2025年7月13日 礼拝「愛されている子どもらしく」エペソ5:1~2
- hikaruumichurch
- 7月13日
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まず週報表紙にある、今年度のみことばを確認します。召されたあなたがたは、とあり
ます。神の召しに応じたあなたがたは、と言い換えられます。神の召しに応じてキリスト
信仰者になったのが、私たちであるということです。神の召しに応じたのだから、その召
しにふさわしく歩みなさいと招かれています。
1節。愛されている子どもらしくとあります。主なる神はすべての人を愛しています。
この神の愛は、キリストが十字架でいのちを捨ててくださったことによって明らかに示さ
れました。私たちを愛して、私たちを罪と滅びから救い出すために、身代わりとして、罪
の処罰を受けた。これがキリストの十字架です。神の一方的な愛によってなされた救いの
方法です。その愛を私たちは、自分のためであったと認め、受け入れました。私たちは、
神に愛されていることを喜び、神の子どもとされたことを光栄と思っています。私たちは
神に愛され、神の子どもとされたことを感謝し、喜んでいます。
4章の後半で、主イエスを信じる前の古い人の生き方と主イエスを信じて神の子どもと
された新しい人の生き方を記しながら、古い人の生き方に気づいたなら、それを捨てるよ
うに、そして新しい人の生き方を歩むようにと招かれていましたが、ついに、神に倣う者
となれという、キリスト者としての、究極とも言える命令を受けました。
さて皆様は、この、神に倣う者となれという命令をどのように受けとるでしょうか。神
に倣うことなどできないと、端からあきらめるでしょうか。それとも、自分でも神に倣う
ことができるのかと、驚きと感動をもって、この招きに応じたいと思うでしょうか。私た
ちは、自分もまた神に倣う者になれると、感動と驚きをもってこの招きを受け取り、一歩
一歩追い求めたいと思うのです。いかがでしょう。
私たちキリスト信仰者は、神に倣う者として招かれている事実を確認しましょう。私た
ちは、神のように歩むことができるということです。だから神に倣う者となりなさいとい
う招きがなされています。ですから私たちは、今日の、この招きを、自分の具体的な日々
の生活に適用し、日常生活の中で実践させていただきましょう。
まず確認しておきたいのは、私たちは神に倣うことができるというとき、それは、神に
似た歩みができるということです。私たちは、神の似姿に、神のかたちに造られました。
私たち人間は、神の属性を持つ者として造られています。私たちは人格を持ち、自由意思
が与えられ、善悪の判断ができる存在として造られています。神との愛の交わりを喜び、
楽しんでいます。神に愛されていることを喜び、自分もまた神の愛に応えて、神を愛して
います。自発的に、喜んで神に従うことで、神を愛する愛を、神に表しています。これが
神に造られた人間のあるべき姿でした。
しかし最初の人アダムは、このあり方を退け、神の愛に生きることを拒み、神から離れ
て、自分の思いを優先する生き方を選びました。その意思の表れが、神に禁止された善悪
の知識の木から実を取って食べたことでした。神よりも自分を優先するあり方が罪です。
神のことばを退け、自分の思いを優先していた私たちも、イエス・キリストを信じる信仰
によって、神の愛を味わい知りました。そして、神を愛するがゆえに、神のことばを生き
たいと願い、そう生きようとしています。神に造られた本来の、あるべき状態に戻ったの
です。これが救いです。神の似姿に、神のかたちに造られた、本来の、あるべき状態に戻
るようにと、愛の神は、罪の中を歩んでいた私たちを救いへと招いておられるのです。
1節は、ですから、と書き出します。これまでの文章を受けての書き出しでもあり、直
前の4章32節を受けているとも言えます。私たちキリスト信仰者は、キリストという新し
い人を着た者たちなので、キリストに倣って、互いに親切にし、自分はキリストにおいて
神に赦された者として、互いに赦し合うようにと招かれています。まず、自分の新しい立
場を自覚することが大事です。その上で、ですから、なのです。私たちは、神に倣う者と
して、特に神の教会において、互いに赦し合うようにと招かれているのです。
1節。愛されている子どもらしく、神に倣う者になれと命じられています。キリスト信
仰者は、自分が神に愛されていることを疑いません。神の子どもとなる特権が与えられた
ことを確信しています。神に愛されている神の子どもであると自覚しています。その神の
愛の中で、日々の信仰生活を歩んでいます。神に愛されている子どもであると自覚してい
るので、父なる神に倣うことを求めます。神に倣いたいという強い動機は、自分は神に愛
されている神の子どもであるとの確信と自覚から生じるのです。
2節。ここで私たちは、神に倣うとは、愛のうちに歩むことにおいて神に倣うのだと気
づかされます。私たちは普段、どのように人を愛しているでしょうか。神はどのように人
を愛されたのでしょうか。神はどのように私を愛されたのでしょうか。この神の愛に倣う
とするなら、私たちは、どのように人を愛せば良いのでしょうか。
4章32節。教会内での対人関係、神の家族とされたお互いへの勧めです。主イエスの十
字架による罪の贖いを信じて、神から罪の赦しを受けた私たちです。罪の赦しを受け取っ
た者同士だから赦し合えるはずだ。これがこの命令の根拠です。相手がどうであれ、自分
は赦されたのだから、神に罪を赦された神の家族を赦すのです。共通の土台に立ち、共通
の認識を持っている私たちだから、互いに赦し合えるはずだという前提での命令です。
しかし1~2節で招かれている、神に倣う者として、人を愛すという招きは、教会での
対人関係を越えています。愛する相手はキリスト信仰者とは限りません。どのような相手
であれ、神が人を愛するように、その人を愛していく、これが神に倣う者として愛のうち
に歩むという命令です。神に倣う者となること、愛のうちに歩むことを求めるのです。
私たちに対する神の愛は、イエス・キリストの十字架に如実に示されています。2節。
キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、またいけにえと
なりました。十字架で身代わりの処罰を受けて、私たちに罪の赦しを備えたのです。
では、イエス・キリストが私たちを愛されたとき、私たちはどのような状態だったので
しょうか。それが、ローマ人への手紙5章にあります。6節。私たちが弱かったころ、ま
た不敬虔な者であった、創造者である神を自分の神としていないころです。8節。私たち
が罪人であったときです。悪の誘惑に引き込まれ、罪を犯していたときです。10節。私た
ちは神に敵対していました。不敬虔が甚だしく、神を神と思わず、神に感謝もせず、神を
侮っていて、罪の中にどっぷりとつかっていたときに、そのような私たちを愛して、私た
ちを罪から解放するために、イエス・キリストは十字架による罪の赦しを備えてくださっ
たのです。神の私たちに対する愛による一方的な恵み、あわれみが差し出されました。
この、神の愛に倣うことが、神に倣う者となることです。どうでしょうか。私たちはこ
の招きに応じたいと思うでしょうか。それともこの命令は見なかったことにするでしょう
か。ただ明確に言えることは、私たちは神に愛されており、神の子どもとされ、神に倣う
者となったので、この勧め、命令がなされているということです。私たちは神の子どもで
あり、神に愛されています。なので、神に倣う者となりたい、神が人を愛したように、私
たちも人を愛したいという願いを持っています。そうなろうとしています。
マタイの福音書5章44~45節。私たちが愛するようにと命じられている相手は敵です。
敵を愛し、迫害する者のために祈るようにと主イエスは命じました。私たちは父なる神の
あわれみと恵みに倣うのです。仕返しすることを考えるのではなく、親切にすることを考
えます。罪に定めるのではなく、赦すことを求めます。そして赦します。つまり人のした
悪を忘れるのです。これは神に愛されている子どもだからできることです。神に倣うこと
です。これは、とても無理だと思います。自分にはできない、したくないと思います。し
かしそうするようにと招かれています。敵を愛し、迫害する者のために祈るようにと招か
れています。だから祈りましょう。神の愛を求めて祈るのです。
今私たちは、神に倣う者となりなさいと招かれています。この命令は、イエス・キリス
トによる、キリストを自分の主として、キリストに従おうとする者たちへの命令です。私
たちはキリストを信じる者です。自分の主とあがめて、従おうとしています。それはその
まま神に従う者になると知っています。ですから私たちは、神に倣う者となり、敵をも愛
する愛を求めて祈りましょう。このことを拒む正当な理由はありません。日常生活の中
で、憎らしく思っている人がいるかもしれません。敵対してくる人もいるでしょう。その
人を愛することを求めるのです。神に愛されている者として、神の愛を確認して、その人
を愛する。これは観念の世界ではありません。具体的に実践すべき勧めなのです。そして
私たちが本当にキリストに聞き、キリストにあって教えられているのなら、そのようにで
きます。聖霊に助けを求めて愛するのです。
2節。キリストが私たちのために、私のためになしてくださった愛が模範です。それに
倣うのです。キリストは神のみこころに従い、神の救いのご計画を実行するにあたって、
自ら進んで十字架で死なれました。神への香ばしい香りとなって、自分を神にささげたの
です。私たちも、敵を愛し、迫害する者のために祈るなら、神への香ばしい香りとなりま
す。神に倣う者となる。これは、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着た私たちへの勧め、命
令です。愛することにおいて、神に倣うということです。
敵を愛し、迫害する者のために祈る私たちは、神の教会の中で、神の家族とされたお互
いを愛し、赦し、仕え合うことができます。キリストのからだである神の教会を、神に喜
ばれる教会として建てあげるお互いとなるということです。召された私たちは、その召し
にふさわしく歩みましょう。愛のうちに歩むことを求めるのです。
神に倣う者となる。まず神の教会で、神に愛され、罪を赦された者同士が、互いに赦し
合い、愛し合う関係を深めるのです。人に愛されることを待つのではなく、まず自分が愛
する者となることを求めます。創造者である神、主権者である神が、私たちを、光る海教
会の交わりに集められました。だから私たちは、互いに赦し合い、互いに愛し合いましょ
う。親切にし、優しい心で赦し合うなら、光る海教会は、神への香ばしい香として神に献
げられることになります。そうして、教会の中で愛を学んだ私たちは、教会外の人たちに
対しても、その人たちを愛し、親切にし、優しい心で赦す人となれるように、祈り求める
のです。私たちが、神に愛されている子どもらしく、神に倣う者となるとき、十字架の福
音の素晴らしさが証されていくことになると信じます。




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