top of page

2022年9月11日 礼拝「主を恐れることを学ぼう」Ⅱサムエル1:1~16

  • hikaruumichurch
  • 2022年9月11日
  • 読了時間: 7分

 主を恐れることは知識の初め。今朝礼拝招詞で読まれたことばです。神のことばは、私たちを、創造者である神を正しく恐れることに招きます。恐れるとはただ恐がるというよりも、恐れるべき方を恐れるにふさわしく敬うこと、畏敬や畏怖という意味の恐れです。


 今日の箇所には、主なる神を畏れ敬うダビデと、主なる神を恐れず、人に取り入ろうと考えているひとりのアマレク人が記されています。私たちはダビデの信仰者としての姿勢を見てきました。今日もダビデの主を恐れる信仰姿勢を確認し、倣いたいのです。


 今私たちが開いている聖書の箇所には、紀元前1000年頃の出来事が記されています。今から約3000年前の出来事ということです。イスラエルの初代の王サウルが戦死し、2代目の王としてダビデが即位する頃の出来事です。


 これまで見てきたように、ダビデは長らく逃亡生活をしてきました。主君サウルによっていのちが狙われていたからです。ダビデは忠実で有能な家臣でしたが、その有能さがサウルに疑いの目を持たせるのですから、人を意識して行動していると、その誠実さ、忠実さが報われないとき、自分の真面目さに嫌気が差してくることもあります。人からの評価を気にしていると、正しく、誠実な歩みを続けることができなくされるということです。私たちは人の目ではなく、主なる神を意識して、すべてをご存じである主の御前での誠実さ、忠実さを追い求める信仰者としての歩みを続けることが大切です。


 ダビデは人を見て、自分の信仰姿勢を変えることはしませんでした。いつも主なる神を意識して、主なる神の前での正しさを追い求める信仰姿勢を貫こうとしたのです。だからサウルに対しても、自分を殺そうとしている現実を踏まえた上で、どのように接することが主に喜ばれ、受け入れられることかを考え、主の御前で正しいと思うことを行い続けてきたのです。その信仰姿勢を神は喜ばれました。神がみわざをなされるまで、ダビデを死の陰の谷に置くことはあっても、そのいのちを守られたのです。


 ダビデは、サウルを殺す機会が与えられても、自分の手を下すことはしませんでした。その時のダビデのことばを再確認しておきましょう。最初の機会はサムエル記第一24章6節。私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから。


 二度目の機会26章10~11節。主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下った時に滅びるかだ。私が主に逆らって、主に油注がれた方に手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。


 サウルをイスラエルの王とされたのは主なる神です。そのお方がサウルを王としておられる間、人間が自分の都合で、主の主権に反することをしてはならないというのがダビデの信仰から来る結論です。私たちもこの信仰姿勢を自分の信仰姿勢として確認し、身につけておきたいのです。主なる神のみこころが何であるかが分からないとき、自分の置かれている状況が苦しいとき、自分の願いの通りに事が進みそうな状況が生じたときは、主のみこころに反してはいないかと一歩退いて考え、主のみことばの基準で考える姿勢を身につけることがとても大切です。自分中心に、人間中心にではなく、神を中心に考え、主の御前でのみことばの真理に基づいて考え、それに自分を合わせるという信仰姿勢です。


 主を恐れるとはまさにこのような姿勢です。ダビデの生涯はいつも、主なる神がなされることを待ち望み、主のみこころを思い、それに自分を合わせて歩む生涯でした。主の計画が具体的には分からないとしても、主の計画は実現していくとの確信のゆえに、主のみわざを待ち望み、自分に与えられた状況、自分が置かれた状況の中で、主に誠実に、忠実に仕えることを、自分の思いや都合、願いや計画を中心に考えるのではなく、主は何を善とされるのかを、神中心に考えて、それに従って歩もうとしたのです。


 26章10節。厳粛な告白です。主は生きて働かれるまことの神です。主権者であり、絶対者であり、全能の神です。そのお方がサウルを王として立て、今なおサウルを王位に留めておられます。主がご主権の中でサウルの生涯を定めておられます。そしてサウルの次に王として定められているのは自分であると明確に告げられているのです。だから主の計画の時を、人間的に、力ずくで引き寄せるのではなく、主のみわざを待ち続けることを選び取ることができたということです。


 ダビデはイスラエル国内での逃亡生活に見切りを付け、ペリシテ人の地に寄留することでサウルを自分への討伐から遠ざけました。前回、その経緯を確認したのです。そしてダビデはペリシテの陣営の一員として、イスラエルとの戦いに組み入れられようとしたけれど、ペリシテ人の首長たちの反対によって、イスラエルとの戦いから外されたのです。


 ペリシテとイスラエルの戦いの際には、ダビデは、アマレク人の略奪隊に奪われた家族の救出にあたっており、サウル戦死については、情報を得ていませんでした。そして今日の箇所です。1~2節。ひとりのアマレク人がサウルの死をダビデに知らせに来た場面です。ついに主の時が来て、サウルの生涯が閉ざされたことが知らされたわけです。


 4、6、9~10節。このアマレク人は、ダビデに取り入ろうと、自分の手柄としてのサウルの死を知らせようともくろんだわけです。しかし彼は、ダビデが主の主権を尊び、主を恐れているので、サウルに手を下すことがどれほど大きな罪として受け取られるかを知らなかったということです。彼は嘘の証言でダビデに取り入ろうとしたけれど、その偽りの証言が自分を滅ぼすことになるとは思いもよらなかったわけです。14節。


 さて、今日私たちは、ダビデの主を恐れる信仰姿勢を、その言動を通して再確認しました。主を恐れるとは、主を正しく知った上で、主を自分の主とすることからもたらされる信仰の態度と言えます。逆に主を恐れないとは、主を軽んじる、主を侮ることから生じる態度と言えます。私たちが創造者である神を自分の神と仰いでいるなら、生けるまことの神、全知全能の神として信じていると言うなら、その主権に自分を委ね、主のみことばにしっかりと立ち、主の御声に聞いて、従う信仰の態度を確立していくことが大事です。


 詩篇の作者は、神への恐れを、次のように表現しました。詩篇130篇3~4節。主よ  あなたがもし 不義に目を留められるなら 主よ だれが御前に立てるでしょう。しか し あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます。


 神の完全な正しさ、神の完全なきよさを理解しているなら、どんな些細な罪も罰する神の義、どんな微細の汚れも拒絶される神の聖の前で、自分の罪、自分の汚れに恐れおののくことになります。ありのままの自分は神の御前に立つことはできないと正直に認めざるを得ないのです。罪と汚れのために、神に拒絶され、罰せられるのは当然だからです。この恐れを私たちは創造者である神に対して持っているでしょうか。


 この義であり、聖であられる神が私たちに赦しを差し出されたのです。神は愛であると言われる所以です。私たちを罪と滅びから救い出すために、神の子キリストを人として遣わし、私たちの罪をその身に負わせ、十字架で身代わりに処罰したのです。この神の一方的な恵みを、私のためでしたと信じ、受け取ることで、神が差し出された赦しに与ることができるのです。赦しとは、罪を犯さなかったと見なされること、罪はないと見なされることです。だから、赦してくださる神を拒むことが、どれほど恐ろしいのかを、旧約の信仰者は、この詩に表したのです。


 私たちも、真に創造者である神を恐れましょう。正しく恐れて、主が与えようとしておられる恵みと祝福に与りたいのです。神である主の主権に自分を委ね、主が良いとされることを良いとし行い、主が悪いとされることを悪いとして避ける信仰姿勢を身につけていきましょう。人にどう思われるかに気を取られるのではなく、神の御前でどうあるべきかを考え、神が良しとされること、神に受け入れられること、神が喜ばれることに、自分を合わせて、信仰生活を送ることを追い求めるのです。主なる神を正しく恐れることを学び続ける私たちでありましょう。



댓글


bottom of page