2025年6月22日 礼拝「イエス・キリストによって歩く」使徒3:1~8
- hikaruumichurch
- 6月22日
- 読了時間: 9分
私たちは日々、様々な問題、課題に取り組んでいて、その解決を願っています。ただそ
の願っている解決は、本当の解決となるのでしょうか。自分が願っている解決は、本当の
必要を満たすのでしょうか。真の意味での解決になっているかと問うことは大切です。
今日の聖書の箇所に、ひとりの男性が登場します。生まれてこのかた、一度も歩いたこ
とのない男性です。この箇所を通して、私たちは、自分にとっての本当の必要は何である
のか、そしてその必要を満たすのは誰なのかを確認します。
4章22節を見ると、この男性は、40才余りであることが分かります。40年もの間、一
度も歩いたことがない男性です。歩くことはもちろん、立つことも経験がありません。歩
きたいなどと思うことも、とうの昔になくしていたのではないでしょうか。
2節。彼の毎日は「美しの門」に置いてもらい、宮に入る人たちに施しを求めることで
した。皆さまだったらどのような思いで生活するでしょう。来る日も来る日も、ただ座っ
て施しを求めている。どうしようもない諦めの中にいたのではないでしょうか。関心は、
今日は施しがどれだけあったかであり、多かった、少なかった、で一喜一憂する毎日。惨
めさなども、もう感じなくなっていたかもしれません。
そうこうするうち、最近、いつも午後3時に、宮に入る人を見かけるようになります。
祈りの時間です。1節の動詞は、いつもそうしている、という時制です。この男性は、祈
りの時間に、いつも決まって、二人の男性が宮に来るのを見るようになりました。ペンテ
コステ以降のことと思われます。聖霊に満たされた弟子たちは、当局を恐れることなく、
大胆に生活していて、ペテロとヨハネは祈りの時間に宮に来るようになっていました。
3節。それでこの二人に施しを求めたのです。いつも祈りの時間に宮に来る。それほど
熱心で、敬虔な人なら、きっと慈悲深く、沢山の施しをしてくれるに違いないと、大きな
期待を込めて声をかけたのだと思います。しかしその期待は裏切られます。しかし彼が全
く期待していなかった、彼にとっての真の必要を満たすことばが語られたのです。
この男性の心の動きを想像します。4~5節。大きな期待を寄せました。ペテロに見つ
められて、私たちを見なさいと言われたのです。これは多くの施しが期待できます。しか
し6節。その期待は失望に終わります。お金はない。期待が大きかった分、失望も大きく
なります。しかしその後、次に続くペテロの語りかけに、不可解な思いを持つのです。6
節後半の語りかけが何を意味するのか、すぐには理解できなかったでしょう。
「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」との招きに、大き
な戸惑いを抱いたはずです。立ち上がれ、歩けと言われても、どうすれば良いのか分から
ないのです。私たちは意識せずに歩いています。身に付いているからです。考えて歩こう
としたら、ぎこちなくなるかもしれません。しかしこの人は、立つことも、歩くことも、
どうするのか、全く見当がつかないのです。
6節と7節の間の、この男性の複雑な思いを想像してみましょう。右の手を取られて立
ち上がるまでの、彼の心の動きを完全に知ることはできません。ただ何も考えずに、すぐ
に立ち上がったとはとても思えないのです。その心は揺れ動いたことでしょう。ナザレの
イエス・キリストについて知っていることを思い巡らしたはずです。
エルサレムの神殿の美しの門にいたのですから、ナザレのイエスを見かけたことはある
はずです。イエスがなした数々の奇跡や語られた教えについて、伝え聞いていたとも思わ
れます。その教えの素晴らしさや、その人格の高貴さなどの情報、自分とは全く関係がな
いと考えていた一つ一つを思いめぐらして、ナザレのイエスによって歩くとはどういうこ
となのかを考えたはずです。二ヶ月ほど前、ナザレのイエスは十字架で処刑され、その
後、復活したという噂も耳にしたと思われます。そしてイエスの弟子たちが、イエスの十
字架の死と復活を信じるなら、あなたの罪は赦される、イエスは神の子であり、神ご自身
であると大胆に宣べ伝えていることも知っていたかもしれません。
今まで、ナザレのイエスと個人的に関わる機会はありませんでした。そのイエスを今、
ナザレのイエス・キリストの名によって歩きなさいと自分に差し出され、個人的に関わる
ように招かれている。そしてこの男性は決断します。イエス・キリストの名に、その主権
に賭けてみよう。十字架で処刑されたイエスを、自分もキリストとして、自分の主として
信じてみようと決断したのです。その信仰の表明として、立ち上がろうとしました。その
信仰の表明が彼をして、歩くことを得させたのです。今まで一度も歩いたことのない男
が、生まれて初めて歩き出しました。青天の霹靂とも言える体験でした。
12節と16節が大事です。ペテロが奇跡を起こしたのではありません。イエス・キリスト
の名が、その名を信じる信仰のゆえに、彼を歩かせました。ここが大切な点です。名は体
を表わします。イエス・キリストの名によって歩くとは、イエス・キリストの権威と力の
下で歩くということです。イエスをキリストと信じ、神であると認めて、その救いを受け
入れた時、その信仰がこの男性を歩かせました。16節の最後で、イエスによって与えられ
る信仰が、この人を完全なからだにしたのだと言われているとおりです。
完全にするとは、障害が取り除けられたことに留まりません。この男性は、イエスを神
として仰ぎ、自分の主と信じて生きることを始めたのです。この変化を聖書は罪からの救
いと宣言します。聖書の神、創造者である神と無関係に生きることを、聖書は罪と断罪し
します。その根本的な罪のあり方が、私たちをして、具体的な罪を犯させるのです。この
罪のあり方を止めて、創造者である神を自分の神として信じ、その絶対的な基準を生きる
一歩を踏み出すこと、これが悔い改め、まさに方向転換であり、罪からの救いです。
私たちも様々な問題を抱えています。その中にはもう駄目だと諦めていることも多々あ
るでしょう。しかしそれがどのような問題であっても、イエス・キリストの名によって歩
くなら、真の解決が与えられます。どんなに不可能と思えたとしても、必ず解決が与えら
れるのです。対人関係の問題も、家庭の問題も、肉体の疾患も、精神的な病も、自分の性
格や短所、欠点の問題も、その他のどんな問題でも、その根底には罪が関係しています。
創造者であるまことの神を神としない、神の絶対的な基準に聞かないで、自分の相対的な
判断で生きることが、聖書が指摘する根源的な問題であり、それが罪なのです。
皆様は、自分なりに、問題を認識し、その問題の解決を願っています。しかしそれらは
根源的な問題ではなく、根源的な問題から派生してきた表面的な問題です。だからその問
題が解決しても、別の、新たな問題が生じてきます。表面化してきた問題に悩み、解決を
得て安堵しても、また別の、新たな問題に悩まされるのですが、それは当然です。
全能の神は、私たちの根源的な問題である、創造者である神を自分の神としないあり方
から解放するために、イエス・キリストを地上に生まれさせました。そして私たちの罪に
赦しを備えるために、十字架で、身代わりに罪の処罰を受けさせたのです。この、十字架
で処刑されたナザレのイエスを、キリスト、救い主と信じ、受け入れるとき、私たちは神
の自分への愛を味わい知ります。その結果、愛の神を自分の神、自分の主とあがめる者と
なるのです。これが救いです。罪からの救いです。
罪からの救いに与った者は、神のことばである絶対的な基準を生き始めるのです。これ
ほどの幸いはありません。主イエスを信じる者は、神のことば、真理を歩むという、全く
新しい歩みを始めることで、真の祝福と恵みを味わうことになります。
「花の詩画」作家として有名な星野富弘さんをご存じでしょうか。星野さんは1970年
に、中学校の体育新任教師として赴任し2ヶ月後、クラブ活動の指導中に、鉄棒から落下
して頚椎を痛め、肩から下を全く動かすことのできない体になりました。その闘病生活の
中で、イエス・キリストを知らされ、聖書のことばから慰めを受けていきます。そして、
創造者である神から、存在そのものが大切であると見なされていることを知るのです。
入院して3年が過ぎ、星野さんはキリストの招き「すべて疲れた人、重荷を負っている
人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」との招きに応じ
て、イエス・キリストを、自分の救い主と信じ、自分の主とあがめて歩み始めました。主
イエスとの個人的な、人格的な関わりの中、心が主イエスの平安で満たされたのです。
詩画集の中で私の好きな詩の一つがレンギョウに添えられた詩です。「私は傷を持って
いる でも その傷のところから、あなたのやさしさをしみてくる」とあります。主イエ
スを信じ、創造者である神をあがめる者となると、物の見方、感じ方が変えられます。
星野さんは、自分ができなくなったことを嘆くのをやめました。あるもの、残っている
ものを用い、できることを感謝して伸ばし始めたのです。筆を口にくわえ、文字を書き、
絵を描く練習を積み重ねました。そうして、罪から救われたことを喜び、感謝して、主イ
エスにあって考えたこと、感じたことを、この世の相対的な価値観によってでなく、神の
絶対的な基準にあって表現し、詩と花の絵をもって、多くの人々に慰めと励ましを与え続
けたのです。去年78年の生涯を閉じましたが、障害を負っての彼の歩みは、本当に素晴ら
しいものであったと言えます。神のいのちに生きる者に与えられる幸いです。
全能の神は、星野さんを癒しませんでした。しかし、障害を抱えたままの存在だからこ
そ、彼の存在は、多くの人に良い影響を与える働き手として用いられました。主イエス・
キリストによって歩む歩みは、自分を生かし、他者を生かす、すばらしい歩みへと整えら
れたのです。障害を取り除くことによってでは得られない、星野さんの幸いと言えます。
だれもが、ナザレのイエス・キリストの名によって歩くことができます。十字架で処刑
されたナザレのイエスは、私を愛し、私を神のいのちに生かすために、身代わりに罪の処
罰を受け、罪の赦しを備えました。それは私のためであると信じることで、罪が赦され、
罪から救われて、神の絶対的な基準を基にして歩むことを得させるのです。
この幸いを、ぜひ、自分のものとして受け取ってほしいと願います。ナザレのイエスを
自分の救い主、自分の主、自分の神として受け入れることから始まります。




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