2025年4月27日 礼拝「傷に触れ、癒す主イエス」 ヨハネ 21:15~17
- hikaruumichurch
- 4月27日
- 読了時間: 9分
今日私たちは、主イエスとペテロとの対話を通して、主イエスのペテロに対する霊的な
取り扱いを確認します。ペテロには、主イエスを否認してしまったという後悔の念があり
ます。それはペテロの心を深く傷つけていたと思われます。主イエスは、ペテロのその傷
を放置しないで、あえてその傷に触れ、そして癒やしてくださいました。ここにペテロに
対する、主イエスの深い愛があります。その愛はあなたにも向けられています。
私たちは多くの場合、自分の傷を人に見せることを避けます。隠せるなら隠し通そうと
します。というのは、その傷を晒すことで、さらに傷つけられることがあるからです。心
ない人によって、また悪意によって、傷に塩を擦り込まれるような扱いを受けることもあ
るからです。だから、自分の傷は隠しておいた方が良いと思うのです。
しかし自分の傷を隠さずに、癒やされるなら幸いです。傷に塩を擦り込まれるような仕
打ちを受けるのではなく、その傷のゆえに優しさを味わえるなら幸いとなるのです。その
ためには、自分の傷をそのまま受け入れ、その傷に向けられる相手の優しさを素直に受け
止めることが不可欠です。主イエスはまさに、そのような優しさを向けておられます。
みなさまも傷を抱えているでしょうか。その大きさも、その原因も、そして自分の生活
に与えている影響も違っていることでしょう。その傷は被害者として、人々からつけられ
たものかも知れません。あるいは加害者として、間違いを犯してしまったことが、癒され
ない疼きとして残っている傷でもあるでしょう。
さて、復活された主イエスは、約束のとおり、ガリラヤ湖で弟子たちと会いました。弟
子として献身に招いた、その初心に立ち返らせる意図があったと思われます。それがヨハ
ネの福音書21章に記された出来事です。今日はその中で、特に、ペテロ個人との対話の部
分を取り上げます。15節。ペテロは、主イエスに対する大きく、深く刻まれた傷を持って
います。それは、主イエスを否認したという加害者としての傷であり、またそのような間
違い犯した自分は、もう主の役には立てない存在だという、自己評価を低めている傷でも
あります。それは主イエスに対する重い負い目となっていました。
今日の交読箇所で、ペテロが当初、自分をどのように見ていたのかを確認できます。ル
カの福音書22章31節。すべてをご存じの主イエスは、弟子たちが自分を見捨てて逃げ出
すことを予測して、その後についての示唆を与えました。サタンが弟子たちを麦のように
ふるいにかけることを願って聞き届けられたと告げたのです。主イエスの十字架刑は神の
救いの計画において、避けることのできない重要な出来事です。そして主イエスの予告の
通りに、弟子たちはみな逃げてしまいます。ここで私たちはサタンの存在とその権限につ
いて確認できます。聖書はサタンの存在を事実とします。サタンは私たちに霊的な攻撃を
仕掛けてきますが、それは主なる神の許可の範囲なのです。私たちはサタンを侮ってはな
りませんが、主とともにあるなら、たとえ躓いたとしても、立ち直ることができます。
ペテロは、自分が主イエスの一番弟子であると自負していました。33節。彼は自信満々
に言い切ります。主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はでき
ております。ペテロは心からそう思っていたのです。その思いに嘘はなかったでしょう。
しかし彼は、自分の肉の頑張りでは、到底太刀打ちできない恐れに見舞われたときの自分
の弱さを自覚していませんでした。だから34節の主イエスの予告に対しても、鼻であしら
うことまではしなかったでしょうが、深刻には捉えていませんでした。
しかし主イエスが捕らえられたとき、弟子たちも、ペテロも逃げ出します。ペテロは思
い直し、何とかイエスの後を追っていくのですが、一旦恐れを持った者にとって、肉の頑
張りでどんなに勇気を絞り出しても、それは通用しない空元気なのです。
55節。ペテロが、中庭で火をたいている人々の中に混じりながら、イエスの様子をうか
がっていると、56節、そこに居合わせた人々に、この人もイエスと一緒にいましたと言わ
れます。最初は召使いの女から言われ、次にほかの男から、あなたも彼らの仲間だ、と言
われます。59節。3度目は別の男が強く主張しました。確かにこの人も彼と一緒だった。
ガリラヤ人だからと。ペテロはその度に否定します。マタイの福音書とマルコの福音書に
は、呪いをかけて、そんな人は知らないと誓い始めたと記されています。
60節。その時、鶏が鳴くのです。61節。主イエスは振り向いてペテロを見つめられまし
た。その眼差し、ペテロを見つめられた主イエスの眼差しはどのようだったでしょうか。
62節。ペテロは主のことばを思いだして、外に出て行って、激しく泣きます。
主イエスのペテロへのまなざしは、赦しとあわれみに富んでいたと思われます。ほうら
言ったとおりだろと断罪し、見下す目ではなく、あなたの弱さを知ってるよ、なお愛して
いるよという眼差しと思われるのです。主イエスの愛とあわれみは、ペテロに注がれてい
ました。しかしペテロは、心に大きな傷を抱えたのではないかと考えられます。
ヨハネの福音書21章15節。イエスはペテロに「わたしを愛していますか」と問います。
この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますかと問われて、ペテロは持ち前の率直
さで、しかし控えめに、私があなたを愛していることはあなたがご存じですと、答えまし
た。イエスは再びペテロに問いかけられます。16節。
そして17節。三度目に問いかけられた時、ペテロは心を痛めます。それは、なぜ信用し
てもらえないのかという心の痛みではなく、あの十字架の前夜の出来事、自分が三度もイ
エスを知らないと言った、あの出来事を思い出しての心の痛みでした。しかしその問いか
けは、ペテロを断罪するためのものではなく、その失敗を責めるものでもなく、心の傷を
優しく癒すためのものであることが分かります。あなたの弱さを知っているよ。あなたの
失敗を赦しているよ、わたしの愛のうちにとどまっていなさいという語りかけなのです。
ただし主イエスは、ペテロの失敗を赦しつつも、その間違いとその原因を思い起こさせ
ます。これは同じ間違いを犯させないために、あえてペテロの弱い部分、つまり、自分の
肉の頑張りで事を行おうとする間違いに触れたといことです。肉の頑張りで事を行うので
はなく、主に愛されていることを確認し、主を愛するがゆえに、主に委ねられた使命に自
分を献げる。主に助けを求めて、主の支配と権威に自分を明け渡すことで、自分に委ねら
れた使命を果たすことができるのだと確認させようとされたのです。
私たちは自分の間違いを糾弾されても、過去の失敗の原因を突きつけられても、それで
解決できるのでも、回復されるのでもありません。傷を指摘されても、それで癒されるの
ではないのです。私たちに必要なのは愛と赦しと助けです。自分は愛されている、自分は
赦されているという、その確認です。ありのままの自分が、罪を犯してしまった自分が、
弱さを抱え、傷を持っている自分が、そのまま愛されている、受け入れられていると確認
することで、まさに傷そのものに触れられ、癒しを味わうのです。
主イエスはあなたをも、そのままで愛して、受け入れておられます。この主イエスの自
分に対する愛を味わい、その愛に応えて、主イエスを愛し、主と共に歩み始める時、自分
を取り巻く状況は何も変わっていなくても、新しいいのちに生きることになります。
私たちは主の御前で、自分の弱さを隠してはなりません。自分を強く見せようとしては
ならないのです。自分にはできないこと、自分にはないこと、自分の弱さや欠けを見て落
ち込むのではなく、主イエスの愛と恵みに目を向け、助けを求めることが大事です。
自分にできること、自分にあるものに目を向け、それを感謝して、用いることが大切な
のです。主イエスが与えるいのちは、自分にないもの、できないことを見て、嘆き、失望
し、意気消沈することを止めさせます。不平不満から解放させます。そうして、自分にで
きること、あるものを感謝し、それを生かす歩みへと導くいのちなのです。
使徒の働きに記されているペテロの生涯は、大胆そのものです。それは肉の頑張りによ
る大胆さではなく、神の助けに頼り、その大能の力によって福音を伝え、宗教指導者たち
からの圧迫に対しても屈しない大胆さでした。自分の弱さを認めて、神の強さに自分を委
ねることで与えられる神の強さによる大胆さです。そうしてペテロは、永遠のいのちに望
みをおく者として大胆に使命を果たし、主の定められた時に殉教するのです。
主なる神の私たちへの語りかけは「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあ
なたを愛している」です。この語りかけは、私たちが強い者、有能な者、役に立つ者だか
らではありません。私たちは人と比較して、強い部分、弱い部分、優れている部分、劣っ
ている部分を併せ持っています。それぞれに得意な部分、不得意な部分を併せ持つ者たち
です。私たちが強くても、弱くても、ある能力に秀でていても、別の能力に欠けていて
も、私たちの状態に関わりなく、すべての人に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。
わたしはあなたを愛している」と、主なる神は語りかけ続けます。
創造者である神の私たちへの愛は、主イエスの十字架によって明らかに示されました。
主イエスは、私たちの罪の身代わりとして、十字架で罪の処罰を受け、三日目に死者の中
からよみがえることで、私たちに罪の赦しを備えてたのです。私の罪、あなたの罪は赦さ
れました。主イエスの十字架の死は、全人類の罪の処罰を終わらせたのです。私たちがす
ることは、この罪の赦しを、感謝して受け取ることです。
あなたも愛されています。いのちを捨てるほどの愛で、主イエスはあなたを愛しておら
れます。その愛は、あなたが抱えている傷をも癒やします。主イエスは、あなたが抱えて
いる傷に触れて、癒やしてくださるのです。自分の傷を、自分の罪を隠してしまうのでは
なく、主イエスの前にさらけ出して、癒やされること、赦しを受け取ることが大事です。
あなたは愛されています。




コメント