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2025年8月10日 礼拝「聖徒にふさわしく歩む」エペソ5:3~7

  • hikaruumichurch
  • 8月10日
  • 読了時間: 9分

 おはようございます。エペソ人への手紙の後半部分を、月に1度ずつ読み進めて、今月

で8回目になりました。4章1節で招かれたのは、私たちは神に召された者として、その

召しにふさわしく歩むことです。キリスト信仰は歩みです。心で信じていれば良いのでは

ありません。信仰は、神の召しに応じる歩みであり、実生活に適用されていきます。

 4章17節では、異邦人のように空しい心で歩んではなりませんと命じられました。ここ

で異邦人とは、ユダヤ人でない人々ではなく、キリスト信仰者でない人々のことです。異

邦人の歩みは、創造者である神と無関係の歩みであり、彼らが、地上にどれほどの業績を

残したとしても、神の御国では通用しません。そのような意味で空しい心で歩みと言われ

ています。私たちは、創造者である神を自分の神としたのだから、神のことばに心を合わ

せ生きるのです。私たちは主イエスを信じる前の、古い生き方を捨てました。キリストを

自分の主とあがめて歩む新しい人、神にかたどり造られた新しい人を着たのです。

 5章1~2節では、神に愛されている神の子どもなのだから、神にならう者となって、

愛のうちに歩みなさいと招かれました。

 さて、今日私たちは、聖徒にふさわしく歩むと題して、神のことばを聞きます。しかし

今日の箇所には、聖徒にふさわしい歩みは見いだせません。ここには、聖徒としてふさわ

しくない歩みが記されています。聖徒にふさわしくない言動を記すことで、そのように歩

んではならないと招くのです。

 聖徒とは、聖人君子のような人と考えるなら、私たちの多くは、自分は聖徒にはなれな

いと考えると思います。聖徒とは、聖人君子のような人ではありません。聖の対語は俗で

す。聖は神の側、俗はその反対です。私たちはかつて、俗世間に属していましたが、主イ

エスを信じて、神の側に属する者とされました。それまでまことの神とは無関係に、自己

中心に生きていた者が、主イエスを信じて、自分の主と仰ぎ、主なる神に聞き従って生き

る、神を中心に生きる者となったのです。神を中心に生きる、全く新しい歩みを始めた者

が聖徒です。そして聖徒になったので、神の聖さに変えられ続けていきます。神の聖さに

変えくださるのは聖霊です。主イエスを信じたのなら、人からクリスチャンらしくないと

言われても、聖徒です。主イエスを信じて救われた者は、聖徒とされています。

 聖徒である私たちは、主イエスから、この世に遣わされました。キリストの証人として

存在しています。だからこの世の人々とつきあいます。しかし世の人々に同調するのでは

なく、神の陣営に属するものであることを自覚して、聖徒にふさわしく歩むのです。

 3~4節。ここに列挙されていることは、口にすることさえしてはいけないことです。

淫らな行いも、どんな汚れも、貪りも、してはなりません。わいせつなことも、愚かなお

しゃべりも、下品な冗談も、口にしてはなりません。聖徒にふさわしくないからです。聖

徒が口にすべきなのは、感謝のことばだと言うのです。私たちは、すべてのことについて

感謝しなさいと招かれています。この世から聖別された私たちは、世俗的な生き方に戻っ

てはなりません。聖徒に与えられる、神からの特別な恵みを得られなくなります。

 バプテスマのヨハネは叫びました。救い主の到来を前にして、その道備えをするため

に、人々に悔い改めを迫ったのです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と。

その招きに応じた群衆に、ヨハネは、悔い改めにふさわしい実を結べと招きました。悔い

改めのバプテスマを受けること、その儀式が、救い主を迎える備えではありません。罪を

認め、罪の生活から離れる、その決意の表明としてバプテスマがあり、その決意が救い主

を迎える備えです。罪の悔い改めが必要であり、悔い改めの実が実生活に現れなければ、

救いは何の意味も持ちません。救いの恵みを味わえないからです。

 聖徒であることも同じです。イエス・キリストを信じて、神の側に属するもの、聖徒と

されたのですが、神の聖徒にふさわしく変えられなければ、聖徒とされたことに何の意味

もありません。古い生き方、神と無関係に生きていた自己中心を捨てて、神を中心とし、

神の基準に従って生きる、全く新しい歩みを身に着けていかないなら、聖徒に与えられる

霊的祝福を味わえない生活となります。私たちは主イエスを信じて、聖徒とされたのだか

ら、聖徒にふさわしい歩みをするようにと招かれているのです。

 5節。私たち、聖徒とされた者たちは知っておかなければなりません。淫らな者、汚れ

た者、貪る者は偶像礼拝者と言われます。偶像礼拝者は、キリストと神との御国を受け継

ぐことはできません。創造者であるまことの神を知らず、知ろうとしない人々は、自分の

肉の欲求を優先します。かつての私たちも、主イエスを信じる前は、程度の差はあっても

そのような者でした。性を商品化し、それで利益を得ようとする人々、そしてそれに群が

る人々は古今東西を問わず至るところにいます。宗教を用いて、人々を支配し、自分の欲

求を満たす人々もいます。自分の欲望を神とする人々です。

 そのような歩みをしていた私たちも、神のあわれみによって、主イエスを信じる信仰が

与えられ、神の所有の民となりました。そのような私たちが、淫らな者、汚れた者、貪る

者に戻るのなら、偶像礼拝者であると断罪されるのです。現代の私たちが最も警戒すべき

なのは、貪りではないでしょうか。日々の生活はある程度保たれているのに、私たちの物

欲を駆り立てるコマーシャルがあふれていて、与えられているもので満足し、それを有効

に用いることをさせないようにし、より新しいもの、より便利なものを欲しがらせます。

貪りは満足しません。もっと、もっとと欲しがらせます。創造者である神をではなく、神

以外のものを欲しがらせるのです。だから貪る者は偶像礼拝者と断罪されるのです。

 当時のギリシア世界において、淫らな行い、性的不品行や性的汚れを問題にし、罪とす

る感覚はありませんでした。男が妻以外の女性を愛人にすることは普通でした。同性愛も

日常茶飯事であり、女性蔑視の社会でした。コリントの町には、愛の女神・アフロディー

テの神殿があり、何百人という聖なる売春婦と呼ばれる巫女たちがいて、その売春による

収入が町を潤わせていました。アテネの町に売春婦と売春宿を導入することを許可した人

物は政治家ソロンです。ソロンは紀元前6世紀にアテネで活躍した政治家で、ギリシア最

初の立法者として有名です。売春で得た収入を用いて神殿を建てることに、何の問題も罪

意識も感じない道徳性が、当時のギリシア世界の常識でした。

 この風潮はエペソの町でも同じであったと考えられます。女神アルテミスの神殿を中心

にエペソの町は発展しました。このような風潮の中で人々はイエス・キリストを信じ、キ

リスト者となったのです。そのキリスト者に、聖徒にふさわしくない、昔の生き方に戻っ

てはならないと諭しているのが今日の箇所です。あなたがたの間では、とは、教会の中で

は、ではなく、あなたがた一人一人はという意味です。私たちはどこにいても、この世の

風潮に流されてはなりません。日本の社会が性の自由化を推し進め、それが社会全体で一

般常識となったとしても、引き込まれてはなりません。沖縄で考えるなら、祖先崇拝を始

め、様々な習俗の影響が強くありますが、それらに引きずられてはならないのです。

 私たちは、あらゆる貪りを警戒しましょう。社会全体が富を求めても、それに引きずら

れてはなりません。生活の豊かさを求めるように煽られても、神の国と神の義を第二、第

三に貶めてはなりません。神の国と神の義を第一とすることが大事です。物質的な豊かさ

を追い求め、それを手にしたとしても、神の国では全く通用しないからです。

 4節にある、わいせつなことや愚かなおしゃべり、下品な冗談は、話題にするほど、私

たちの心はそれらに支配され、神の聖さから引き離されることになります。だからそれら

を避け、話題にしてはなりません。私たちの会話が、神への感謝、人への感謝に溢れてい

るなら、私たちの心は神に向けられていきます。私たちの口にすることが、キリスト信仰

者の会話が、私たちを神に近づけていく、互いの心を神の聖さにふさわしく変えらいくも

のであるなら、教会の外の人をも神に近づけることになります。私たちのことばが、神に

栄光を帰するにふさわしく整えられることが大事です。

 3節と5節は、単なる繰り返しではありません。3節は、口にすることさえ避けるよう

にとの勧めですが、5節は、主イエスを信じたのに、なおも行っている人への警告です。

主イエスを信じて新しい人としての歩みを始めたはずなのに、古い人の歩みを続けている

なら、それは神の国の市民であることを、自分から否定することになります。だから御国

を受け継ぐことはできませんと警告されるのです。

 6節。だれにも空しいことばで騙されてはいけません。古い生き方に魅力を感じてはな

らないのです。古い生き方をしている者が神の御国を受け継ぐことはできないからです。

神の支配に生きることを拒んでいるのですから当然です。キリストの支配に生きることを

好まないで、世と世の欲とを追い求めている人々に、引き込まれてはなりません。そのよ

うな行いに対して、神の怒りは向けられています。不従順のまま地上を去ったなら、それ

らの行いのゆえに、神の怒りは彼らに下されることになります。

 だから7節。彼らの仲間になってはなりません。主イエスを信じていない人々との関わ

りをなくすことはできません。しかし仲間になってはなりません。同調してはならないの

です。その人々が、偶像礼拝から立ち返ることを求めて執り成し祈り、彼らに福音を伝え

ることはしても、仲間になってはならないのです。主イエスを信じたのに、古い人の歩み

を続けている人々に対しては、関係を絶つことも必要かもしれません。彼らが悔い改める

ように、執り成し祈り続けることをやめてはなりませんが。

 私たちは、自分を吟味しましょう。淫らな行い、汚れ、貪りを引きずっていないでしょ

うか。近づいていないでしょうか。わいせつことや愚かなおしゃべり、下品な冗談の輪に

加わってはいないでしょうか。それらを好んでいることはないでしょうか。

 私たちの会話が神の恵みを覚え、感謝するものへと変えられ続けることが大事です。今

週のみことばを確認します。神のみこころは明確です。私たちキリスト信仰者は聖なる者

とされたのだから、神の聖さに近づくことを求め続けるのです。神は聖だからです。世の

人々に調子を合わせてはなりません。騙されてはなりません。彼らの最後は滅びです。

 私たちは、神の支配を生きています。この世の人々と関わりながら、この世のものでは

ないことを自覚し、この世の人々に、主イエスの十字架と復活による救い、永遠のいのち

を証する存在とされています。この事実を忘れてはなりません。私たちの国籍は天にあり

ます。神の国の市民として地上生涯を歩んでいます。まずこの事実を感謝しましょう。そ

して聖徒とされたのだから、聖徒にふさわしく歩むのです。私たちがキリスト信仰者とさ

れたのは、この世の人々に、神の祝福を、福音を伝えるためです。

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