2025年8月3日 礼拝「永遠のいのちを得るために」ルカ18:18~30
- hikaruumichurch
- 8月3日
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いよいよ、主イエスの十字架への道が大詰めとなり、主イエスとその一行は、エルサレ
ム近郊へと近づいています。今日の箇所では、ある宗教指導者が主イエスに質問をし、そ
れに主イエスが答えました。さらに弟子たちの問いかけに、主イエスが答えています。
18節。この宗教指導者は主イエスに、何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことが
できますかと質問しました。みなさまならどう答えるでしょうか。私たちは、永遠のいの
ちを受け継ぐために、何をする必要があると考えるでしょうか。
主イエスは、この宗教指導者の側に立って、彼が必要だと考えている戒めを述べます。
20節。十誡から、人に対する戒めのうち、5つです。姦淫してはならない。殺してはなら
ない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。あなたの父と母を敬え。
21節。主イエスは、彼が、そう答えるであろうと予測しておられました。彼はユダヤ教
の家庭に育ち、敬虔なユダヤ人として、子どもの頃から、律法にしたがって歩もうとして
きたのです。しかし彼には、永遠のいのちを受け継いでいるという確信は持てていません
でした。何かが足りないと感じていて、主イエスから確信をいただこうとしたのです。
22節。十誡は、神への愛と、人への愛が述べられています。始めの4つの戒めは神への
愛への招きです。後の6つの戒めは人への愛への招きとなっています。神への愛は、心を
尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさいと招かれ、人
への愛は、あなたの隣人を、自分自身のように愛しなさいと招かれています。
彼は、人への愛に関する戒めは、少年のころからすべて守ってきましたと自己正当化し
ました。しかし実際は、人への愛に手心を加えていることに気づいていません。もし行い
において完全に戒めを守ろうとするなら、自分の持ち物をすべて売り払い、貧しい人たち
と分けることが、隣人を自分自身のように愛することになるからです。主イエスは、それ
ができるなら、そのようにしなさいと告げたのです。それはそのまま、天に宝を蓄えるこ
とになるのだと。その上で、わたしに従って来なさいと招きました。
23節。この宗教指導者は、主イエスの招きのことばを聞いて、非常に悲しんだとありま
す。彼は、大金持ちでした。彼は誠実に、忠実に戒めを守っていたことと思われます。こ
れまでに、多くの施しをしてきたかもしれません。しかし、全財産を売り払って、貧しい
人たちに分けることなど、思いもつかないことでした。そして主イエスは、この招きをす
ることで、行いによって完全になることはできない罪の性質に触れたのです。彼はその事
実を認めて、行いによっては救いを得られない現実を認めるべきだったのです。彼がその
後どのようになったのか、聖書は何も触れていません。悲しんで去った後、主イエスを信
じる信仰を得ることができたのか。去ったままなのか。聖書は沈黙しています。
24~25節。主イエスは衝撃的なことばを告げました。富を持つ者が神の国に入るのは
なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通るほうが易
しいと。この主イエスのことばは、彼らが、これまで教えられてきたことを根底から覆す
ものでした。物質的に豊かであるのは、神の祝福の結果であって、多くの物質的な祝福が
与えられるのは、神に受け入れられているからだ。これまで教えられていたことです。し
かし主イエスは、それを完全に覆したのです。神に祝福されているはずの金持ちが神の国
に入ることは難しいとの主イエスのことばを聞いて、26節、人々が言います。それでは誰
が救われることができるでしょう。誰も救われないと思ったのです。
27節。主イエスは言いました。人にはできないことが、神にはできるのです。救いは主
のものです。人は、自分の意欲や努力によって救いに与ることはできません。金持ちだか
ら救われないとか、貧乏人だから救われるとかもありません。信仰によって、金持ちは救
われます。信仰によって、貧乏人も救われます。しかし主イエスを信じなければ、誰も救
われません。主イエスを信じる者は、その信仰によって救われるのです。
28節。ペテロが口を挟みます。約3年前、ペテロとその兄弟アンデレは、主イエスの招
きに応じて、漁師の仕事を辞めて、主イエスの弟子となりました。ペテロが自分のものを
捨てたことが、永遠のいのちを受け継ぐ条件ではありません。主イエスの招きに応じて、
主イエスに従ったことで救いに与り、永遠のいのちを受け継ぐ者とされたのです。その結
果として、ペテロは漁師という職業など、自分のものを捨てることになりました。
29~30節。主イエスに従うことで、自分のものを捨てることになったことを、主イエス
はご存じであり、それを喜ばれていることは事実です。そして主イエスは保証されます。
捨てた者に対して、捨てたものの何倍も、この世で受けることになり、永遠のいのちを受
けることになると。これは主イエスが22節で約束されたことと同じです。主イエスに従う
ことで捨てることになるものは、そのまま天に宝として蓄えられるのです。
捨てることが救いの条件ではありません。主イエスを信じて、従っていくことが救われ
るための条件です。この点を間違ってはなりません。主イエスに従う結果として、何かを
捨てることになるなら、その捨てたものの何倍も受けることになると、主イエスは約束さ
れています。私たちに、地上生涯での物質的な祝福を与えてくださる神よりも、神から与
えられた物質的な祝福に頼ることのなりように気をつけましょう。私たちの地上生涯が与
えられている限り、私たちに必要なものは与えられるからです。
今日の交読箇所で確認しましょう。ガラテヤ人への手紙3章6、8~9節。信仰によっ
て生きる人とは、主なる神を自分の神、自分の主と崇めて、神の基準に自分を合わせて生
きる人です。自分の肉の頑張りでは神の基準を生きられないと知っているので、主なる神
に助けを求めます。そうして神のことばに合わせて一歩を踏み出すとき、神のことばが力
を与えます。神のことばは生きていて、力があるので、私たちを生かすのです。
10節。神のことば、神の基準を行うことで、神に義と認められようとする者は、呪われ
るとあります。律法の書に書いているすべてを守り行わない者はみな、呪われるとあるか
らです。これが律法の規定です。神の民イスラエルは、自分のできる範囲で律法を行い、
自己正当化していました。しかし、神に義と認められることはできなかったのです。
11節。義人は信仰によって生きる、とは旧約聖書のことばです。律法によって神の前に
義と認められる者が、だれもいないことは明らかなのです。
今週のみことば。私たちが救われるのは、神の一方的な恵みによります。神の恵みは絶
えず私たちに注がれています。その恵みのゆえに、私たちは、主イエスを信じる信仰によ
り救われます。私たちは様々な罪を犯します。そして罪の報酬は死、と定められていて、
必ず罰せられるのです。私たちはみな罪のゆえに、死刑の判決を受けています。ただその
執行は、私たちが地上生涯を終えるときまで猶予されています。
私たちに罪の赦しを備えるために、神は御子キリストを人としてこの地上に遣わされま
した。そしてキリストを十字架刑で処刑したのです。罪の全くないお方、罪を全く犯さな
かった神の御子が、十字架刑で処刑されました。これが神が恵みによって備えられた救い
の方法です。主イエスの十字架刑は、私の罪の処罰の身代わりであると信じることで、私
たちは罪の赦しを受け取ることができます。恵みのゆえに信仰によって救われるのです。
非常に悲しんだ宗教指導者が、その後どうなったのか、私たちには分かりません。彼が
自己正当化することをやめて、神のあわれみにすがり、主イエスの十字架を自分の罪を赦
すためであると信じることができたなら、これほどの幸いはありません。彼が財産にでは
なく、財産を与えてくださった神に依存して、信仰によって永遠のいのちを得る者とされ
たことを期待したいですね。
私たちも同じです。財産を与えてくださっている父なる神に信頼し、依存して、主イエ
スに従うことで、与えられている物質的な富を捨てる、手放すことを迫られる時、喜んで
捨てる者、手放す者とされましょう。神の国のために捨てる者は、この世で、その何倍も
受け、来るべき世で永遠のいのちを受けることになる。これが、主イエスの約束です。私
たちの父なる神は、私たちの地上生涯を、主の恵みと祝福で、満たそうとしておられるの
です。富に依存するのではなく、富を与えてくださる父なる神に依存するのです。




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