top of page

2025年6月15日 礼拝「信仰が義と認められる」ローマ3:31~4:25

  • hikaruumichurch
  • 6月15日
  • 読了時間: 9分

 3章28節でパウロは、人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると

考えていると書き記しました。それに対して生じる疑問とその答えが31節です。

 31節。疑問は、律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められるならば、信仰

は律法を無効にするのか、ということです。しかしパウロは、決してそんなことはないと

断言しました。信仰は、律法を確立すると言い切ったのです。

 この律法とは、神がモーセを通して与えられた初めの契約における律法です。ユダヤ教

指導者たちは、神の律法を守り行わせるために、実生活にどのように適用するかと、事細

かな規定を作りました。それらは言い伝えの律法と言われ、宗教指導者たちが設けた人間

的な定め、教えです。それらの規定を守ることに、神の民は疲れ果てていたのです。主イ

エスは宗教指導者たちに、自分たちに伝えられた言い伝えによって、神のことばを無にし

ていますと語りました。今日の聖書交読箇所にあるとおりです。

 パウロは、信仰は律法を確立すると断言しましたが、どうしてそう断言できるのでしょ

うか。創造者である神を信じる信仰とは、神を自分の神としてあがめ、神のことばに、そ

の通りですと同意して一歩を踏み出すことです。神の基準に自分を合わせて歩むのです。

その時、神のことばは信じる者を生かします。その結果、神の律法を確立することになる

のです。肉の頑張りでは行えません。その具体的な例として、信仰の父アブラハムを取り

上げ、その信仰の歩みを確認させます。

 1~3節。肉による私たちの父祖とは、血筋においてユダヤ人の父祖という意味です。

アブラハムは信仰による義を見出しました。行いによって神に義と認められたのではあり

ません。アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められたとある通りです。

 アブラハムは何を信じたのでしょうか。創世記12章からアブラハムの生涯が記されてい

ますが、彼は神の語りかけに応じて、行き先を知らずに、カナンの地に関する情報が何も

ないのに、神と神のことばを信じて、生まれ故郷を離れて、出かけました。神が祝福する

と約束されましたが、どのような祝福なのかも具体的には告げられていませんでした。

 また、まだ子どもがいない時に、しかも妻サラは不妊であり、アブラハムは80歳を過ぎ

ているのに、神はアブラハムに、あなたの子孫は天の星のようになると言われました。ア

ブラハムは、神と神のことばを信じたのです。この信仰が神に義と認められました。信じ

る者の歩みの上に、神のことばによる約束は実現していくのです。

 4節。私たちは働くことで賃金を得ます。雇用者には労働者の働きに報酬を支払う義務

があります。もし雇用者が労働者に賃金を支払わないなら、それは労働力の搾取であり、

罰せられる罪です。働く者が報酬を受け取るのは当然の権利です。働く者には、その働き

に見合った報酬を受け取る権利があるのです。

 5節。しかし何の働きもないのに、生活の支援を受けるなら、それは恵みです。与える

人の厚意によって、与えられる恵みです。神が義と認めてくださることも同じです。すべ

ての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができないと言われ、罪の報酬は死ですと断

言されています。私たちが抱えている罪に神の怒りは向けられていて、その罪のゆえに私

たちは罰せられます。当然罰せられるべき私たちが罰を免れ、罪を赦され、救いに与れる

のは、罪を赦してくださる神の恵みによることです。

 私たちは、創造者である神を認めませんでした。これがすべての人の出発点です。そし

て様々な罪や悪を犯していました。まさに神に義とされるものは何もありません。しかし

このような不敬虔な者であっても、神は義と認めてくださる方であると信じる人には、そ

の信仰が義と認められるのです。ここに神の恵みがあります。

 6~8節。ダビデは、罪を赦されることの幸いを詩にしました。不法を赦され、罪をお

おわれた人たちは幸いであると歌ったのです。神が義とお認めになる人とは、主が罪をお

認めにならない人と言い換えられています。その人たちは幸いなのです。

 9節。ダビデを取り上げたことから、罪を赦される幸いは、割礼のある者、すなわち神

との契約を結んで神の民とされたユダヤ人だけに与えられると考える人々を想定して、パ

ウロは、そうでないことを示すために、再度アブラハムを取り上げます。アブラハムが、

神に義と認められたのは、その信仰のゆえであると強調するためです。

 10節。アブラハムが神に義と認められたのは、アブラハムが割礼を受ける前でした。割

礼が定められる前に、アブラハムには、その信仰が神に義と認められたのです。割礼を受

けることが、神に義と認められるための条件ではありませんでした。

 11節。アブラハムは、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められました。そ

の証印として、割礼というしるしを受けたのです。私たちがバプテスマを受けることも同

じです。バプテスマを受けることが義と認められ、救われることではなく、義と認められ

たこと、救われたことの客観的な証印としてバプテスを受けるのです。新しい契約では、

主イエスを信じる信仰によって、神に義と認められます。バプテスマは、神に義と認めら

れたこと、救われたことの証印、客観的なしるしとして受けるのです。

 アブラハムは、割礼を受ける前に、信仰によって義と認められました。これは、割礼を

受けないままで信じるすべての人の父となるためです。割礼を受けていなくても、すなわ

ちユダヤ人でなくても、神を信じるなら、その信仰が義と認められることの先例です。

 12節。単に割礼を受けているだけとは、旧約の神の民イスラエル、ユダヤ人すべてを指

しています。しかし割礼を受けていることが、神に義と認められることにはなりません。

割礼を受けているとは、肉によるアブラハムの子孫であることの証明とはなります。そし

てアブラハムが割礼を受けていないときに、信仰によって神に義と認められた、その信仰

の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となる、すなわち信仰によって神に義

と認められる者の父となる、その先例なのです。

 13節。創造者であり、主権者である神が、アブラハムを選ばれたのは、アブラハムを世

界の相続人とならせるためです。世界の相続人となるという約束は、アブラハムとその子

孫に与えられました。この約束が与えられたのは、モーセを通して神の民イスラエルに律

法が与えられる500年以上も前のことです。つまり世界の相続人となるという約束は、律

法を行うことによってではなく、神を信じる信仰によって与えられました。その約束の実

現のために、信仰による義を条件にすることで、ユダヤ人だけではなく、すべての人にそ

の約束が及ぶのです。条件はアブラハムの信仰に倣うことです。

 新しい契約の現代、新約に生きる私たちは、主イエスを信じる信仰が、神に義と認めら

れる条件であり、キリスト信仰者は信仰によるアブラハムの子孫となりました。アブラハ

ムは信仰によって、割礼のある者にとっても、割礼のない者にとっても、すべての信仰者

の父となりました。こうして世界の相続人となるという約束が実現したのです。

 14節。律法の行いによって神に義と認められるとするなら、律法を与えられた者たち、

ユダヤ人だけが相続人となります。律法の行いが条件ですから、信仰は不要です。それは

アブラハムへの約束、世界の相続人となるという約束を無効とすることです。ユダヤ人に

ならなければ、神に義と認められなくなるので、世界の相続人とはなれません。

 15節。律法が定められなければ、違反とする根拠はなくなります。私たちの国は法治国

家です。法治国家は、様々な法律を定めることで社会秩序を保ちます。交通ルールもいろ

いろありますが、皆がそれらのルールに従うことで、交通安全が保たれます。信号無視に

関する罰則がなければ、各車が信号を無視して我先にと交差点に入っても違反にはなりま

せん。ただし交通事故は頻発し、死傷者が出ます。様々な罰則が定められたことで、違反

者を取り締まることができ、法律遵守に対する自覚が深まるのです。神の律法に違反する

者に、神の怒りが向けられています。神は律法を定め、違反に対する罰則も定めました。

 16節。すべての人は罪を犯しており、律法を行うことによっては、誰も神に義と認めら

れないので、信仰による義が定められました。アブラハムが神に召されたのは、先行的な

神の恵みによること、信仰が義と認められたのも、神の先行的な恵みによることです。そ

の結果、アブラハムへの約束は、すべての子孫に、すなわち律法を持つ人々、ユダヤ人だ

けでなく、アブラハムの信仰に倣うすべての人、全世界の人々に保証されたのです。アブ

ラハムは私たちすべて、神を信じる者すべての父となりました。

 17節。神の先行的で、一方的な恵みによって、アブラハムが選ばれ、多くの国民の父と

されのは、アブラハムに選ばれる功績があったからではありません。神が選び、声をか

け、約束へと招きました。この神を、アブラハムは全能の神と信じ、招きに応じました。

死者を生かし、無いものを有るものとして召される主権者としての神を信じたのです。

 18~19節。アブラハムは、望み得ない状況で、人間的な常識で考えるなら不可能と思

える神の約束を信じたのです。約束の子イサクの誕生は、99歳の時に告げられました。妻

サラは子を産んだことのない89歳の老婆です。しかし彼は、全能の神を信じました。神が

語られたなら、それは必ずその通りに実現すると信じたのです。

 20~22節。アブラハムは人間的な常識で神のことばを退けることをせず、全能の神であ

ると信じ、語られたことばの通りになると信じました。人間的に見るなら不可能としか思

えない状況でも、不信仰にはなりませんでした。神に栄光を帰すとは、神を神として崇め

て、神の約束は実現すると信じきることです。その信仰が神に義と認められるのです。

 23~24節。その信仰が神に義と認められたのは、私たちのためでもあります。私たち

のために、全能の神は、神の御子を人として地上に遣わし、肉体を取らせ、私たちの罪の

処罰のために十字架に死なせ、私たちの罪の贖いとしました。十字架の死と死者の中から

復活を信じる私たちも、その信仰が神に義と認められるのです。

 25節。神の救いの計画は、神の御子、主イエス・キリストの十字架の死と復活による罪

の赦しと罪からの救いです。主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たち

が義と認められるために、よみがえられました。主イエスは、私たちが受けなければなら

ない罪の罰を、代わりに受けて、罪に赦しを備えました。そしてあの十字架の死は、罪を

赦すための神の計画が真実であると証明するために、主イエスは、三日目に死者の中から

復活されたのです。この神のみわざを、自分のためであると信じる、自分に罪のあること

を認め、悔い改めて、罪の赦しを受け取る、その信仰が、神に義と認められるのです。

 この信仰以外に、神に義と認められる術はありません。どんな行いも、神の基準を満足

させることはできないことは、旧約の神の民、イスラエルの歴史で証明されています。信

仰によるとは、神の一方的な恵みによることなのです。ここに、私たちの誇りは取り除か

れました。へりくだって、神の恵みを感謝して受け取るだけです。

ree

 
 
 

コメント


bottom of page