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2025年3月30日 礼拝「わたしを試してみよと言われる主」マラキ 3:7~12

  • hikaruumichurch
  • 3月30日
  • 読了時間: 9分

 今日の箇所に、主なる神の、神の民イスラエルに対する衝撃的なことば「あなたがたは

わたしのものを盗んでいる」が記されています。これはどういうことでしょうか。

 イスラエルが神の民とされたのは、神との契約関係を結んだことによります。彼らは礼

拝共同体として召され、その召しに応えて、神との契約関係に入り、礼拝共同体として歩

み始め、唯一まことの神を証する民とされました。その歩みをするための様々な規定が律

法として定められたのです。礼拝共同体としての中心的な働きをするのが祭司とレビ人た

ちです。彼らは、民全体を、主なる神へのふさわしい礼拝者とするために、事細かな儀式

律法に仕えたのです。祭司やレビ人が生活の心配をすることなく、その努めに勤しむこと

を得させるために、イスラエル12部族は、10分の1を献げることで、レビ部族の生活保

障をしました。これが10分の1の規定です。神との契約ですから、義務、責任です。

 マラキが主の預言者として活動したのは、イスラエルがバビロン捕囚から帰還した後の

時代で、紀元前400年代と考えられています。エルサレムの神殿は再建されました。そし

て神殿を再建するという輝かしい事業を終えたことで満足して、民の多くは、自分の生活

再建に取り組んだのです。その結果、礼拝共同体としての整備は後回しにされました。神

殿は完成しました。喜びと感謝に満たされたことでしょう。しかし建物ができても、主な

る神への礼拝共同体としての歩みをしなければ、建物としての神殿は無用の長物です。

 神の民イスラエルは、この状態は仕方がないとしました。自分の生活再建ができていな

いのだから、レビ部族の生活保障は後回しにするしかないと考えました。しかし民が10分

の1を献げないので、レビ部族は祭司やレビ人としての務めに従事できなくなり、礼拝共

同体としての神の民イスラエルは存在意義をなくす、危機的な状況に陥ったのです。

 10分の1と奉納物は、旧約の神の民イスラエルにとって、神との契約上の義務であり、

それらは神のものです。それを献げず、自分の生活のために使ったので「わたしのものを

盗んでいる」と断罪されたのです。礼拝共同体であることを遠ざける霊的な堕落です。

 10分の1規定は旧約の定めですから、それを新約に生きる私たちキリスト信仰者にその

まま当てはめてはなりません。私たちが神との契約関係に入れられ、神の子どもとされ、

救われるのは、律法を守ることではなく、十字架で死なれたキリストを信じる信仰による

のです。ですから私たちは、10分の1を献げないことで、神のものを盗んでいるとは糾弾

されません。そのような私たちに対しても、主なる神は「わたしを試してみよ」と招くの

です。今日私たちは、主なる神が「わたしがあふれるばかりの祝福を注ぐかどうか」を試

してみよとのチャレンジに応じ、あふれるばかりの祝福に与りたいのです。

 神を試すことは基本的には禁じられています。主イエスは「あなたの神である主を試み

てはならない」と悪魔に答えました。しかし主なる神は、預言者マラキを通して「わたし

を試してみよ」とチャレンジされたのです。なぜでしょうか。

 主なる神は祝福と恵みに富んでおられる大盤振る舞いの神です。豊かな祝福と恵みに満

たそうと、私たちが生きるための必要をすべて備えておられるのです。創造者である神は

アダムとエバに対して、園にある木の実を思いのまま食べて良いと許可されました。私た

ちは生かされており、生きるのに必要なすべてを備えて、地上生涯を歩ませています。そ

の恵みの中から、神のみわざへの参与として、感謝のささげ物が命じられたのです。

 主なる神は、神を自分の神と仰ぐ者に、祝福への招きをしておられます。それが「わた

しを試してみよ」との招きです。神を信頼して、神の招きに応じるなら、さらに豊かな祝

福で満たしてくださるのです。しかし神の民イスラエルは、神への信頼をなくして、自分

の生活再建を優先するために、神へのささげ物を後回しにしてしまったのです。

 今週のみことばは箴言から選びました。私たちが物質的な富、財産を手にしているのは

主なる神の恵みであり、祝福です。健康が与えられ、仕事が与えられ、収入を得ることが

できています。それは自分の生活を楽しませるためでもありますが、主なる神のみわざに

参与させるためでもあるのです。あなたの財産で主をあがめよと招きます。収穫の初物と

は、与えられた収入を、まず主のために取り分けることへの招きです。主なる神を第一に

するとき、主なる神はさらに豊かに物質的な祝福を委ねてくださるのです。

 「神を試す」ことが、神に受け入れられるときと、神に罰せられるときがあります。神

への信仰を確かなものとするための「神を試す」ことは受け入れられます。先ほど交読し

たギデオンの「神を試す」ことは、神の約束が実現することの確証を得るためで、神を信

じて、神のことばに従うことができるようにとの願いなので、受け入れられたのです。

 主なる神は「わたしを試してみよ」と招きます。この招きは、旧約の神の民イスラエル

への招きであるばかりでなく、新約の神の民とされた私たちキリスト信仰者への招きでも

あります。主なる神を信頼し、主なる神のことばに合わせて、信仰の歩みを踏み出すこと

への招きです。そしてこの招きに応じるときの神の約束は「わたしがあなたがたのために

天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を注ぐ」ということです。

 神との新しい契約に生きる私たちは、旧約の律法から解放されています。だから10分の

1を献げないことで、神のものを盗んでいると糾弾されることはありません。しかし新約

に生きる私たちキリスト信仰者に対しても「わたしを試してみよ」との招きは同じです。

コリント人への手紙第Ⅱ9章6節。豊かに蒔く者となれと招きます。豊かな刈り入れが約

束されています。主なる神は、豊かに蒔く私たちに、さらに多くを委ねるのです。

 7節。神は喜んで与える人を愛して、豊かに刈り入れさせてくださいます。主イエスは

「受けるよりは与える方が幸いである」と言われました。主なる神は与える者に、さらに

多くを委ねてくださるので、その幸いを味わうようにと招いたのです。

 10節。種蒔く人に、主なる神は種と食べるパンを与えてくださいます。そうして、種を

蒔く人に、その蒔く種を備え、それを増やして、義の実を増し加えてくださるのです。主

なる神は、私たちに、豊かに蒔いて、豊かに刈り入れる幸いを味わわせようと招いておら

れます。わたしを試して、あふれるばかりの祝福を得てみよと、主なる神は招くのです。

 これは、新約に生きる私たちキリスト信仰者に対する、献金への招きです。神への献金

を献げることに不安を感じるでしょうか。あるいは献金を献げることは、勿体ないと思う

でしょうか。生活のための必要は多くあるために、献金のためのお金など残らないと思う

でしょうか。改めて確認し直しましょう。私たちは生かされています。生きるに真に必要

なものは、ただで与えられています。空気も水も豊かに与えられているので、私たちは生

きています。健康も与えられ、仕事も与えられ、能力も与えられています。主なる神がそ

れらを保っていてくださいます。まず感謝をしましょう。主への信頼を篤くしましょう。

 11節。主なる神が必要を備え、主の働きに参与させ、種蒔く者に蒔く種を備え、それを

増やし、義の実を増し加えられた者は、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく

与えるようになり、神への感謝が生み出されます。好循環が始まるのです。

 主イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、

それに加えて与えられます」と招きました。これらのものとは、食べる物であり、着る物

です。生活するのに必要なものすべてです。私たちの父なる神は、これらが私たちに必要

であると知っており、満たしてくださいます。地上生涯が続く限り、生きるに必要なもの

をすべて保障しておられるのです。だから心配するのはやめなさいと招きます。このこと

でも、主なる神は「わたしを試してみよ」と招くのです。さて私たちは、どのように応答

するのでしょうか。まず神の国と神の義を求めるでしょうか。神を最優先にするのか。そ

れとも、神を最優先にすることを躊躇しているでしょうか。信仰の選択の問題です。

 新約に生きる私たちキリスト信仰者は、キリストをかしらするからだの一部分として集

められています。その集まりは礼拝共同体であり、神の家族の目に見える集まり、キリス

トのからだである一地域教会として、主なる神への礼拝を献げています。その礼拝共同体

で大切な働きを担うのが、みことばに仕える者たち、伝道者、牧師また教師たちです。彼

らが十分な働きをするために、教会はその生活保障をして、支えます。教会の様々な活動

のための必要もあります。これらの主のみわざへの参与が献金です。

 主なる神は私たちキリスト信仰者を、ご自分の子どもとして守り、生きるのに必要なも

のを備えて、物質的な祝福としておられます。その上で、その委ねたものを蒔く種として

用いるようにと招くのです。蒔く種と食べるパンを備えてくださる神です。蒔く者に、種

を備え、それを増やし、義の実を増し加えてくださる主の恵みと祝福を体験するようにと

招いておられます。このことにおいても「わたしを試してみよ」と招くのです。

 「わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注

ぐかどうか」を試してみよと。試すか、試さないかは、私たちが決めます。神のことばだ

からと、その招きに応じるか、そうは言ってもと、その招きに応じることを躊躇するか、

それを選ぶのは私たちです。そしてその選択は、主なる神を自分の神とあがめるか、神の

ことばだからと信頼するか、が問われる信仰の選択です。自分の信仰を吟味しましょう。

そうして私たちは、信じて進む信仰者として歩み、神が備えておられるあふれるばかりの

祝福を味わい、体験したいのです。そうは思わないでしょうか。

 エリサベツはマリアをほめたたえて叫びました。「主によって語られたことは必ず実現

すると信じた人は、幸いです」と。私たちも、真に幸いな信仰者となりましょう。

 今週のみことば あなたの財産で主をあがめよ。あなたのすべての収穫の初物で。そう

すれば、あなたの倉は豊かさで満たされ、あなたの石がめは新しいぶどう酒であふれる。

 主が与えようと備えておられる祝福を味わう信仰者として歩むのです。

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