤りを抱えてもな
りません。怒りや憤りは、できるだけ早く捨てることが肝心です。冷静になって、神の御
前での対処を考えるのです。さばきと報復は主のものです。
27節。偽り、怒りは悪魔に機会を与えることになります。だから偽りを捨て、怒り、憤
りは鎮めなければなりませn。悪魔に機会を与えてはならないのです。キリストのからだ
である神の教会を構成するお互いですから、かしらであるキリストに従って、キリストの
からだを建てあげるために、互いに関わるのです。私たちは古い人のふるまいである自己
中心を警戒して、そこから離れ、神の基準を生きることを目指すのです。
28節。キリスト信仰者になっても盗みをしていた人がいたと思われます。古い罪の性質
に自分を委ねるなら、新しい人としての歩みは妨げられ、罪に引き込まれます。だからそ
のような人を念頭において、盗んではならないと命じました。私たちも同じです。古い罪
の性質を抱えながら、新しい人としての歩みを追い求め、聖霊に助けを求めています。古
い罪の性質が悪に引き込もうとしていると気づいたなら、それを抑えるべきです
この28節では、働くことの意味も確認させられます。困っている人に分け与えるために
も働くということです。自分の利益ばかりを求め、人のことはどうでも良いという考えで
はなく、困っている人と分け合うためにも賃金を得るのです。これは、隣人になるという
主イエスの教えに通じます。自分や自分の家族の、生活向上のためではなく、分け合うた
めに働く。この文脈では、神の家族の困っている人のためです。
29節。悪いことばを、いっさい口から出さない。これも強い自覚によって、聖霊に助け
を求めて、心にある悪い思いをなくさなければ難しいことです。私たちは心にある思いが
ことばや態度に出ます。気をつけていないと感情のままに、人を傷つけることばを発して
しまいます。人の評判を落とそうと中傷したりします。そうではなく、人の成長、霊的成
長に役立つことば、聞く人に恵みを与えることばを語ることを追い求めるのです。
必要なときに、です。語るべき時を見極めて、聞く人に恵みを与えることばを語りたい
ものです。自分の言動が、人に恵みを与えているのか、それとも人を悲しませ、傷つけ、
人の成長を妨げているかでは、雲泥の差です。古い人の、罪の性質に引きずられるように
語るのではなく、必要なときに、互いの霊的成長に役立ち、聞く人に恵みを与えることば
を語る、新しい人としての生き方を意識して歩みましょう。
30節。古い人の生き方に戻ることは、神の聖霊を悲しませます。偽りを言う、怒りが乗
じて罪を犯す、憤りを抱えたままで、何日も過ごす、悪いことばを口から出すなど、悪魔
に機会を与えることになり、私たちの心に宿っている聖霊は悲しまれます。
主イエス・キリストを信じ、神の子どもとされた私たちの心には、賜物として聖霊が遣
わされています。聖霊はキリスト信仰者の心に住んでいて、私たちを内側から新しい人に
ふさわしい歩みへと整えてくださるのです。その働きを拒み、聖霊が心に住んでおられる
ことを否定するかのように、古い人の歩みに戻るなら、聖霊は悲しまれます。私たちは、
聖霊を悲しませるのではなく、聖霊に聞き、聖霊の促しに従う歩みを選ぶべきです。
私たちは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているとあります。ここで、
贖いの日とは、十字架による罪の贖いがなされた日ではなく、私たちが罪の影響の全くな
いからだに変えられる日のことです。私たちの罪は主イエスの十字架によって贖われ、そ
れを信じたことで罪が赦され、神の子どもとされました。永遠のいのちが与えられ、再創
造される新しい天と新しい地に、神とともに永遠を生きると約束されています。その時私
たちは、罪の全くない、栄光のからだ、天上のからだが与えられます。この贖いの日は、
主イエス・キリストの再臨によってもたらされます。
主イエスは聖霊を、もう一人の助け主と紹介しました。真理の御霊であり、私たちにす
べてのことを教え、主イエスが話されたことを思い起こさせてくださるお方です。聖霊は
私たちを、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えてくださいます。ただし聖霊は
助け主ですから、私たちを強制的に扱うことはしません。助け主の聖霊は、私たちの自由
意思を尊重し、私たちが聖霊に導きを求めることを待っておられます。そうして私たちが
助けを求めるなら、喜んで助けてくださるのです。だから助け主の聖霊を悲しませてはな
りません。聖霊が働きやすいように、聖霊に自分を明け渡すことが大事です。
聖霊に、私たちの心の王座を明け渡し、ご自由にお用いください、みこころにふさわし
く変えてくださいと、自分を委ねるのです。聖霊の語りかけに敏感になり、聖霊の促しに
素直に応じることを追い求めるのです。私たちは聖霊に導かれて、古い人を脱ぎ捨て、つ
まり古い人の生き方から離れて、新しい人を着る、すなわち新しい人の生き方を身につけ
ていきます。信仰生活とは、この繰り返しです。そうして霊的に成長していきます。
主イエスを信じて、罪を赦され、神の子どもとされました。霊的な赤ちゃんとして、神
のいのちに誕生したのが、キリスト信仰者です。しかし肉体は何も変わっていません。古
い人の性質は残っています。古い肉の性質が、神のいのちに誕生した赤ちゃんの霊的な成
長を妨害します。だから聖霊の助けが重要なのです。聖霊に助けられながら、私たちは霊
的に成長していきます。いのちがあるので、必ず成長します。ただその成長には個人差が
あります。時間がかかることもあります。どれだけ助け主の聖霊に助けを求めるかが、霊
的成長に影響するのです。ただ感謝なのは、いのちがあるので成長するということです。
私たちが意識して、自覚を持って、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着続けるなら、聖霊は
私たちを霊的大人へと確実に成長させてくださいます。
31節。ここにも、私たちが脱ぎ捨てるべき古い人の性質が列挙されています。無慈悲、
憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに捨て去るのです。これらは聖霊
が結ばせてくださる霊的品性とは全く異なります。聖霊が結ばせてくださる霊的品性は、
御霊の実と紹介されていて、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制とあ
りますが、31節とは真逆です。心にある悪い感情から出てくるあらゆる悪意を捨てて、聖
霊が結ばせてくださる霊的で素晴らしい品性を身に着けることができます。捨てるという
のは意思による決断です。悪い性質を放置してはなりません。
32節。お互いに親切にする。心の優しい人になる。互いに赦しあう。これらも意思によ
る決断です。悪い思いを捨て、良い心になるように変えていただくのです。罪を赦され、
神のいのちに生きる者となり、新しい人を身に着た自分であると自覚して、聖霊に助けを
求め、神のことばに養われて、霊的に成長していく。聖霊を悲しませてはなりません。助
け主として遣わされている聖霊を、心の隅に追いやって、何の働きもさせないことも、神
の聖霊を悲しませることになります。聖霊に助けを求めるなら、キリスト信仰者であるな
ら、だれもが新しい人にふさわしく、霊的に成長していきます。
私たちが霊的に成熟した大人へと成長していくなら、聖霊は喜んでくださいす。神に召
された私たちですから、その召しにふさわしく歩むのです。新しい人として歩む。聖霊の
助けを求めて、霊的に成長していく。聖霊は喜んでおられます。




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