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2023年1月1日 礼拝「将来と希望を与える計画」エレミヤ 29:4~13

  • hikaruumichurch
  • 2023年1月1日
  • 読了時間: 8分

 2023年が始まりました。今年初めの日に、創造者であり、歴史を支配しておられる天地の主、生けるまことの、唯一の神を覚え、皆様とご一緒に、このお方に礼拝を献げることができ、心から感謝しています。主なる神は私たちに、この新しい年を始めさせてくださいました。今日私たちは、主なる神が私たちを愛し、私たちのために、将来と希望を与える計画を立てておられることを確認します。そうして、生きて働かれる主なる神に信頼しつつ、新しい一年も、主の平安の中を、主とともに歩んでいきましょう。


 今日の箇所は、バビロン捕囚となった神の民イスラエルに、預言者エレミヤが書き送った手紙です。神の民イスラエルがバビロンに捕囚となったのは、神への背信を極めてしまい、もはや滅ぼさざるを得ないほどに堕落し、回復の見込みはないとの判断をされた結果です。そのようなイスラエルの民に対して、回復の計画を知らせるのです。


 人は、神のかたちとして、神に似るように造られました。だから人間だけがその心に、神への思いを抱いています。人間だけが宗教心を持ち、崇める対象としての神々を作り出すのは、創造者である神に似せて造られた、霊的な存在だからです。人格を持ち、自由意思を持っている人間は、その意思を、神に聞いて生きることに用いる時に、真に自由で、真に主体的に、真に自分らしく生きることができるのです。


 しかし人は、創造者である神に聞くことを退け、自分の考え、自分の判断を優先し、創造者と無関係に生きることを選びました。この状態が、聖書が指摘する罪です。罪とは的外れの状態です。自分では的を射ていると考え、綿密に計画を立てて始めたことも、こんなはずではなかったと後悔する結果になるのは、初めから的を外しているからです。そのような私たちに、創造者である神は、本来のあるべき状態に戻るようにと手をさしのべ、招き続けてくださいました。創造者である神を自分の神とし、このお方に聞いて生きる、造られた本来の生き方に戻ることが、真に救いに与ることなのです。


 神の民イスラエルは、神の民としてふさわしく生きる祝福と恵みを証するために選ばれました。しかしイスラエルは、独善的な選民意識を抱くようになり、かといって、主なる神のみを信頼するのではなく、偶像礼拝に走り、次第に、霊的に、道徳的に、社会的に腐敗を深めました。そしてついに、存続させられないほどまでに堕落したのです。そうして主なる神は、新バビロニア帝国を用いて滅ぼしました。この時代に活動した預言者がエレミヤです。エレミヤはエルサレムで神のことばを語ります。同時代に預言者エゼキエルがいます。エゼキエルはバビロン補囚の民の中で、神のことばを語るのです。


 イスラエル国家は、第2代の王ダビデ、第3代の王ソロモンの時代に、その繁栄を極めたけれど、第4代目の王の時に南北王国に分裂し、その後、紀元前721年頃、北イスラエル王国はアッシリヤ帝国によって滅ぼされます。そして今、南ユダ王国も、滅ぼさざるを得ない状態にまで堕落したのです。


 この時、南王国の首都エルサレムでは、多くの預言者たちが活動していました。彼らは異口同音に、神の宮、神殿が置かれているのだから、エルサレムは決して滅ぼされない。平安だ、平安だと、人々を安心させる預言をしていました。神のことばを聞き、それを忠実に語るのではなく、人々が求めている、人々の期待に応えることを、神からの預言として語っていたのです。しかしエレミヤは、エルサレムの滅亡を語りました。当然のように、人々はエレミヤに反発を抱きます。悔い改めを迫っても、国家の滅亡を宣告しても、人々は神への背信を悔い改めず、神殿があるエルサレムは滅ぼされるはずがないと高をくくっていたのです。エレミヤは非国民とされても、偽預言者呼ばわりされても、悔い改めへの招きと、悔い改めない時にもたらされる国家滅亡とを繰り返し語りました。


 今日私たちは29章を見ていますが、バビロン捕囚はすでに始まっています。バビロン捕囚は4回にわたって行われました。第一回は紀元前605年で、この時、後に預言者として活動する少年ダニエルが連れていかれました。第2回は紀元前597年で、この時、預言者エゼキエルが捕囚となったと考えられます。


 29章の記述は、第2回捕囚後のことです。第3回は紀元前586年で、エルサレムは神殿も含めて、完全に破壊されることになります。もうすでに補囚は始まっているのに、偽預言者たちは、バビロン捕囚からの速やかな回復を語り、また神の守りがあるのだから、エルサレムは滅ぼされることはないと、悔い改めを迫るのではなく、民の期待に応えて、安心を、神の守りと祝福を語っていたのです。これが偽預言者の特徴です。


 29章1節。バビロンに捕囚された人々への手紙です。27~29章は一連の出来事で、この箇所を読むことで、この時の全体像が見えてきます。ゼデキヤ王というのは、この時エルサレムに置かれた、バビロニア帝国による傀儡の王様です。


 4~7節。郷愁に駆られている捕囚の民に対して、短期間で戻ることはないから、捕囚の地で、腰を落ち着けて生活することを命じます。しかもバビロンの繁栄を求めて祈れと命じるのです。何と不合理な命令ではないでしょうか。気分的にはこんな命令には従いたくありません。敵国のために、その滅亡ではなく、繁栄を求めて、祝福されるように祈ることが命じられたのです。これは納得行かないでしょう。


 しかし、納得が行かなくても、主なる神のことばに従うことが大事です。どのような状況に置かれたとしても、そこで主のことばに従うことが神の民の使命です。8~9節。捕囚の地においても、偽預言者が、民の心を、神のみこころから引き離していました。その偽預言は記されていませんが、エルサレムでの偽預言者のことばを見ると、ある程度の想像はできるでしょう。28章1~4節です。


 しかし神の御計画は定まっています。29章10節。神の審きは下されました。国は略奪され、民は捕囚として連れて行かれます。やがて神殿は破壊され、エルサレムは廃墟とされます。これらは罪に対する審きであり、そして、回復への備えだということです。


 バビロンでの捕囚は70年です。その間に、神の民は、神に背いてきた自分たちの歴史をかみしめ、その上で、神の民としてふさわしく歩むために、霊的な復興、信仰の回復へと 整えられていくのです。捕囚は永遠に続くのではありません。短期間でもありません。だから捕囚の民は、その捕囚の地で、その国の繁栄を祈り、腰を落ち着けて、神の回復の時を静かに待ちつつ、悔い改めて、霊的に整えられることが必要なのです。


 12~13節。捕囚の民が命じられていることは、バビロンの繁栄をただ単に祈ることではありません。そこに腰を落ち着けても、異教の習慣に染まってはならないのです。捕囚の期間に、人間的な抵抗運動をしてはなりません。その町にしっかりと腰を落ち着け、落ち着いた生活をしつつ、生ける神に聞き従って生きるのです。時が来れば、天地の主である神は、その主権をもってイスラエルを回復します。イスラエルがすべきことは、心からの悔い改めです。主なる神を神として崇めず、神に聞いて生きることを拒んで、神と無関係に生きてきた、その生き方を改めることなのです。


 11節。何とすばらしい、慰めに満ちたことばでしょうか。主なる神は、私たちのための計画を立てておられると言うのです。国家としてのイスラエルを滅ぼされるのは、災いを与えるためではなく、真の幸いと祝福に招くためです。真に恐ろしい災いは、まことの神から離れたままでいることです。生ける神は、地上での物質的な拠り所をすべて、イスラエルから取り去られました。それは、生ける神のみに拠り所を置くという、真に幸いであり、真の祝福となる生き方に、イスラエルを立ち戻らせるためです。


 私たちについても同じです。どうしてこのようなことになったのだろうかと訝るような状況にぶつかることがあります。人間的に見るなら、不幸とか、悲惨とかしか言えないような状況に落とされることがあります。私たちが一見、不幸としか思えないような逆境に置かれたとするなら、その理由を二つ考えてみましょう。


 1つ目はイスラエルと同じで、私たちは罪に陥っていないかということです。私たちに罪を気づかせ、悔い改めに招くために、神は私たちに、不幸と思える状況に陥ることを許可するのです。それは神への背信の当然の刈り取りです。主なる神は罪の刈り取りを命じるのです。だから自分の罪に気づいたなら、すぐに悔い改めましょう。そして、そのような状況で忘れてならないのは、神の平安です。クリスマスに現わされた神の愛を覚えたいのです。神は罪に汚れた私たちとも、ともにおられるということです。


 2つ目は試練です。私たちの信仰をより確かなものとするために、神は試練を与えるのです。私たちが霊的に成長するために、その妨げとなっているものを教えようと、あえて逆境を与えるということです。罪が思い当たらなければ、主なる神は何を教えようとしておられるのかと、思い巡らすことが大切です。主のみわざに自分とその状況を委ね、主の解決を待ち望むのです。主への信頼を再確認することが大事です。


 罪の刈り取りとしての困難か、信仰の成長を促すために神が備えた試練か、またはその他の主のご計画なのか、そのどれであったとしても、神が私たちのために立てておられる計画は災いではなくて、平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。この事実、神の約束にとどまることが大事です。だから私たちは、いつでも、どのような状況に置かれても、そこに主なる神がおられること、私たちに平安を与え、将来と希望を与えようとして、私たちを招いておられることを忘れてはなりません。


 このお方に信頼しながら、2023年という新しい一年を、ともにおられる主なる神と、ともに歩むのです。一歩一歩、誠実に、忠実に歩み続けることが大事です。


 主に信頼する者は失望させられることはないとあります。主の御名を呼ぶ者は救われると約束されています。神のひとり子を人としてこの地上に遣わし、私たちの罪を赦すために十字架で死なせたお方は、滅びに向かっていた私たちに、永遠のいのちを得ることができる道を備えてくださいました。創造者である神は常に、平安を与える計画、将来と希望を与える計画を備えて、私たちを招いておられます。全能の神、天地の主である神を信頼し、その愛の御腕の中に自分を委ねて、主と共に歩むことが大事です。ローマ8:28。



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