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2025年5月25日 礼拝「あらゆる境遇に対処する秘訣」ピリピ4:12~13

  • hikaruumichurch
  • 5月25日
  • 読了時間: 10分

 おはようございます。今朝皆さまと、おはようございますと挨拶ができることを、とて

も嬉しく思っています。私たちは当たり前のように、毎朝起き出していますが、これは神

の恵みです。夜眠る。朝目を覚ます。毎日、当然のようにくりかえしていますが、夜眠り

についたまま、朝目覚めることなく世を去るかもしれません。朝起き出せる保証は何もな

いのです。今晩、床につける保証もありません。朝起きだして、おはようと挨拶ができ、

一日を終えて、夜眠れることを、神の恵みであると、感謝することは大事です。

 先ほど交読した詩篇3篇でダビデは「私は身を横たえて眠り、また目をさます。主が私

を支えてくださるから」と告白しました。このように告白できるのは、自分のいのちは創

造者である神、天地の主である神の支配の中に置かれ、自分は生かされていると知ってい

るからです。ダビデがこのように告白した時の状況が、表題に記されています。実の息子

の謀反により、着の身着のままで逃げ出し、いのちの危険にさらされている状況での告白

です。すべてが満たされている、平穏の中での告白ではありません。また詩篇4篇8節で

は「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ。あなただけが、安らかに

私を住まわせてくださいます」と神を賛美しています。私たちも、置かれた状況がどのよ

うであっても、平安のうちに身を横たえますと、告白できる者でありたいのです。

 皆さまのこれまでの地上生涯では、どのような苦境に置かれ、どのような苦痛を味わっ

たでしょうか。その状況の中で、心配や不安に心が乱されてしまうのではなく、心安らか

に対処するためには、どのような助けが必要だったと思うでしょうか。今、順風満帆な人

生を歩んでいると思う人も、それが永遠に続くとは限りません。今、逆風の中で苦悩して

いる人も、それは次のステップに移るための重要な訓練の機会でもあるのです。どのよう

な境遇に置かれたとしても、それに対処する秘訣を身につけることができたなら、どれほ

ど幸いでしょうか。ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得たいのです。

 ピリピ4章12~13節。この手紙の著者パウロは、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得

ていると断言しました。なぜパウロは、ここまで断言できたのでしょうか。このことを知

るためには、パウロ自信について、彼が体験したことを含めて知る必要があります。そう

して私たちも、この秘訣を心得たいのです。ありとあらゆる境遇の中で慌てふためくので

はなく、適切に対処できる歩みができる者になる秘訣を得たいと思うのです。

 パウロは、生粋のユダヤ人ですが、生まれも、育ちも、イスラエルではなく、トルコ半

島にある、キリキヤのタルソという町です。経済的には裕福な家庭だと考えられます。紀

元1世紀の世界は、ローマ帝国の支配下にあり、ローマの市民権を持っている者は、特別

な権利が保障されている特権階級でした。だから被支配民族で、裕福な金持ちたちは、大

金を払ってでも、市民権を買い求めたのです。

 パウロ自身は、生まれながらの市民権を持っていると告白していますから、実家は特権

階級であったことが分かります。またパウロの両親は敬虔なユダヤ教徒で、パウロに幼い

頃から熱心に宗教教育を授け、その後、エルサレムの宗教指導者の中で最高の権威を持つ

学者ガマリエルの下で、厳格な宗教教育を受けさせました。ユダヤ社会のエリートコース

を歩ませるために、多額の財を使ったと考えられます。

 その結果、熱心なユダヤ教徒となったパウロは、十字架で処刑された男、ナザレのイエ

スをキリストとする新興宗教のグループに、激しい敵意を抱きました。木にかけられた者

は神に呪われた者であると律法に明示されていますから、十字架で処刑されたイエスがキ

リストであるはずがないというのがパウロの結論です。それでキリストの弟子たちを目の

敵にし、脅かしと殺意に燃える、大迫害者へと突き進ませたのです。パウロは、神への熱

心さのゆえに、ナザレのイエスをキリストであるとする者たちを、男でも女でも見つけ次

第縛り上げて投獄し、キリスト信仰を捨てさせようとしました。

 その後パウロは、シリヤのダマスカスにいるキリスト信仰者たちを捕らえ、エルサレム

に引いてくるためにダマスカスに向かいました。その途上でパウロは、十字架で殺され、

復活されたイエスにお会いしたのです。復活された主イエスご自身がパウロに声をかけ、

彼の誤った神への熱心さを正したのです。「なぜわたしを迫害するのか」と語りかけ、パ

ウロの行為は、神への反逆になることを示し、悔い改めへと招きました。さらに悔い改め

た後に、パウロに委ねる使命をも伝えたのです。

 パウロは神からの光に照らされて、目が見えなくされましたが、その中で、旧約聖書に

記されたメシヤに関する預言を検証し直したと考えられます。そうして三日間の検証を通

して、イザヤ書にある「苦難のメシヤ」預言に辿り着きました。さらに旧約聖書に記され

た様々なメシヤ預言が、ナザレのイエスの生涯と合致していると認めたのです。そしてパ

ウロは、十字架で処刑されたイエスこそ、神の子、キリストであると受け入れました。

 キリストの教会迫害の急先鋒であったパウロは、一転してキリストの十字架の福音を宣

べ伝える宣教者へと変わりました。その結果、迫害者であったパウロは、迫害される立場

になったのです。パウロがキリストの十字架と復活による、罪の赦しと罪からの救いとを

宣べ伝えた結果、どれほどの迫害を受けたかは、コリント人への手紙に記されています。

 第2コリント人への手紙11章24~27節。ユダヤ教徒のままであったなら、ユダヤ社会

の中で、エリートコースを突き進んでいたことは間違いありません。そして宗教指導者と

して押しも押されもせぬ存在となったことでしょう。しかしパウロは、それらの特権と保

証された将来とを、キリストを信じることで捨てたのです。そして、いわゆる、悲惨、不

幸と言われる生涯を、キリストを信じる信仰のゆえに受け止めたのです。

 ピリピ人への手紙は牢獄で書かれたものです。パウロは、キリストの十字架と復活の福

音を宣べ伝え続けたことによって捕縛され、裁判を待つ身として収監されています。その

ような境遇で書かれたこの手紙は感謝と喜びが溢れています。パウロ自身が喜び、感謝し

ており、そしてキリスト信仰者に対して、喜びなさい、主にあって喜びなさいと命じるの

です。なぜ、そのような境遇にあっても感謝することができ、喜ぶようにと招くことがで

きたのでしょうか。鍵となるのは、4章4節「主にあって」ということです。主にあって

喜ぶことができるということです。

 4章11節。パウロは、どんな境遇にあっても満足することを学びましたと告白します。

パウロは根っからの明るい性格で、どのような状況においても脳天気に生きてきたわけで

はありません。学んだと書き記しているのは、以前のパウロは、裕福な中、満足できるよ

うな境遇においては満足したとしても、貧しい境遇など、到底満足できそうにない境遇に

おいては満足できなかったということでしょう。しかしパウロは学びました。何を、どう

学んだのでしょうか。

 4章6節。「何も思い煩わないで」と述べます。心配が高じて病気になるほどに心配す

る、思い煩っても、何の解決も得られません。もし私たちが心配して、それで問題が解決

されるなら、心配することには意味があります。でも冷静に考えてみるなら、どんなに心

配しても、何の解決も得られないのです。心配すればするほど、活力が奪われてしまいま

す。だから主イエスは言われました。心配するのはやめなさいと。

 心配するのではなく、天におられる父なる神に信頼しなさいと招くのです。天の父は、

天地万物を創造された全能の神で、すべてを支配しておられる全地の主です。私たちは死

ぬべき存在であり、いつかはこの地上を去るのです。私たちが心配するのは、この地上で

の生を、自分で何とかしなければならないと考えるからです。しかし冷静に考えるなら、

自分でできることは限られています。今晩寝て、明日起きるのも、自分では決められませ

ん。朝、目覚めたなら、今日も生きられるということです。明日を与えてくださる父なる

神は、私たちの生活に必要なものをご存じであり、それを満たしてくださる全能の、恵み

豊かな神です。だから主イエスは言われます。心配するのはやめなさい。心配するのでは

なく、父なる神に信頼して、神とともに生きる道を選び取りなさいと。

 4章6節。「何も思い煩わないで」に続けて、あらゆる場合に、あらゆる場合とは、逆

境の中にあっても、五里霧中のような、お先真っ暗な状況をも含みます。あらゆる場合

に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただ

きなさい。そうすれば7節。すべての理解を越えた神の平安が、あなたがたの心と思いを

キリスト・イエスにあって守ってくれます。どのような困難な状況に置かれたとしても、

全能の神が、全地の主権者である神が、守ると約束しておられます。

 キリスト教会には必ず十字架があります。この十字架に神のあなたへの愛が現されてい

ます。いのちを捨てるほどの愛であなたを愛する愛です。十字架が指し示すのは、人とし

て来られた神の御子が、私たちの罪に赦しを備えるために、身代わりの処罰を受けたとい

う事実です。私たちは様々な間違いや罪を犯してきました。聖書は私たちに、根源的な罪

と具体的な罪を指摘します。根源的な罪とは、創造者である神と無関係に、神を無視して

生きるあり方そのものです。この根源的な罪は、私たちを、的外れの生涯へと引き込むの

です。的を外した生涯ですから、綿密に計画し、用意周到に準備して始めたのに、こんな

はずではなかったという結果を招きます。様々な間違いや、いろいろな罪が生じるのは、

根源的な罪のゆえです。しばらくは順調であっても、こんなはずではないという状況に陥

るのは当然と言えます。主イエスの救いは、この罪の生涯からの解放です。

 あらゆる境遇に対処する秘訣は、すべてを支配しておられる神の支配の下に自分を置く

ことで得られます。神の絶対的な基準で物事を見ることで、私たちは、この世の論理や、

この世の価値観、常識や標準など、相対的な基準に流されて心配したり、有頂天になるこ

とから解放されて、状況に左右されない、落ちついた生き方ができるようになります。あ

らゆる境遇です。あらゆる境遇に対処する秘訣を心得る者へと変えられていきます。どの

ような状況においても、そこで満足することを学ぶからです。

 主イエスは招きます。すべて、疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来な

さい。わたしがあなたがたを休ませてあげますと。さらに言われます。わたしは心優しく

へりくだっているから、わたしのくびきを追って、わたしから学びなさい。そうすればた

ましいに安らぎが来ますと招いておられます。

 主イエスは、あなたを愛して、あなたを救うために十字架でいのちを捨てました。あな

たを罪から救うために、あなたの罪を赦すために、あなたの代わりに、あなたが受けるべ

き罪の処罰を受けたのです。この十字架を自分のためであったと認め、受け入れるとき、

罪の赦しと罪からの救いを味わうことになります。あなたは心に平安を覚え、喜びと感謝

が溢れてきます。主イエスとともに歩む中で、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていく

のです。主イエスを信じ、主イエスから学び続けるだけです。

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