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2022年9月18日 礼拝「外なる人の衰え、内なる人の新しさ」2コリント4:16~18

  • hikaruumichurch
  • 2022年9月19日
  • 読了時間: 9分

 明日は敬老の日です。人生の先輩方、これまでの社会を作り上げてこられたみなさまに敬意を表します。さらに与えられている地上生涯を、主にあって、主の平安のうちに守られますよう、主の祝福をお祈りいたします。


 老年になっても、なお生き生きと歩むことができるなら、それは幸いであったと言われるでしょうし、幸いでしょう。そしてだれもが、年を重ねるなら、必ず老いを迎えます。外なる人は衰えていきます。しかしキリスト信仰者は、その現実の中で、神のいのちに生きる内なる人は日々新たにされるという約束に目を向け、新しいいのちに生きることを目指すのです。今日の聖書箇所には、外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされているという神の約束があります。内なる人の新しさを日々味わいつつ歩みたいものです。


 もう若くはないと思っているみなさまも、自分の若かった時のことを、懐かしく思い起こすでしょうか。私も若い頃、人生の先輩たちからいえば、まだ若いと言われるでしょうが、お年寄りを見ながら、自分もいつかはあのようになるのかなと漠然とは思っても、実感はありませんでした。そのような私もいつの間にか前期高齢者と言われます。


 私たちは、確実に年を重ね、老年になり、そして死を迎えます。肉体は衰えます。精神的にも衰えます。気力も意欲も失せて行くわけです。外なる人の衰えは、別に老年になってからだけのものではありません。順風満帆の時は、意気揚々と歩んでいても、逆境に追い込まれた時には、まだ壮健である年齢であっても、意気消沈し、精神的に落ち込むこともあります。病気でも衰えを覚えます。この肉体は弱いものです。そのような現実の中でも、私たちは落胆しませんと表明できる幸いを、キリストにあって持つのです。


 さて、今日の箇所から、キリスト信仰者に約束されている幸いを確認します。3節という短い箇所ですが、相対することばを捜しましょう。16~18節。


 対比できることばを見つけたでしょうか。7つあります。外なる人と内なる人、衰えと新たにされる、一時と永遠、軽いと重い、苦難と栄光、見えるものと見えないもの、一時的と永遠に続く。このようにキリストを信じる以前の私たちは、外なる人の衰えに憂え、自信に満ちていた見えるものが一つ一つ失われて行くにしたがって嘆き、悲しみ、諦め、やがて何の望みもない状態へと落ち込んでしまいます。肉体が衰えていくことは、キリストを信じる者も、信じていない者も、同じです。記憶力、判断力、決断力は弱まり、かつてのシャープさは、いつの間にかなくなっています。これらはキリスト信仰とは関係なく、年齢を重ねるにしたがって、すべての人に及ぶのです。


 私自身を考えても、20代にできていたことを、今同じようにはできません。30代に出てきた新しいアイデアは、もう出てこなくなっただけでなく、失われていくのです。40代でがんばれたことが、その意欲さえ失せています。確実に外なる人は衰えています。皆さまもどうでしょうか。肉体的な若さの頂点を過ぎた者は、少なからず衰えを感じていると思うのですが、いかがでしょうか。そのような現実を前にして、できなくなっていること、失ってしまったものを嘆いてみても、さらに活力が奪われるだけです。


 しかしキリストを信じた者は、そのような現実の中で、落胆することはないのです。外なる人は衰えます。肉体的にも、精神的にも、弱さを実感し、意欲さえも失せてしまいます。しかし、外なる人の衰えとは関係なく、内なる人は日々新たにされていると告白できる恵みの確かな約束があり、そして実際に、内なる人は日々新たにされるのです。


 今日私たちは、礼拝への招きのことばとして、イザヤ書40章のことばを聞きました。若者も疲れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、と約束されています。なぜでしょうか。永遠の神である主、地の果てまでを創造された方が、疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられるからです。


 内なる人とは、イエス・キリストを信じることによって与えられる神の子どもとしての新しいいのち、神のいのちのことです。外なる人は死ぬべきからだであり、罪の故にすでに死んでいます。神のいのちから遠く離れ、霊的に死んでいるので、肉体の死は時間の問題であり、肉体の衰えを味わいつつ、死に向かっているのです。もし私たちが神のいのちを知らず、それを味わうことがなければ、肉体の衰えは、ただ死への前兆であり、待っているのは絶望です。気を紛らわすことはできても、諦めたとしても、それは気休めでしかありません。確実に死に向かっていく前兆としての衰えであり、定められた時に死ぬことになります。そして、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになります。人の目をごまかすことができた一つ一つの悪事に対して公正な審きが下されます。人には認められたなかった良きわざに対して、労いと称賛を受けるのです。5章10節に記されているとおりです。だからこそ私たちは、主に喜ばれることを追い求めるのです。9節。


 霊的に死んでいた私たち、そして肉体の衰えに死の不安を覚えるような私たちが、神の一方的な恵みを知り、イエス・キリストの十字架による救いを自分のものとして信じ、受け入れた時、私たちは新しく造られました。だれでもキリストの内にあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。と宣言されたとおりです。主イエスは、人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできませんと言われましたが、主イエスの、あの十字架での死は、私の罪のためであったと信じ、受け入れたとき、私たちは神のいのちに誕生するのです。


 霊的に死んでいた私たち、そして肉体の死に向かって進んでいた私たちは、主イエスを信じる時、霊的に新しく生み出されて、新しいいのち、神のいのちに生きる者とされるのです。これが内なる人と言われるものです。内なる人は、外なる人の衰えとは無関係に、日々新しくされます。新しいいのちに生み出してくださった主なる神ご自身が、そのいのちを成長させてくださるのです。いのちあるものは、適切な環境を与えることによって、正常に成長します。いのちがなければ、どれほど適切な環境を整え、心を込めて世話をしたとしても、成長することはありません。いのちがあるか、ないかが分かれ目です。


 4章16節。私たち、主イエスを信じた私たちです。私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、記憶はおぼつかなくなり、体力は続かなくなり、判断力は弱まり、足腰は弱くなり、今までできていたことができなくなったとしても、それで意気消沈してしまうことはありません。キリスト信仰者は、人間的な力量とか、自分の行為によって、結果を残せたという思いから解放されているからです。これだけやったのだから、それ相応の成果が期待できるはずだというのは、この世に属する事柄では通用しても、主の御前では通用しません。私たちが衰えたとしても、主の御前では、主の評価では、壮健であったときより劣る結果にはならないと言われるのです。主は全能のお方です。


 全能の主なる神にとって、人里離れたところに集まった群衆、五千人以上の人々を満腹させるためのパンを天から降らせることは可能です。しかし主は、ひとりの少年が差し出した五つのパンと二匹の魚を用いることをなさいました。大人が五千人以上空腹になっているところに、五つのパンを差し出したとしても焼け石に水だと私たちは考えます。端から無理だと決めつけるわけです。しかし主は、自分の弁当を差し出したその少年の心を喜ばれ、祈って祝福されたパンを12弟子に分け与えさせて、群衆全員が食べて満腹し、パンの残りを12の大かごに拾い集めさせたのです。創造者である神、何もないところから万物を造り出す主なる神は、私たちに与えた人間的な能力の有無に関係なく、自分の持っているものを差し出す私たちを、ご自分のみわざに用いるのです。


 主なる神は、いつも私たちの、主に対する誠実さ、忠実さ、信頼して主に聞き従おうとする、その心を求めておられます。そして自分の今の、そのままの状態で主にお仕えしたいと願う私たちを、壮健であっても、衰えを覚えているとしても、色々なことに十分な能力を備えていても、何の力もないと思われても、私たちの状態に関係なく、主は、主のみわざの進展に私たちを用いられるのです。


 だから私たちは、私たちの外なる人の衰えに憂鬱にはなりません。がっかりしません。落胆しないのです。私たちの内なる人は、日々新しく、自分を主に明け渡し、主のみこころの通りにお使いくださいと差し出しつつ、さらに新たな思いで、誠実に、忠実に主にお仕えして行くだけです。結果は主のものです。主がご主権をもってお決めになります。主が求めておられるのは、私たちの結果ではなく、主に喜んでいただきたいと思うその心です。だから内なる人は、感謝と喜びにいつも満たされるのです。


 やがて私たちは死にます。肉体の衰えは死への序曲です。死んだ先には何が待っているのでしょうか。この肉体にあってした行為に応じる報いを受けることです。主に喜んでいただきたいとなした一つ一つの行為が、たとえ人に評価されなくても、主が喜んでくださり、よくやった、良い、忠実なしもべだ。主人の喜びを共に喜んでくれとの喜びと労いのことばが待っているので、いつも新たな思いで主にお仕えするのです。


 17節。それは重い栄光です。しかも永遠に続く栄光です。この重い永遠の栄光を見つめているなら、主に従う決断をしたことで苦難にぶつかるとき、それは決して軽くはないと思いますが、重い永遠の栄光に比べたなら、一時の軽い苦難となるのです。


 18節。私たちは何に目を留めているでしょうか。この世の見えるものにでしょうか。魅力的なものがそこここにあります。私たちの心を、欲求を惹きつける魅惑の世界です。それらに目を留め、そのために時間も労力も費やすとして、そこで得られる満足は一時的なのです。だからこそ、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留める必要があります。選ぶのは私たち自身です。外なる人の衰えに目を留め、抵抗したり、嘆いたりすることを選べます。しかしそうではなく、内なる人に目を留め、日々新しくされることを選ぶべきです。内なる人の新しさを追い求めるのです。それは永遠に続くからです。


 内なる人が日々新しくされるために、日々主なる神との霊的な、人格的な交わりが必要です。みことばに耳を傾け、聞き従う者として応答するのです。日々みことばをもって、主なる神は語りかけておられます。その語りかけに祈りで応答するのです。みことばに触れ、祈る。この日々の繰り返しの中で、内なる人は日々新たにされていきます。みことばと祈りによる神との霊的な交わりを怠っていて、霊的な新しさは期待できません。内なる人の新しさ、その霊的な充実は、みことばに養われることで得られるからです。


 私たちは皆、外なる人の衰えを実感する時がきます。しかしキリストを信じる者にとって、外なる人の衰えがあってもなくても、逆に壮健であっても、そのような肉体の状態に関わりなく、内なる人は日々新たにされていくという、恵みの約束があります。この恵みを現実の恵みとして味わいたいのです。永遠を見据えて、日々新たにされていくのです。明日は敬老の日ですが、やがて自分も老人になります。今からお年寄りの立場に立って、想像力を働かせて、お年寄りを敬い、お年寄りに接していくことも大事です。



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