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2022年8月7日 礼拝「互いに愛し合う」十字架直前No.4 ヨハネの福音書13章34〜35節

  • hikaruumichurch
  • 2022年8月7日
  • 読了時間: 8分

 十字架の死を前にして、主イエスが弟子たちに語られた教えを見ていますが、今日で4回目となります。今日私たちは、主イエスが、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさいと命じた命令を確認して、キリストのからだである神の教会が愛のうちに建てられていくことに、私たちも用いられたいと思うのです。


 34節。主イエスが私たちに命じているのは、私たちが互いに愛し合うことです。主イエスはそれを、新しい戒めとして告げられました。新しい戒めに対比するのは、従来の戒めです。人を愛することに関する従来の戒めは、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、です。これがそれまでの、人を愛することの基準でした。


 従来の戒めと新しい戒めの違いは、人を愛する時の基準が、自分を愛する愛から、主イエスが愛された愛に変わったことです。キリスト信仰者は主イエスの十字架による罪の赦しを自分のためと受け取った者たちです。主イエスがいのちを捨てるほどの愛で愛してくださったことを知っています。その愛が基準です。主イエスが愛された愛に倣うのです。主イエスは、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさいと命じられました。先ほど交読したヨハネの福音書15章でも12節と17節で命じています。私たちは主イエスに愛されました。十字架でいのちを捨てるほどの愛で愛されたことを知り、それを自分のものとして受け取った私たちは、その愛で愛し合うのです。


 主がご自分のからだとして建てられた八重山福音光る海教会において、キリストのからだを構成する大切な器官として召し集められた私たち一人ひとりが、主がどれほどの愛で兄弟姉妹を愛しておられるのか、そして自分を愛されたのかを確認し、その愛で互いに愛し合う。この愛し合うことで、主に栄光を帰する教会として整えられていくのです。


 34節で主イエスは、2度繰り返して、互いに愛し合いなさいと、命じられました。そうして35節。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります、と言われました。私たちは主イエスの弟子として歩むことが大事です。互いに愛し合うことが、主イエスの弟子としての歩みです。


 主イエスの弟子とは、主イエスから学ぶ者のことです。主イエスの有名な招きのことばがマタイの福音書11章28節にあります。すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。これは素晴らし慰めと希望のことばですが、残念なことに、ここで終わってしまう人が多いのです。主イエスの招きは続きます。29~30節。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。


 主イエスのもとで休むことは大事です。まず休んで、疲れを癒し、活力をいただいて、次の段階の進むのが主の祝福に与る秘訣だからです。休んで癒され、それで終わるとするなら、元の木阿弥です。たましいに真の安らぎを得たいのなら、主イエスから学ぶ必要があります。主イエスのもとにとどまり、くびきを共にして、主イエスから学ぶのです。


 くびきとは2頭の牛を首で固定する道具です。1頭の牛ではできない仕事をさせるためのものです。首が固定されるので窮屈です。くびきに慣れていない若い牛は、くびきに慣れている牛とペアにさせて訓練します。若い牛は窮屈をいやがり抵抗します。慣れている牛は若い牛を動くままにします。若い牛は動くことで首が痛くなるので、歩調を合わせること学んでいきます。キリスト信仰者である私たちも、自分勝手に動き回ることで痛い目に遭います。自分勝手という罪を悔い改めながら、主イエスと歩調を合わせる方の幸いを学んでいくのです。たましいに真の安らぎを得たいのなら、主イエスのくびきを負って、主イエスから学ぶことが大事です。愛することも主イエスから学ぶのです。


 主イエスの愛は、十字架でいのちを捨てるほどの愛です。自分はどれほどの愛で主イエスに愛されているのかを、繰り返し確認し、味わい直すことが大事です。私が主イエスに愛されているように、キリストのからだに集められている一人ひとりも主イエスに愛されています。主イエスが愛しておられる兄弟姉妹を、私が愛さないで良い理由はありません。私たちは主に愛されている者同士として、主イエスを愛している者同士として、互いに愛し合うことを求めるのです。主イエスが愛されたように愛することを求めるのです。


 これが主イエスによる新しい戒めであることを再度確認しましょう。そうして主イエスに愛された私たちは、主イエスの愛を味わい知った者として、主イエスが愛された愛で、互いに愛し合うのです。私たちは新しい戒めを生きる者として招かれているのです。


 私たちは主イエスに倣うのです。私たちはお互いに、弱さや劣っている部分に気づくことがあります。その時に、その人を見下したり、非難するのではなく、補い、助けていくことが大事です。私たちは助け合い、補い合うために、一つからだとして集められているのです。私の弱さ、欠け、劣っている部分は、その部分で強い人に、その部分を備えている人に、その部分で優れている人に助けられ、補われ、支えられるためにあります。その人が弱さを抱えており、私がその部分で強いならば、その人を助ける。その人に欠けがあり、私がその部分を備えているならば、その人を補う。その人に劣っている部分があり、私がその部分で優れているならば、その人を支えれば良いのです。そのようにして、神の家族とされた私たちは、主にある兄弟姉妹として、互いに愛し合い、補い合い、助け合い、生かし合うことで、キリストのからだである神の教会は愛のうちに建てられるのです。


 コロサイ人への手紙3章12~13節。あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。互いに忍耐し合い、だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。私たちは主に赦された者たちです。主が赦してくださったように、私たちは互いに赦し合うこと、それが主のみこころです。


 そして14節。これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全です。私たちは聖霊の助けを受けつつ、御霊の実、霊的品性を身につけることができます。御霊の実は第一に愛です。愛を追い求めなさいと勧められているのです。


 エペソ人への手紙4章16節。キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。私たちは互いに、一人ひとりの賜物を認めて、その持ち味を尊重し、互いを生かし合い、互いに助け合い、補い合うこと、つまり私たち一人ひとりがその力量にふさわしく働くことによって、からだ全体は、愛のうちに建てられていくのです。これがみことばによる約束です。


 ヨハネの福音書13章35節。教会のかしらである主イエスが愛された、その愛に倣って、からだの各器官として集められた私たちが互いに愛し合う、そのような私たちの愛の交わりを見て、まだ主イエスを信じていない人々も、教会に主イエスの弟子たちが集まっていることを認めるようになるのです。


 主イエスを信じている私たちは、主が召し集めて、神の家族とされた兄弟姉妹を、主イエスの愛で愛しているかを吟味し、さらに愛する者とされましょう。もし愛していないことに気づいたなら、愛することができるように、主イエスに祈り求め続けることが大事です。主イエスならどうするかを考えるのです。自分の言動を吟味しながら、主イエスならどうするかを考え、対処していくことが、真に祝福された信仰生活を歩む秘訣です。自分がどうしたいかではなく、主イエスはどうされるのかと考え、それを行うのです。


 使徒ヨハネは手紙に書き記しました。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神、キリストから受けています。互いに愛し合いましょう。互いにとは、自分からということです。


 そのようにして、キリストをかしらとするからだである教会は、一人ひとりが成長して愛のうちに建てられることになります。そのような八重山福音光る海教会となりましょう。



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