2025年4月13日 礼拝「平和の王としての凱旋」マルコ11:1~11
- hikaruumichurch
- 4月13日
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今週私たちは、受難週を迎えました。今週金曜日18日に、主イエスは十字架で苦しみを
受け、殺されます。主イエスは弟子たちに、繰り返し、エルサレムで苦しみを受け、殺さ
れること、そして三日目に復活しなければならないと予告しておられました。いよいよ殺
されるために、神の救いの計画実現のために、エルサレムの町に入られたのです。
今日私たちは、その日の出来事を確認します。主イエスはユダヤ人の王として、エルサ
レムに凱旋するのです。その自分たちの王として、主イエスを迎える、人々の歓喜と興奮
が描写されています。通常、王の勝利の凱旋は、軍馬に乗ってなされます。戦いに勝利し
た王、捕虜を引き連れ、戦利品を携えて、自軍の強さを誇るパレードの先頭に立って凱旋
するのです。しかし主イエスは軍馬ではなく、子ろばに乗って入城しました。預言者ゼカ
リヤのメシヤ預言の成就としてのエルサレム凱旋だからです。
11章1節。安息日が終わり、週の初めの日に、主イエスと弟子たちはエルサレムの近く
まで来ました。10章にはエリコでの出来事が記されています。盲人の目が開かれるという
神のわざが行われました。ルカの福音書では、ザアカイが自分の罪を悔い改め、救われた
ことも記録されています。エリコからエルサレムに向かい、オリーブ山の麓の町ベテハゲ
とベタニヤに来た時、主イエスは弟子の二人を遣わしました。ルカの福音書を見ると、二
人の弟子とは、ペテロとヨハネであると分かります。
ベタニヤには、主イエスによって死後四日の状態からよみがえらされたラザロとその姉
妹マルタとマリヤの家があり、主イエスは受難週の期間、彼らの家からエルサレムに通い
ました。配付した地図で位置を確認しましょう。死海の北西にエリコがあります。そこか
ら西側に向かっていくとオリーブ山、その麓にベタニヤがあり、エルサレムがあります。
ベテパゲはこの地図には載っていませんが、ベタニヤの北西よりにあります。
2節。向こうの村がベタニヤなのかベテパゲなのかは分かりませんが、主イエスは二人
の弟子に、村に入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばがつながれているのに気づく
から、それをほどいて引いてくるようにと命じました。
3節。当然予測されることですが、見知らぬ者が勝手にろばの子をほどいて連れて行く
のを目にしたなら、なぜそんなことをするのかと問われるでしょう。当然予測されること
として、その時の返答のことばをも、主イエスは弟子たちに託しました。主がお入り用な
のです。すぐに、またここにお返ししますと。
4節。主イエスに言われたとおりにして、二人の弟子たちは村に入り、表通りにある家
の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけて、それをほどきました。
5節。主イエスが告げたとおりに、そこに立っていた何人かが問いかけました。それで
6節。弟子たちが主イエスのことばを伝えると、人々は、弟子たちが子ろばを連れて行く
ことを許可してくれたのです。
主イエスがエルサレムに入るにあたって、子ろばを調達したのはメシヤ預言の成就のた
めです。通常、王としての都への凱旋は、軍馬での入場です。しかし主イエスはろばに
乗って入場されました。それは、ゼカリヤ書9章9節で預言されていたからです。
この9章9節は、礼拝招詞で読んでいただき、今週のみことばにも載せました。預言者
ゼカリヤが活動したのは、エルサレムの神殿再建のときです。新バビロニア帝国を滅ぼし
たペルシアの王キュロスが、エルサレムの神殿を再建するために、バビロン捕囚のユダヤ
人の中から、希望する者を帰還させました。神殿の再建に取りかかったけれど、様々な妨
害を受けたため、その工事が中断したのです。その時に、預言者ゼカリヤが預言者ハガイ
と共に、主のことばをもって民を励まし、工事を再開させ、神殿は完成したのです。
9章9節。やがてメシヤがエルサレムに王として入城する預言です。娘シオン、娘エル
サレムと呼びかけられ、大いに喜べ、喜び叫べと招かれます。シオンも、エルサレムも同
じです。完成した神殿のあるエルサレムに、メシヤが入城することの預言です。
あなたの王があなたのところに来られると神の民イスラエルに約束が与えられます。神
の都エルサレム、神の神殿があるエルサレムに王が入城される。約束されたメシヤがエル
サレムに王として入城されるときは、武力を鼓舞する王ではなく、平和を告げ知らせ、平
和を作り出す、平和の王としての凱旋パレードとなるのです。だから主イエスは、この預
言に従って、軍馬にではなく、子ろばにまたがって入城されたのです。
10節。平和の君として来られるメシヤは、戦車も、軍馬も絶やし、戦いの弓も絶つお方
です。武力をもって敵を屈服させ、自分の支配下に置くのではなく、神との平和をもたら
し、その結果として人同士の平和をも作り出すのです。諸国の民は真の平和に与り、その
ことを喜び楽しむので、平和の王による支配は海から海へ、大河から地の果てに至ると言
われます。その支配に置かれた者は、その支配に留まることを選ぶからです。
主イエスは平和の王として、神と敵対関係にある者に、神との和解を得させるために、
その根源的な問題である罪に赦しを与えるために地上に来られました。罪が神と私たちと
を隔てています。創造者である神は聖なる神であり義の神です。聖なる神は私たちのどん
な些細な汚れもすべて拒絶されます。義の神は私たちのどんなに小さな罪も見過ごしにす
ることをせず、すべてを必ず罰します。私たちが罪を抱えている限り、創造者である神と
私たちの間には敵対関係があるのです。神は、私たちに汚れがある限り、私たちを拒絶
し、私たちに罪がある限り、私たちを罰し、滅ぼさざるを得ません。
同時に、創造者である神は愛の神です。愛の神は、罪人である私たちを愛して、受け入
れようとされます。そのため旧約時代には、動物をいけにえとしてささげることで、民の
汚れをきよめ、罪を赦されました。しかし動物のいけにえでは、一つ一つの罪を赦し、汚
れを取り除いたとしても、根源的な罪そのものの赦しにはなりません。そのために、根源
的な罪に解決を与えるために、神の御子を人として地上に遣わし、私たちのすべての罪を
その身に負わせて、私たちの代わりに、十字架で罪の処罰をされたのです。
この、神が差し出された罪の赦しを、自分のためであると受け取り、罪を悔い改め、赦
しを求める者に、罪の赦しを与えてくださるのです。あの十字架は、私の身代わりの処罰
であると受け入れ、私が犯してきたすべての罪は、主イエスの十字架によって赦されたと
感謝して受け取るなら、神の御子を信じる信仰によって、罪の赦しは現実となります。そ
うして罪赦された者は、神と和解し、神との平和が与えられます。これが救いです。
主イエスを信じる信仰によって罪の赦しを受け取り、神との平和を味わい知った者たち
は、創造者である神の愛の支配の中にとどまり続けたいと願います。いのちを捨てるほど
の愛で愛されたことを味わい、全知全能である神の支配によって、私にとっての最善、最
良が備えられて、真の祝福に導かれるとの約束を知っているですから、この愛の支配の中
に自分を委ねたいと考え、神の支配の中を歩み始めるのです。
罪とは、創造者である神から離れること、神の絶対的な基準を捨て、人間社会の相対的
な基準を優先して生きるあり方です。創造者である神を自分の神とせず、他のものを神と
して、それに従う生き方、それが罪です。そうして罪の結果として、私たちは様々な間違
いを繰り返します。こんなはずではなかったと後悔するのは、的外れの生き方が生み出す
当然の結果です。罪とは的外れの状態です。綿密に計画を練り、用意周到に準備して始め
たことなのに、こんなはずではなかったとなるのは、的を外した状態で行動の当然の帰結
です。この的外れ、罪の状態に戻りたいでしょうか。
マルコの福音書11章9節。主イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入られたとき、多く
の人たちが歓喜の叫び声を上げました。ホサナとは、元々の意味は、主よお救いください
です。それが転じて、神をほめたたえることばの一つになりました。人々はホサナと叫ん
で主イエスを迎えました。彼らの願いは、自分たちを圧迫しているローマの支配からの解
放であり、イスラエル王国を再興するための王を待ち望んでいました。多くの人々は、そ
の救い主メシヤ、新しい王として、主イエスを迎えたのです。
主イエスを迎えた人々は、主イエスが子ろばに乗り、平和の王として入城されたことの
意味を理解しませんでした。だから、その週のうちに主イエスが十字架で処刑されるのを
見て、悲しみに沈んだのです。自分たちが待ち望んだメシヤは殺されてしまったと。
しかし、あの十字架刑こそが、自分たちが叫んだ、ホサナ、すなわち、主よお救いくだ
さいという願いを、根本から叶える、罪の赦しと罪からの救いとなることを、やがて知る
ことになるのです。創造者である神のなさることは、私たちの想像をはるかに越えること
です。人間の手による、神の御子の十字架での処刑が、私たち人間の罪に赦しをもたらす
神の救いの方法であるなどとは、私たち人間には考えもつかない、突拍子もない方法です
が、これこそが神の知恵なのです。人間の常識、自分が納得できる方法であるなら、そこ
に信仰は要りません。神を神として信じる信仰は要らないのです。
私たちも主イエスに叫びましょう。ホサナ。主よお救いくださいと。主の御名によって
来られた神の御子、主イエスに叫び求めるのです。罪の赦しと罪からの救いによって、神
との平和が与えられた幸いを、心から味わい知る者となりましょう。
そうして私たちもまた、平和をつくる者となるのです。主イエスは招いておられます。
平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからですと。平和の王で
ある主イエスの支配の中で、私たちも平和の使者となって、地上生涯を歩み、人々の祝福
の器とされましょう。最も重要な平和は、神との平和です。罪によって神との敵対関係に
ある人々に、罪の赦しを受け取り、神と和解するように勧めることが、平和の使者として
の私たちの使命であることを覚えたいのです。
これもまた、平和の王である主イエスに倣う、私たちキリスト信仰者の歩みです。




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