2025年5月18日 礼拝「神の義と宥めのささげ物」ローマ3:23~30
- hikaruumichurch
- 5月18日
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ローマ人への手紙を通して、私たちは、福音とは何であるのかを確認できます。福音と
は御子イエスに関するもので、ユダヤ人をはじめギリシア人にも信じるすべての人に救い
をもたらす神の力です。神の御子、主イエスを信じる人すべてに、救いを得させます。福
音は、主イエスの十字架による、罪の赦しと罪からの救いへの招きです。その招きに応じ
るなら、神はだれをも救うという喜びの良き知らせです。
神にはえこひいきはありません。初めの契約では、神を信じたことの証として、神のこ
とばを生きることが、神の民となる条件でした。だから神のことばを退ける者は、神の民
とされたにもかかわらず、神の国から除外され、滅ぼされたのです。新しい契約では、神
の御子イエスを信じることが救いの条件です。十字架で差し出された罪の赦しを受け取る
ことで、救いに与ります。これが福音、良き知らせ、喜びの知らせです。
3章でパウロは、ユダヤ人が抱いている特権意識を念頭に書き送っています。ユダヤ人
が神の民とされたことのゆえに与えられたすぐれた点を確認しつつも、そのユダヤ人を含
め、すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができない事実を指摘した上で、す
べての人に神の恵みが与えられていると伝えるのです。23~24節。
すべての罪人に、神の恵みが注がれています。恵みとは、受けるに価しない者に与えら
れる厚意、祝福です。創造者である神は、罪のゆえに滅ぼされて当然の私たち罪人を救お
うとされるのですから、これは恵み以外の何ものでもありません。
この神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められる
道が開かれました。これはまさに一方的で、先行的な神の恵みです。創造者である神は、
神の御子を人として、地上に遣わされました。これは御子イエスの恵みとも言えます。神
のあり方を捨て、私たちと同じ肉体を取り、人となって、地上に生まれてくださったから
です。肉を取られた結果、霊の存在でなくなりました。肉体を持つことで時間と空間の制
約を受けます。神の特質の一つに、あらゆる所に同時におられる、遍在があります。主イ
エスは人となられたことで、遍在という神としての特質を捨てました。パウロはピリピ人
への手紙2章で記したキリスト賛歌において「キリストは、神の御姿であられるのに、神
としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人
間と同じようになられました」と書いた通りです。しかも十字架で死ぬために、罪の贖い
の代価となるために、いのちを捨てるために、この世に来られたのです。
贖いとは、代価を払って買い戻すことです。私たちは神のものであったのに、罪のゆえ
に神のものではなくなりました。その私たちを、再びご自分のものとするために、贖いを
したのです。その代価は、キリスト・イエスの十字架で流された血です。罪の贖いは血に
よるというのが、旧約聖書から続く神の救いの方法です。罪の赦しには動物の血が流され
ることが必須でした。しかし動物の血は、全人類のすべての罪を赦すための贖いの代価と
しては不十分です。そのため神は、神の御子の血を、贖いの代価とされたのです。
福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力
です、とあります。神が恵みによって、キリスト・イエスの十字架による、罪の赦しと罪
からの救いを差しだしてくださいました。神が私たちを救います。私たちを信仰に招き、
信仰に応じる者を救われるのです。義と認めるとは、無罪の宣告をすることです。私たち
は数々の罪を犯しており、そのゆえにさばきを受け、罰せられて当然なのですが、罪は全
くないとみなし、罪を全く犯していないと見なしてくださるのです。主イエスの十字架の
贖いを受け入れる者に、キリスト・イエスを信じる信仰のゆえに、無罪の判決が言い渡さ
れます。まさしく神の恵みです。神の恵みに与ったことに感謝を新たにしましょう。
25節。パウロは、神はこの主イエスを、信仰によって受けるべき、血による宥めのささ
げ物として公に示されたと記しました。宥めるのは怒りです。主イエスは神の怒りを宥め
るささげ物となるために人として来られ、十字架で処刑され、血を流されたのです。
神の怒りは、1章18節で言われているように、私たちが抱えている神に対する不敬虔と
人に対する不義に向けられています。ここに私たちは、神への感謝があふれるのです。神
のあわれみがここに表されています。神は罪を犯している罪人の私たちを怒っておられる
のではないということです。罪人の私たちをではなく、私たちが抱えている不敬虔と不義
を怒っておられるのです。すべての人は罪を犯しており、神はその罪に、怒りを向けてお
られます。神にはえこひいきがありません。ユダヤ人だから、ユダヤ人でないからと差別
されることはないのです。罪を抱えたままなら、必ずさばかれ、罰せられます。
私たちの日常生活を振り返りましょう。日々私たちは、何らかの罪を犯しています。し
かしすぐには罰せられません。神の私たちに対するあわれみです。罪を悔い改める猶予期
間を設けてくださっているということです。神は罪を見過ごしておられ、私たちを罪の悔
い改めに招いているのです。神の義を明らかにするためです。
26節。私たちは知らなければなりません。神は創造者であり、主権者です。そうして主
イエスを信じた私たちは、創造者である神を、主権者である神を認め、受け入れました。
そうであれば、神が義であることをも受け入れたのです。神が義であり、そうして神は、
主イエスを信じる者を義と認めてくださいます。神の御子イエスを、人としてこの地上に
遣わされた神は、十字架によって罪の贖いをし、死者の中から復活させたことで、ご自分
の義がなんであるかを明らかにされたのです。
27節。パウロがここで、私たちの誇りと述べたのは、直接的には、ユダヤ人たちが主張
している、神の民として選ばれ、律法が与えられ、その律法を行うことで神に義と認めら
れるという自負であり、誇りです。しかし、その誇りは神には認められません。取り除か
れたからです。神の御子イエスが人として遣わされ、十字架で罪の処罰を受けたことで、
神の救いのみわざを信じ、受け入れる信仰によって、神に義と認められることが明確に示
されたからです。行いによってという誇りは取り除かれたのです。
人はみな、自分の行いを誇りたくなるものです。自分の成功談や残した業績を自慢した
いのです。ユダヤ人であるなら、自分たちは神に特別に選ばれた民であると誇り、モーセ
を通して与えられた神の律法を持っていることにおいても選民意識を強めています。異邦
人である私たちも同様です。相対的な基準で人と比べて、自分の方が優っていると自己肯
定をします。人はみな自分を誇りたいのです。しかしそれらの誇りは、主イエスを信じる
信仰がもたらされたことによって取り除かれました。創造者である神は、人に罪の事実を
突きつけ、その赦しのために、主イエスの十字架による贖いを設けたからです。人が神に
義と認められるのは、主イエスを信じる信仰によってのみです。
28~30節。律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められる。これが神が示
された義です。まことの神は、創造者である神おひとりだけです。すべてのものは創造者
である神によって造られたので、人が神々としているものもすべて被造物です。神ではあ
りません。ユダヤ人にとっても、ユダヤ人以外の人にとってもまことの神は、創造者であ
る神以外には存在しないのです。この唯一まことの神が、すべての人を信仰によって義と
認めてくださいます。割礼のある者も、割礼のない者も、差別はありません。神にはえこ
ひいきはないからです。すべての罪人を、信仰によって義と認めてくださるのです。
罪の報酬は死です。この厳粛な定めを軽視してはなりません。すべての人は罪を犯して
いて、神の栄光を受けることはできません。十字架による罪の赦しを受け取らなければ、
すべての人は、自分の罪のゆえに罰せられ、滅ぼされるのです。
公正な神は、罪人が犯した罪を必ずさばき、罰します。神の義です。しかし神は愛であ
るゆえに、私たち罪人を救おうと道を備えてくださいました。十字架で死なれたキリスト
を自分の救い主を信じ、受け入れるなら、その信仰によって義と認めてくださるのです。
義と認めるとは法廷用語で、無罪とするという語が使われています。罪があるのに、罪が
ない者と見なす、罪を犯してきたのに、罪を犯さなかったと見なすということです。裁判
官が法廷で無罪の判決を言い渡すこと、これが義と認めるということです。
この際に、どんな善い行いも、業績も要りません。信仰によってのみ与えられる神の恵
み、プレゼントです。プレゼントですから、感謝して受け取るか、要らないと拒否するか
は受け取る側が決めます。創造者である神が、私たち人間に自由意思を備えて、人格的な
存在として創造されたので、私たちの自由意思による判断に任せたのです。だから福音は
喜びの知らせであり、そのままさばきの宣告ともなるということです。
主イエスを信じる者はだれもが救われます。どれほど極悪非道な人生を歩んできたとし
ても、自分の罪を認め、赦しを請い、主イエスを信じるなら、そのすべての罪はなかった
ことにされます。しかし主イエスを信じないなら、十字架の死による罪の赦しを拒むこと
になり、救われません。どれほど公明正大に生き、様々な業績を残したとしても、何らか
の罪は犯しており、赦しの受け取りを拒否して地上生涯を終えるなら、死後のさばきの座
において、赦されないで残っている罪はさばかれ、滅ぼされます。これが福音です。
なぜ神の御子は、人とならなければならなかったのか。なぜ主イエスは、十字架で死な
なければならなかったのか。それは神が義そのものであり、どんな些細な罪も必ず罰しな
ければならないからです。その罪に赦しを備えるために、神の御子は人としてこの地上に
来られました。全人類の罪の処罰を代わりに受けるために、主イエスは十字架で処刑され
たのです。神の怒りを宥めるために、宥めのささげ物となりました。私たち罪人を愛され
たので、私たちを罪と滅びから贖い出すために、主イエスは十字架で死なれたのです。
私たちは福音を正しく理解しましょう。神が義であることを正しく知り、神を正しく恐
れましょう。神を侮ってはなりません。そうして神が愛であることを喜びましょう。私た
ち一人ひとりをこよなく愛して、私たちを神の祝福で満たそうとしておられることを確認
して、神のことばに、神の御思いに、自分を合わせるのです。
今週のみことば。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この
方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。心から感謝しま
しょう。




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