2025年4月20日 礼拝「信じる者になる幸い」 ヨハネ20:19~31
- hikaruumichurch
- 4月20日
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イースターおめでとうございます。主イエスの復活を記念する日、イースター礼拝の日
を迎えました。主イエスは十字架で処刑されて死に、墓に葬られ、三日目にその墓は空に
なりました。遺体がなくなったのです。ここまでは歴史的事実です。そしてその後、だれ
も主イエスのからだを指し示すことなく今日を迎えています。聖書は、旧約聖書で預言さ
れた通り、主イエスが予告した通りに、死者の中から復活したのだと証言します。
私たちの理性は、死んだ者が復活するなどあり得ないと拒絶します。それは当然のこと
ですし、信じられないとしても責められることはありません。しかし人間的には不可能と
しか思えない死者の中からの復活も、全能の神、不可能のない神にとっては、容易いこと
なのだと認めること、そして事実として受け入れることが大事です。
3年間、主イエスのそばにいて様々な教えを聞き、主イエスがなす数々の神であるしる
しとしての奇跡を見せられてきた弟子たちも、十字架で処刑され、死んでしまった主イエ
スが復活することは、到底信じられないことでした。主イエスご自身が繰り返し、ユダヤ
教指導者たちによって殺され、三日目によみがえらなければならないと語っていたにも関
わらず、弟子たちは主イエスの復活を信じようとしませんでした。死者の復活など信じら
れないというのは当然です。
そのような弟子たちが、突然、主イエスの十字架の死と復活を大胆の語り始めました。
そして語り続けたのです。なぜそのように変わったのでしょう。弟子たちは、復活された
主イエスにお会いしたと証言しました。決して信じようとはしなかった弟子たちが、ある
日を境に、主イエスの復活を事実として宣べ伝え、主イエスの十字架の死は、私たち罪人
の罪を赦すために受けた身代わりの処罰であると語り続けたのです。
私たちが問うべきことは、主イエスが死者の中から復活したことは事実か、それとも弟
子たちによる作り話か、ということです。信じられるか、信じられないかではなく、事実
なのか、嘘偽りなのかを考えるべきなのです。嘘偽りなら、受け入れてはなりません。事
実なら、どんなに信じられなくても、事実として受け入れるべきです。主イエスが事実復
活されたなら、ナザレのイエスは神の御子であり、神ご自身であるとなります。そして主
イエスの十字架を信じる信仰によって私たちの罪が赦されるという神の約束、罪から救う
という神の恵みもまた、事実となるのです。
復活された主イエスは、その日の夕方、弟子たちの所に姿を現しました。19節。この日
の早朝、主イエスが葬られた墓に出向いた女性たちは復活された主イエスにお会いし、そ
のことを弟子たちに伝えたのですが、弟子たちは女性たちの証言を信じようとしませんで
した。マタイ、マルコ、ルカは福音書にその事実を記録しています。
墓に出向いた女性たちは、ヨハネの福音書ではマグダラのマリヤだけです。1節。ただ
2節のマリヤのことばを見ると、私たちには分かりませんとありますから、複数人いたこ
とが分かります。マタイの福音書では、マグダラのマリヤと他のマリヤの二人、マルコの
福音書では、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメの三人、ルカの福音書では、
マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤ、そして他の女たちとありますから、少
なくても五人の女性たちが墓に行ったと分かります。
複数の女性たちが主イエスの遺体に香油などを塗ろうとして墓に行った時に、墓はもぬ
けの空となっており、御使いから主イエスの復活を聞かされたのです。その出来事を、こ
れら複数の女性たちが証言しても、弟子たちは信じようとしませんでした。
19節。主イエスは、弟子たちにご自分を現しました。弟子たちは、ユダヤ当局に捕まる
ことを恐れて、戸を閉め切って隠れていたのです。恐れを抱いている弟子たちに、主イエ
スは、平安があなたがたにあるようにと語りかけました。主イエスの復活を信じられず、
恐れて隠れている弟子たちに、何よりも必要なのは、神にある心の平安です。
20節。その上で、主イエスは、弟子たちがご自分の復活を事実として受け止められるよ
うにと、十字架に釘づけられた手と槍で刺し通された脇腹を示されたのです。弟子たちは
復活の主を見、その事実を確認することによって、喜びに満たされました。しかし24節、
そこに弟子の一人トマスはいませんでした。
それからの一週間について、ヨハネは主イエスについて何も記していません。25節。こ
の一週間を想像してみましょう。復活の主イエスを見た弟子たちは喜び、興奮しながら、
繰り返し、主イエスが語られたことばやその時の様子をトマスに伝えたことでしょう。し
かしトマスは頑なに信じようとしなかったのです。自分が納得できる証拠がなければ、決
して信じないと言い切ります。これが信じない者の姿です。自分が信じられる条件に当て
はまらない限り決して信じないと決めているのです。これが不信仰です。
これはとても残念なことです。自分が信じられる状況が与えられたなら、それを事実と
して認めるのは当然であって、そこに信仰は要りません。自分にはとても信じられそうも
ないけれど、主なる神が語っておられるから、その通りですと同意すること、これがキリ
スト信仰です。信じる者になるとは、神のことばだから受け入れる人になることです。キ
リスト信仰とは、自分が納得して信じることよりも、主なる神を信じた者として、主なる
神が語られたことだから、同意して受け入れる信仰です。
トマスに主イエスの復活を知らせたのは、信頼の置けない、どこの馬の骨とも分からな
い人々ではなく、3年の間、主イエスの弟子として、共に訓練を受け、寝食を共にしてき
た仲間です。喜びや悲しみ、楽しみやつらさを共有してきた仲間、そして今も一緒に行動
している仲間です。しかも主イエスご自身が、繰り返し、十字架での死と復活について予
告しておられたのです。しかしトマスは信じようとしませんでした。自分が納得できる形
で確認できなければ決して信じないと言い張るのです。
自分の手を槍で刺し通された主イエスの脇腹に差し入れ、自分の指を十字架に釘づけら
れた所に差し入れて確認しなければ信じないと主張したトマスに、主イエスは、トマスが
言った通りのことをさせることで、ご自分の復活を分からせようとされました。主なる神
は、私たちの状態に合わせて、私たちが信じられるように、忍耐をもって関わってくださ
るのです。主のあわれみ、その深い配慮にただ感謝するだけです。
26節。主の復活の日から一週間が過ぎ、トマスも一緒に、弟子たちは一つ所に集まって
いました。その真ん中に主イエスが立たれ、平安があなたがたにあるようにと語りかけま
した。主イエスが、弟子たちに確認させたいことは、主なる神の平安があるということ、
そしてその平安の中を歩み続けることの幸いです。私たちも、主イエスが与えてくださる
神の平安の中を歩んでいます。この幸いを確認し、味わうことが大事です。
27節。主イエスがトマスに語りかけました。トマスが口にした通りをするように促した
のです。トマスに、釘づけられた手を見せます。槍で刺された脇腹を示します。絶対に否
定できない状況を備えることで、トマスに復活の事実を受け入れさせたのです。そして語
りかけました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。
信じない者とは、端から否定する者のことです。信じるべきか、信じてはならないのか
と、その内容を吟味しないで、端から信じないことを選び取る者です。信じない者になる
ことの警告をトマスにしました。私たちも気をつけなければなりません。神のことばは明
確であるのに、非現実的だと自分で決めて、拒絶してはなりません。
では、主イエスの復活が事実なのか、作り話かを考えましょう。弟子たちは臆病でし
た。捕まること、殺されることを恐れて隠れていたのです。もし彼らが主イエスの復活を
作り出したとして、その嘘のためにいのちをかけることなどしないでしょう。弟子たちは
みな、主イエスの復活が事実であると語り続け、主イエスの十字架によって、罪の赦しが
もたらされたと、罪からの救いを伝え続けました。そのために迫害され、ある弟子たちは
殺されたのです。自分たちが作った嘘のためにいのちを捨てる者はほとんどいません。
主イエスの遺体をだれも捜し出せていないことも、復活の事実を伝えます。宗教指導者
たちも、ローマ当局も、弟子たちを迫害し、脅して、信仰を捨てるよう迫り、福音を伝え
てはならないと命じました。しかしそのような命令を出さなくても、イエスの遺体を捜し
だして、それを突きつければ、復活を否定できます。しかしユダヤ当局もローマ当局も、
そうはしなかったのです。弟子たちが盗んで隠したのなら、弟子たちを拷問にかけ、イエ
スの遺体の隠し場所を吐かせれば良いのに、何もしませんでした。弟子たちが盗んでいっ
たのではないと、宗教指導者たちは承知していたからです。
弟子たちが大胆に主イエスの復活を語り続ける姿、反対者たちがイエスの遺体を捜し出
せない現実、などなど、主イエスの復活は事実であるとした方が、すべてを合理的に説明
できます。そして主イエスの復活は事実であるなら、主イエスは神であり、救い主であっ
たことの証拠となるのです。聖書は信頼できる神のことばとなります。
28節。トマスは復活の主イエスを前にして信仰告白をしました。納得できる条件を満た
したので受け入れたのです。そのようなトマスに対して、主イエスが語りかけます。
29節。否定できない事実ですから受け入れるのは当然です。そこに信仰は要りません。
事実として認めるだけです。見ないで信じるとは、神のことばだから信じるということで
す。神のことばだからと同意して受け入れる信仰姿勢を、主イエスは求めたのです。
私たちも、神のことばだから同意して受け入れる信仰姿勢を身につけましょう。主イエ
スの十字架は、私に罪の赦しを与えるための、身代わりの処罰です。これほどの愛、十字
架でいのちを捨てるほどの愛で愛されています。十字架で死んで終わりではなく、死者の
中から復活したことにより、主イエスは全能の神であることも示されました。そして、信
じない者ではなく、信じる者になりなさいと、私たちをも招いておられます。
私たちは、十字架で処刑されたイエス・キリストは復活されたことを事実として受け入
れます。だから復活された主イエスを神、救い主、自分の主と受け入れるのです。その上
で聖書に記された神のことばを神のことばとして受け入れ、神のことばだから、それに自
分を合わせて歩むことをするのです。神のことばだから信じる幸いを身につけましょう。




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