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2025年6月1日 礼拝「失望しないで祈り続ける」ルカ18:1~8

  • hikaruumichurch
  • 6月1日
  • 読了時間: 7分

 聖書には、祈りに関する記述が多くあります。信仰の勇者たちの祈りの生活からその信

仰姿勢を学ぶこともできます。特に、主イエスの、信仰者としての神への姿勢を、祈りの

生活から学ぶことができます。そうして私たちを、祈りの生活へと招いています。

 私たちキリスト信仰者にとって、祈りは欠かすことのできない霊的な営みです。祈りは

主なる神との人格的な交わり、神との霊的な会話です。私たちは生きていくために、呼吸

をしています。呼吸が止まったなら、死にます。神のいのち、永遠のいのちに生きている

私たちキリスト信仰者にとって、祈りは霊的な呼吸です。祈れなくなったら、祈らなくて

も大丈夫と思うなら、それは霊的に危険な状態に陥っていると言えます。

 今日の聖書箇所で主イエスは、弟子たちを祈りへと招いています。すなわち私たちキリ

スト信仰者への招きです。そのためにたとえを話されました。このたとえには一人のやも

めと、一人の裁判官が登場します。2節にこの裁判官の人となりが記されています。神を

恐れず、人を人とも思わない人物です。

 神を恐れないとは、神と神の絶対的な基準を無視することです。何が正しいのか、何が

悪いのかを、神の前で考えることはしません。善悪の基準はあくまで自分です。自分の基

準に合わなければ、否定し、排除します。さらに彼は、人の権利など考えません。彼は裁

判するとき、依頼人の最善など考えずに、自分の益しか考えないのです。彼が不正な裁判

官だと言われるのは当然です。

 3節。この裁判官のところに一人のやもめが来ました。訴えは何か、どのような解決を

求めているかは分かりませんが、彼女は、この裁判官だけが問題を解決できる頼みの綱と

していたことは分かります。このやもめは、この裁判官のところに押しかけ続けました。

しかしこの裁判官は、この依頼は何の益にもならず、時間と労力の無駄にしかならないと

考えています。このやもめがどうなるかなど無関心です。良心が痛むこともありません。

このままでは神にさばかれるという律法の戒めも、何の影響も与えません。

 不正な裁判官である彼が取り合おうとしないのは当然と思われます。時間と労力の無駄

としか思えないのですから。しかしこのやもめは、何度無視されても、ひっきりなしに訴

え続けたのです。ついにこの裁判官は、このやもめのために裁判をすることにしました。

その理由は、うるさくてしかたがないからです。このうるささから逃れるには裁判を引き

受けるしかないので、やもめの願いを聞くことにしたということです。

 主イエスはこのたとえを弟子たちにしました。なぜ主イエスは不正な裁判官をたとえに

用いたのでしょうか。主イエスが不正な裁判官を認めていないことは明らかです。このた

とえで主イエスが教えようとされたのは、不正な裁判官であってもそうなのだから、まし

て父なる神は、祈り求める者のために公正に関わってくださるということです。不正な裁

判官でも執拗に求め続けるなら、その執拗さから逃れるために願いを聞くのです。この不

正な裁判官と対比して、公正な神、愛に富む父なる神に目を向けさせました。愛に富み、

公正を行われる神は、当然私たちの訴えに耳を傾け、最善をなしてくださいます。

 7節。たとえでは一人の不正な裁判官と一人のやもめの関係でしたが、主イエスは、神

と神に選ばれた民との関係に目を向けさせています。私たちキリスト信仰者も神に選ばれ

た民、主イエスを信じる信仰によって神の子どもとされた者たちです。神は私たちにも、

祈ることを求めておられ、その祈りに適切に応えてくださいます。

 さて1節と8節が、このたとえを話されれた目的です。私たちが知るべきことは、1節

と8節に、それぞれ2つずつあります。まず1節。いつでも祈るべきであること、そして

決して失望してはならないことです。

 8節。まず、祈りは信仰と密接に関わっていることです。信仰がなければ神に祈り求め

ることはしません。祈らなくなっても平気であるなら、信仰はなくなっています。信仰と

祈りとは切り離せません。私たちは神を信じているので、神に祈り続けます。また祈り続

けることで、信仰が保たれています。祈りは信仰のバロメーターと言えます。もし祈りが

少なくなっているなら、自分の信仰生活は危険水域に入っているかもしれません。

 次に、祈り続けるのは主の再臨の時までだということです。私たちが待ち望んでいるの

は、主イエスの再臨の日です。主イエスの再臨を待ち望む信仰者は決して失望することが

ありません。その日には公正なさばきがなされるからです。キリストがすべてを公正にさ

ばくために来られることは、私たちキリスト信仰者にとっての希望です。

 ところで、8節の最後に「人の子が来るとき、はたして地上に信仰が見られるでしょう

か」とありますが、否定的な響きです。「いや見られない」と言われたのです。主イエス

の再臨の時、地上に真の信仰は見られないと言われたのです。

 人の子の再臨については、17章にもあります。33~35節。主の再臨の時、主イエスと

ともにいる者と、主イエスから遠く離れている者とが区別されます。つまり主の再臨の時

に、真の信仰を持っているキリスト信仰者はいるということです。真の信仰が全くいなく

なることはありません。では8節の、否定的な答えを引き出す問いかけは何でしょうか。

 聖書は、キリストの再臨について大まかに記しています。再臨の時はいつであるか分か

りません。その時この地上はどうであるか、具体的には記されていません。ただキリスト

の再臨の時代は患難の時代でることが、ルカの福音書では21章を見ると分かります。新約

聖書には、この世の終末の状況が記されていて、患難があり、困難の時代であることは分

かります。キリスト信仰者は迫害を覚悟しなければなりません。

 もし祈らなくなっているなら、真の信仰を保ち続けることは難しい状況です。なおも確

かな信仰を保つために、いつでも祈るべきだと命じられたということです。いつでも祈る

ことで、どのような状況に置かれても、決して失望させられることはないのです。

 11章1~4節。主イエスは祈りを教えられました。5節から祈りに関するたとえです。

8節。友達という親密な関係だからではなく、あくまで頼み続けたことで、必要なものを

与えたことが語られています。そして9節。求めなさい。捜しなさい。たたきなさい。と

命じられました。求め続け、捜し続け、たたき続けることへの招きです。受けるまで、見

つかるまで、開かれるまで、執拗に祈り求めるのです。

 私たちの父となられた神は、私たちの真剣で、執拗な祈りを喜び、そして応えてくださ

います。どのような応えかは、マタイ7章11節です。父なる神は求める者には良いものを

下さることを覚えましょう。ここから3種類の応えが分かります。第1は、願いの通りの

応えです。2つ目は、その願いは聞かれないことです。3つ目は、待たせることです。

 私たちの祈りに対して、父なる神は私たちを喜び、その祈りに必ず応えます。祈り求め

たことが父なる神に受け入れられるなら、願いの通りに応えられます。私たちの求めが害

を及ぼすと判断されたなら、その願いを聞き入れません。私たちを愛しているからです。

しかし父なる神は、求める者に良いものを下さる方ですから、私たちが求めたものとは違

うけれど、もっと良いものを下さるはずです。ここに父なる神を信頼する信仰が必要とな

ります。求める続けることが大事です。

 待たせるとは、今叶えるのは良くないと判断された時です。時期尚早ということです。

私たちは神の時を静かに待つことが肝要です。神様は最もふさわしい時に、それを下さい

ます。私たちは、神のなさることはすべて時にかなって美しいと信仰告白をしています。

私たちはこの11節の主イエスの約束を信じます。天におられる私たちの父は、求める者た

ちに良いものを下さる方です。私たちに必要なのは、私たちの求めに対する神の応えを的

確に判別することです。そのためにも求められていることは、いつでも祈ることです。失

望しないで神のみこころを窺い、みこころに従うことです。父なる神は、私たちにとって

最善、最良を行なわれる方です。自分の思いや願いではなく、神のことばに従う。祈るこ

とで神の前に出て、神のみこころを伺う。その繰り返しです。信仰が試されています。

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