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2025年5月4日 礼拝「感謝を表そう」 ルカ17:11~19

  • hikaruumichurch
  • 5月4日
  • 読了時間: 7分

 創造者である神が私たちに求めておられることの一つに、感謝の心があります。主なる

神は、私たちが、感謝の心を表すことを喜んでくださるのです。主なる神の恵みの中で、

私たちは日々生かされていて、様々な祝福を受けているのですが、その恵みを覚えて、感

謝を表すことは、主なる神に喜ばれることです。

 今日交読した詩篇136篇には、繰り返し感謝を求めています。感謝せよ、感謝せよと。

その恵みはとこしえにあるのだから、一つ一つの主の恵みの御業を思い起こし、数えなが

ら感謝するのです。

 今日の箇所に、ツァラアトに冒された人という表現が出てきます。ツァラアトとは、身

体ばかりではなく、家の壁や衣服にも症状が現れる、詳細不明な病気です。古い訳ではら

い病と訳されていましたが、らい病とは違うので、ヘブル語の音読みを用いて訳していま

す。ツァラアトが癒やされたときは、祭司が認めることで、社会復帰ができました。

 11~12節。主イエスは十字架で処刑されるためにエルサレムへと向かっています。その

途上の出来事です。ガリラヤ地方とサマリヤ地方の境目の町に来た時、10人のツァラアト

に冒された人がツァラアトの癒しを主イエスに求めたのです。ユダヤ人とサマリヤ人とは

犬猿の仲と言われるほど、互いに敵対し合う関係ですが、ツァラアトに冒されたというこ

とのゆえに、一緒に生活していたと考えられます。

 13~14節。10人のツァラアトに冒された人たちは、遠く離れたところに立って、声を

張り上げて「イエス様、先生。私たちをあわれんでください」と叫びました。彼らは、自

分の置かれた状況を知っています。遠く離れて「汚れています。汚れています」と叫びな

がら、人が接触することのないように注意喚起をするのです。だから主イエスの側に行く

ことはしませんでした。しかし彼らは、ナザレのイエスがどういう方か、ツァラアトに冒

された人とどのように接してきたかを知らされていました。だから控えめではあっても、

大胆に声を張り上げて叫んだのです。ナザレのイエスはきっと自分たちをあわれみ、ツァ

ラアトを毛嫌いすることなく、癒してくださると期待したからです。その求めに、主イエ

スははっきりと応えてくださいました。「行って、自分を祭司に見せなさい」と。

 彼らは主イエスのことばを信じ、その命令に従って、祭司のもとに向かいました。その

信仰の応答が彼らのツァラアトを癒やしました。主イエスが命じた時は、まだきよくなっ

ていなかったけれど、彼らは信じて、行動を起こしたのです。主イエスのことばには権威

があり、いのちがあります。だから信じて従うと、そのことばは実現します。

 癒やされたのは10人すべてでした。彼らはイエスのことばを信じて、祭司のところへ行

きました。その途中で、自分が癒されたのを知ったのです。彼らはみな感謝したと思われ

ます。しかし15~16節。その後の行動が分かれます。一人のサマリヤ人だけがイエスのも

とに戻ってきて、ひれ伏して感謝をささげました。主イエスを自分の主としたのです。

 他の9人は、祭司のもとに向かい続けました。自分の癒された身体を見せるために、社

会復帰ができることを喜び、だれの目をもはばかることなく生活できることを望み見て、

祭司のもとに走ったのです。この9人のユダヤ人は、ナザレのイエスは力ある預言者であ

り、病苦を癒やす権威を授けられた存在と認め、神に感謝しました。彼らにとってイエス

は、神から遣わされた、病気を癒す権威を授けられた人だったのです。言い換えるなら、

ナザレのイエスでなくても、病気を癒す力を授けられたならだれでも良いのです。

 しかしこのサマリヤ人は、自分の癒しを通して、ナザレのイエスは自分の主とすべき神

であること、自分を真に生かすお方、仕えるべきお方であると認め、ひれ伏して感謝しま

した。自分が礼拝すべき神とし、それを表明したのです。社会復帰できることは、素晴ら

しい恵みであり、すぐにでも証明されたいと思ったでしょう。しかしそれは一時的で、地

上のことであり、すぐにすることではないと思い直しました。彼は、この世での物質的な

祝福以上のものを、主イエスとの個人的な、人格的な、霊的な交わりに見出し、自分の主

とあがめることで得られる永遠の祝福を得たいと考えたのです。

 主イエスは語られました。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失った

ら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいので

しょうと。いのちはそれほど尊いものです。まことのいのち、永遠のいのちは、それに比

べられないほど高価です。このサマリヤ人は、まことのいのちを受け取ったのです。

 10人が癒されました。10人ともナザレのイエスを特別な存在として信じる信仰を持って

いました。そのうちの9人はイエスを、自分の全存在の主権者、自分の神として受け入れ

ることはしませんでした。単なる癒し主として終わらせたのです。

 難病が癒されたら、それは幸福です。絶望に沈んでいたのに、解放されて希望をもって

歩み出せることは幸いです。しかしそれは一時的です。また病気になります。困難にぶつ

かります。問題が生じます。心の満足は消え失せ、満たされない思いが生じます。その度

に不安になり、落ち込み、再び表面的な解決を求めます。ツァラアトを癒すお方は、私た

ちの全生涯を真の祝福と恵みで満たし、私たちを感謝と喜びに溢れさせるお方です。この

お方を自分の主と仰ぐことの幸いをこそ覚えたいのです。

 ツァラアトを癒した主イエスは、この後、エルサレムに向かい、そこで十字架で処刑さ

れ、いのちを捨てました。私たちの罪に赦しを与えるために、私たちを罪から解放するた

めに、十字架で殺されるために、エルサレムに向かうのです。病気が癒される、困難な状

況から助け出されることは、喜ばしいことですが、この地上での一時的なことです。私た

ちは表面的で、一時的ではない、根源的で、永遠に及ぶ救いを、主イエスに求めることが

重要です。永遠を見すえて、地上のことで満足しないように注意しましょう。

 17~18節。主イエスはご自分を、自分の神とし、自分の主とする信仰に招くために、

ツァラアトに冒された人たちに、その信仰を引き出す命令を与えました。しかし9人は、

表面的な救い、病気の癒しという物質的な祝福を手にしただけでした。主イエスを自分の

主とできる近くにいながら、根源的な救いを求めなかったのです。

 19節。主イエスは自分のところに引き返して、ひれ伏して感謝したサマリヤ人に宣言し

ました。あなたの信仰があなたを救ったのですと。この宣言は、創造者である神との関係

が修復されたことの宣言です。神はあなたの神となり、あなたは神のものとされたという

宣言なのです。この、創造者である神とのあるべき関係にとどまることへの招きです。

 ツァラアトを癒す全能のお方は、人となられた神であり、私たちに罪の赦しを備え、永

遠のいのちに生かすために、十字架でいのちを捨てました。それは私たちへの愛と恵みの

みわざです。私たちは、いのちを捨てるほどの愛で愛されています。この愛を喜び、感謝

して、私たちもこの方、主イエスを愛して、仕えることを喜びとする、神とのあるべき関

係に立ち返ることが大事です。その時、私たちは神のいのちに生かされ、永遠の希望の中

で、日々を生きる者となります。私たちは、この世で、どのような状況に置かれたとして

も、病気であっても健康であっても、裕福であっても貧困であっても、順境であっても逆

境であっても、いつも変わらない平安と希望を生きる者となるのです。

 主イエスを信じる信仰によって救われた者たちは、まずこの事実を感謝しましょう。そ

して主イエスとの、個人的で、人格的な、親密な交わりを生きるのです。この恵みが与え

られていることを感謝し、その恵みに生きることをさらに求め、主イエスとのさらに親密

な霊的交わりを深めていくのです。まず感謝しましょう。繰り返し、与えられた恵みを数

え上げ、感謝をするのです。私たちの感謝の心を、主なる神は喜んでくださり、さらに恵

みに満たし、祝福してくださいます。 

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