2025年7月6日 礼拝「自分を低くする者への招き」ルカ18:9~17
- hikaruumichurch
- 7月6日
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みなさんの周りにも、人と相対的な比較をして自己正当化し、人を見下すことで自分を
誇る人がいるかもしれません。客観的に見て、みっともないと思うのですが、本人は全く
気づいていないこともあります。これは信仰者の間でも見受けられるので、私たちも気を
つける必要があります。私たちは人との相対的な評価ではなく、神の絶対的な評価を気に
して、自己吟味することが大事です。
9節。主イエスは、自分の教えを聞きに集まっている人々の中に、自己正当化している
人がいるのを念頭に、一つのたとえを話されました。自己正当化しているのは、主に宗教
指導者たちです。それでパリサイ人と取税人との、対照的な二人の人物を登場させて、創
造者である神は、どう評価されるのかを教えられたのです。この二人は、ともに神を信じ
ており、祈るために神殿に行きました。しかしその祈りの内容は全く違いました。
11節。パリサイ人は堂々と神の御前に出ます。これ自体は悪くありません。私たちも神
の恵みを憶えて、大胆に御前に出るようにと招かれています。私たちは主イエス・キリス
トの十字架による罪の赦しを受け取ったのですから、父なる神の御前に臆することなく出
ることができます。神の子どもとされたことを感謝し、喜んで、主なる神との霊的で親密
な交わりを求めることができるのです。
このパリサイ人は、心の中で祈りました。私たちも心静かに、心の中で主をあがめ、心
を注ぎだして祈ることがあります。心の中で祈ることにも問題はありません。問題なのは
祈りの内容です。彼は感謝しました。感謝は祈りの大切な要素です。しかし彼の感謝は、
神のみわざ、神の恵みへの感謝ではなく、自分が誇れる者であることの感謝でした。しか
も他人と比較して、奪い取る者でないこと、不正な者でないこと、姦淫をする者でないこ
とと、自分の誇れることを列挙して、そのようである自分を感謝したのです。
このパリサイ人は、自分をあわれんでくださった神への感謝はしません。自分は罪人な
のに、神の恵みに助けられて、悪の道から守られているというへりくだりはないのです。
彼は自分よりも劣っている存在、ここでは取税人を引き合いに出して、この取税人を見下
すことで、自己正当化をし、優越感に浸っているのです。自惚れるだけで、神をほめたた
えてはいません。ただ自己満足をして、他者をさげすんでいるだけです。
彼の祈りはさらに続きます。12節。週に2度断食し、十分の一をささげていると。確か
に律法に則して生きようとする姿勢は認められます。しかし彼の場合、それらも自己満足
に過ぎないことなのです。彼は何のために週2度の断食をし、何のために十分の一をささ
げていたのでしょうか。その動機が問われます。
断食とは、神とのより深い霊的な交わりをするために行ないます。食欲という肉の欲求
を遠ざけて、ただ神にのみ目を注ぎ、真剣に祈りに没頭するために行うものです。彼はそ
のような動機でではなく、パリサイ人として生きる定めだから行っていただけです。義務
的に、形式的に、表面的に守っている断食は、むなしいと言われるのです。断食それ自体
が目的となり、自己満足しているだけです。
十分の一についても同じです。その数字に捉われて、それさえしていれば自分は責任を
果していると考えるなら、これもまたむなしいものです。献金は神への感謝の表明です。
自分が神に依存して生きていること、神の恵みと祝福に支えられて生かされていることの
感謝、信仰の表明です。十分の一それ自体が目的となるなら、自己満足に終わるのです。
断食も献金も霊的で大切なものです。軽んじても、疎かにしてもなりません。私たちの信
仰が現れているからです。自分の信仰を吟味できます。しているかしていないかという形
式ではなく、神の御前でどのような思いなのかを問いかけることが大事です。神の御前で
の心のありようが問われているのです。
14節。厳かな宣言です。パリサイ人ではありません。自分の勝手な思いこみはむなしい
ものです。自分でどんなに、これでいいんだと思ってみたところで、それは意味をなしま
せん。大切なことは、神がどう見ておられるかです。自分を義人だと自認しても、神に義
と認められなければ、それはむなしいのです。自己満足に陥ってはなりません。
このパリサイ人の祈りを神は拒まれました。彼の祈りに欠けているのは神との霊的な対
話です。神に語りかけ、神の語りかけを聴き、それを生きる一歩を踏み出そうとする、霊
的な姿勢が欠けていました。神よと呼びかけも音だけで、実際には自問自答であり、自己
評価して満足し、自分を誇っていたのです。彼にとって、評価の基準は自分でした。神で
はないのです。このような祈りは悲劇的です。祈りをしているという意識があり、そこに
充実感を覚えていても、神に取り扱われることはなく、自分が変えられなければならない
存在であることに気づくこともないのです。
さて私たちはどのような祈りをしているでしょうか。独りよがりの祈りで終わっている
ことはないでしょうか。いつも自分を神の前において、神の基準で自分を吟味し、神の取
り扱いに自分を委ね、変えてくださる神を感謝する。私たちの祈りが、創造者である神に
聞かれるものとなるかは、私たちがどれだけ意識して、神との霊的な対話をしているか、
神の介入を期待し、神のお取り扱いに自分を差し出すかにかかっています。
13節。取税人とその祈りはパリサイ人とは対照的です。おどおどとしています。神に祈
ること自体が、神の怒りに触れるのではないかいう恐れを感じます。しかし彼は神の助け
を必要としていました。神のあわれみがなければ、どうしようもない状態であると自覚し
ていたのです。神から離れている自分がいかに惨めで、罪ある生き方しかできないかを自
覚して、神のあわれみを求めました。彼は神の介入、神の取り扱いを必要としたのです。
だから神は彼の必要に応えて、赦してくださいました。彼は罪が赦されたことを感謝し、
神とともに歩む、新しい生涯を歩み始めたのです。神に義と認められて家に帰りました。
14節。自分を高くする者とは、神を必要としない人です。自分の力で、自分の悟りや知
識で充分とする人です。しかしその人は、神が低くします。神に用いられることのない存
在です。自分を低くする者とは、神を必要とし、神に助けを求める人です。神がその人を
高くされます。神に取り扱われながら、神に用いられる者へと整えられて、神のみわざに
参与する存在とされるのです。私たちは、神の御前で、自分を低くすべきです。
15節。主イエスが教えているところに、人々が子どもたちを連れてきました。主イエス
からの祝福を得たいと願ったからです。しかし弟子たちは、その人々を叱りました。先生
を煩わせてはならないと、主イエスを思ってのことと考えられます。しかし16節。主イエ
スは弟子たちに語りかけました。子どもたちを来させるようにと。そして神の国は、この
ような者たちのものですと語られたのです。
17節。主イエスの子どもたちに対する見方と、弟子たちの見方は、全く違うことが分か
ります。それはそのまま、神の国に入れる者は誰かに対する考え方の違いでもあります。
子どものように神の国を受け入れる者が、神に国に入るのです。子どもは自分を誇ること
はしません。パリサイ人のように、自分の功績を自慢しません。ただ差し出されたものを
素直に受け取ります。創造者である神は赦しの神です。祝福と恵みの神です。愛あふれる
方です。神の愛、恵み、祝福を素直に受け入れる、子どものようになることが大事です。
主なる神が私たちに差し出された救いは、自分を低くしなければ、受け取ることができ
ません。自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。主イエス
の十字架を信じることも同じです。自分は何もできないとへりくだって、差し出された十
字架による罪の赦しを素直に受け入れる以外に、救いに与ることはできません。
私たちキリスト信仰者は、さらに自分を低め、主なる神のことばに自分を合わせて、与
えられた救いを生きることが大事です。




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