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2022年9月4日 礼拝「永遠の住まいの約束」ヨハネ 14:1~6

  • hikaruumichurch
  • 2022年9月4日
  • 読了時間: 7分

 主イエスは、十字架での死を前にして、弟子たちと別れの時を持ちました。そこで語られたこと、ヨハネの福音書13~17章に記された主イエスのことばを確認しています。これらは主イエスの遺言であり、希望の約束です。慰めと希望を確認していきましょう。


 13章では、互いに愛し合うことが命じられました。また、弟子のひとりの裏切りと、ペテロが、鶏が鳴くまでに三度主イエスを知らないと言うことも予告されたのです。そして主イエスが行くところに、弟子たちはついてくることができないとも語られました。そのような中で、弟子たちの心は相当、動揺していたと想像できます。主イエスは捕らえられ十字架で処刑される状況になるが、それで終わりではなく、弟子たちが新しい始まりへの希望を持てるように、永遠の住まいがあることを約束されたのが、今日の箇所です。


 弟子たちには、まだ理解できなかったでしょう。主イエスを信じた者に与えられるすばらしい約束を、十分には受け止めることができなかったでしょうが、私たちがどのような状況におかれたとしても、主の恵みによって与えられる祝福の約束は、主イエスを信じた者に、その通りに実現するのです。主なる神が語られたことは、必ず実現するからです。


 1節。主イエスは語ります。あなたがたは心を騒がせてはなりません。私たちは心配になります。状況に翻弄されて、右往左往させられます。八方塞がりのような状況の中で、失望し、意気消沈させられます。そのような私たちに、主イエスは語り続けるのです。神を信じ、またわたしを信じなさいと。どのような状況に置かれても、どうして良いか分からない状態だとしても、私たちは、父なる神を、主イエスを信じ続けることです。


 地上生涯が順風満帆のようであっても、二進も三進も行かないような困難に見舞われたとしても、状況に左右されて、主なる神を見失ってはなりません。順風満帆においては、高慢になってはなりません。主の恵みを忘れ、自分の力で何でもできると自惚れるなら、サタンの思うつぼです。そこに罠が設けられています。逆に、逆境の中では意気消沈してはなりません。絶望的にならないように、自分の心を見張るのです。困難な状況では主なる神への失望を持ちやすいからです。心を騒がせてはなりません。神を信じ、主イエスを信じるのです。彼に、主イエスに信頼する者は失望させられることはないのです。


 2節。父の家に住むことが約束されています。この世では、実の親から虐待されるという本当に悲しい出来事があります。そういう家庭で育ったこどもたちは、父親に対する歪められた、悪いイメージを持っていることもあるでしょう。そのような人々は、父なる神ということばに拒絶反応を起こすことも考えられます。そのような人々こそ、父なる神の愛と恵み、そして無条件に受け入れられる経験を味わう必要があり、その体験によって、心が癒され、満たされる必要があるのです。いのちがけで愛し、どんなときでも保護してくださる、愛による父と子の修復を、父なる神はなしてくださるのです。


 私たちには、父の家に住むこと、永遠の住まいが約束されています。真に幸いで、平和に満ち、安心できる家庭である父の家に、私たちの住む所がたくさんあるのです。父の家に住めるのは、子どもとしての特権です。子どもであること以外の条件はいりません。何かができなければという条件はないのです。悪さをしたとしても、失敗したとしても、子どもだから、父の家に住むのです。居候ではありません。父の家は自分の家です。主イエスは、父の家には住む所がたくさんあると言われたのです。


 3節。場所を用意したら、また来て、あなたがたを迎えると約束されました。場所を用意するとは、これから家を新築する、増改築することではありません。父なる神の住まいは広いのです。しかしだれでも迎え入れることにはなりません。父の家に住まえるのは、子どもだけです。私たちが神の子どもとなる特権を受け取るのでなければ、そこに住まうことはできません。主イエスが、場所を用意しに行くと言われたのは、私たちを神の子どもにする、神との養子縁組を結ぶ要件を満たしに行くということ、十字架での死です。


 私たちはみな、創造者である神と共に生きることを嫌った者たちです。神に聞き従って生きることよりも、自分の思いを生きることを選んだ者たちです。そのような罪人である私たちが、創造者である神を自分の主と崇めて、神と共に生きる造られた本来のあり方に戻る道を備えるために、主イエスは十字架へと向かわれました。私たちに染みついている罪の性質を、私たちが自分できよめることはできません。主イエスが十字架で流されたその血潮によってのみきよめられるのです。この神の一方的な恵みを、自分のためであると信じる信仰によって、父なる神は私たちに、神の子どもとなる特権を与えたのです。


 これが父なる神の私たちへの招きであり、約束です。条件はただ一つ。主イエスの十字架は、私の罪を赦すために備えられた救いであると信じる信仰、それだけです。主イエスを信じる信仰によって、私たちは罪の赦しを受け、つまり罪のない者と見なされ、神の子どもとされる特権をいただくのです。神の子どもだから、父の家に迎えられるのです。唯一の条件は、子どもとされたかどうかです。子どもは父の家に住むのです。


 1節。心を騒がせたくなる状況が起こります。心が騒いでしまうことがあります。心を騒がせてしまうことが前提での招きなのです。心が騒いでいる時にどうするかの招きだと覚えましょう。心を騒がせ続けるのか、そこで神を信じ、主イエスを信じることを始めるのか、どちらを選ぶのかという問いであり、神を信じ、主イエスを信じる信仰を選び取るようにとの招きが、1節の主イエスのことばです。


 この地上での生涯は限られています。詩篇にあるように、私たちの齢は70年、健やかであっても80年、しかもその誇りとするところは労苦と災いです、とある通りです。この世は創造者である神を自分の主としない社会です。かつての私たちがそうであったように、主なる神を信じようとしない者が作り上げている社会です。罪人が横行する社会にあって、私たちは主イエスを信じる信仰が与えられ、神の子どもとされ、永遠の住まいの約束を自分のものとすることができました。私たち主イエスを信じた者たちは、この世の者ではなくなりました。神の国の市民とされたのです。国籍は天にあります。


 その上で、この世の者でなくなった私たちは、この世に遣わされました。だからこの世に、必要以上に基盤を置いてはなりません。この世がすべてであるかのような錯覚に陥っ て、この世に望みを置き、この世に依存するようなことがあってはならないのです。私たちの国籍は天にあるという、確固とした確信を抱き、地上生涯を主と共に、主に委ねられた使命を生きる私たちとして整えられていくのです。


 主イエスは宣言されました。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。主イエスを信じる信仰によって神の子どもとされた者だけが、父のみもとに行き、父の家に住むのです。私たちを父の家に迎えるために、主イエスは十字架への道を進んでくださいました。これほどの大きな犠牲が払われ、その大きな愛をいただいて、私たちは今、神の子どもとされ、永遠の住まいに憧れつつ、この地上生涯を歩んでいるのです。感謝を新たにしましょう。


 聖書が私たちに示している救いは、創造者である神から離れ、自分勝手に、自己中心に歩んでいた私たちが、造られた本来のあり方、創造者である神を自分の神とし、神のことばを聞き、神のことばを生きる、神と共に歩む者になるという救いです。


 神から離れて、自分の善悪の基準で判断して生きる、自分中心の生き方を止めて、神が示しておられる基準を喜び、その基準に従って生きることを選ぶ者、与えられた神のいのちを生きる者になるという救いです。


 私たちは心を騒がせずに歩むことができます。神を信じ、主イエスを信じる信仰に生きる者とされたからです。この救いは、主なる神の一方的な恵みによって備えられました。主イエスを信じて救いに与った私たちは、なおいっそう、神を信じ、主イエスを信じて、心を騒がせることなく、信仰生涯を豊かなものにして歩んでいきましょう。



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