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2022年8月28日 礼拝「真に救いに与る信仰とは」ヨハネ 8:31~36

  • hikaruumichurch
  • 2022年8月28日
  • 読了時間: 8分

 キリスト教会は、救いは主イエスを信じる信仰によってのみ与えられるとの、神のことばを伝えています。聖書は一貫して、旧約聖書においても信仰による救いを、そして主イエスを信じる信仰によって与えられる罪の赦しに基づく救いを伝えているのです。


 さて31節。ここで主イエスは、ご自分を信じた人々に語っておられます。30節で分かることは、多くの者がイエスの話を聞いて、彼を信じたということです。その彼らに対して主イエスが言われたのです。31~32節。つまりイエスを信じる信じ方によっては、真理を知ることはないし、その結果、真に自由とされることもないということです。なんと衝撃的な宣言ではないでしょうか。イエスを信じる信仰によってのみ、私たちは真に神の救いに与るのですが、イエスを信じるとはどうすることなのかを正しく知っていなければ、その信仰は私たちに、真に救いをもたらすことにはならないと言うのです。


 この主イエスのことばを、自分はクリスチャンだと告白し、イエス・キリストを信じていると口にする者は、真伨に受け止めなければなりません。自己吟味が必要なのです。イエス・キリストを信じていると思っているでしょう。しかしその信仰が、自分の信仰生活に何の良い影響も及ぼしていないなら、それは自己満足の信仰であり、真の救いに与ることを得させないかもしれないということです。


 主イエスを信じる信仰が、私たち主イエスを信じる者をして、主イエスのことばにとどまらせるなら幸いです。主イエスは言われます。あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。主イエスはご自分を信じた者に、主イエスの弟子になることを求めておられるのです。主イエスを信じたとしても、主イエスの弟子になろうとしないなら、その信仰は実質のない、お飾りの信仰で終わってしまうということです。


 主イエスの弟子として歩む者は真理を知ります。真理はその人を自由にするのです。真の自由を体験したいのなら、主イエスの弟子となる信仰者となる必要があります。クリスチャンですと口で告白しても、キリストの弟子として生きていなければ、キリストが与える霊的なすばらしさは味わえません。主イエスを信じ、救われたはずなのに、なぜ自分はなおも罪の力に負けてしまうのかと、自分の弱さや至らなさを嘆いても、何の解決にもなりません。罪の奴隷から解放されないままだからです。


 弟子とはどういう人でしょうか。弟子とは師匠から学ぶ人です。師匠のことばを聞き、師匠から教えられ、師匠の教えを守り、師匠から学んで歩む人です。私たちはだれの弟子であろうとしているでしょうか。だれを師匠にしているかを吟味しなければなりません。主イエスの弟子になることが重要です。主イエスから学び、主のことばにとどまり、主イエスとともに歩むのです。主イエスは、わたしのくびきを負って、わたしから学びなさいと招きました。そうすれば、たましいに安らぎが来ますと約束されたのです。


 31~32節。主イエスは私たちに、主イエスの本当の弟子になりなさいと招きます。わたしのことばにとどまりなさいと招くのです。主イエスに聞き、主イエスのことばにとどまる者、主イエスのことばを行う一歩を踏み出す者は真理を知り、真理はその人を自由にします。主イエスが求めておられる信仰者とは、主イエスから学び、そのことばにとどまって生きる者であり、その者は真に自由を生きる者となるのです。


 主イエスは宣言しておられます。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。真理そのものである主イエスが私たちを自由にし、私たちの救いを完全にします。


 34節。主イエスは明言されます。罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。私たちは、自分は罪の奴隷であると自覚し、それを嘆いているでしょうか。罪を犯すのは仕方がないと自己弁護し、理由をつけて自己正当化しているでしょうか。自分は罪の奴隷であると自覚し、罪の奴隷からの解放を心から願うのでなければ、救いは得られません。


 36節。神の御子が、私たちを自由にします。神の御子、イエス・キリストだけが、私たちを自由にするのです。神の御子、イエス・キリストはあなたを愛して、あなたを罪の奴隷状態から解放するために、あなたに罪の赦しを差し出しました。そのために、十字架で身代わりの処罰を受けてくださったのです。あなたは愛されています。いのちを捨てるほどの愛で、主イエスに愛されているのです。あの十字架の死は、私の罪を赦すための身代わりの処罰であると信じ、差し出されている罪の赦しを受け取ることで、私たちは罪を赦されます。神の御前で罪のない者、罪を犯さなかった者と見なされるということです。


 主イエスを信じることで、私たちは罪赦された者となり、救いの恵みに与ります。神の一方的な恵みによって与えられる賜物、これが救いです。救われた私たちは神の備えた救いを生きるいのちを持ちます。救われた私たちが、神のいのちに生きるか、古い生き方を続けるかは、私たちの意思による決断に左右されます。主なる神は愛の神ですから、私たちに救いを強いることはなさいません。救われたいと望まない人に救いを押しつけることはしませんし、救いを受けた私たちに、神のいのちに生きることを押しつけないのです。創造者である神は、私たちの自由意思を最大限に尊重する愛の神なのです。


 だから主イエスはご自分を信じたユダヤ人に、真に救いを生きるように、神のいのちを生きるようにと招きました。信仰によって救われたにもかかわらず、罪の奴隷からの解放を真に願わなければ、罪を行う生き方を続けることになります。そうして救われたことの真の恵み、真の祝福を味わわないままであるなら、いつしか信仰そのものを捨てることもあるのです。神が私たちを見限ることはなく、悔い改めへと招き続けてくださるのですが、その人が神を見限り、神から離れていくのです。愛の神は悔い改めへと招き続けますが、押しつけることはしないのです。自由意思を尊重される愛の神だからです。


 主イエスは、ご自分を信じたユダヤ人の信仰を喜ばれました。だからこそ、その信仰を正しく導こうとされたのです。信じた主イエスのことばにとどまるように、主イエスから学ぶ弟子として歩むように、です。主イエスは真理そのものです。パウロはエペソ人への手紙に、真理はイエスにあるのです、と書き送りました。主イエスは真理であり、真理は主イエスにあります。私たちは主イエスから学ぶことで真理を知るのです。


 主イエス・キリストを信じているみなさん、主イエス・キリストを信じようとしているみなさん。主イエス・キリストを正しく信じることが重要です。主イエスが招かれる信じ方をするということです。自分の好き勝手な信じ方ではなく、主イエスが信じさせようとする信じ方を身に付けることが大事です。どんなに主イエスを信じていると口にしても、自分勝手な、自分好みの、自己中心の信仰では、真の救いは得られません。


 主イエスはあなたを自由にします。私たちは、自分のすべきことをする自由、してはならないことをしない自由を生きることになります。私たちを縛っている様々な束縛から解放されます。様々な習俗、異教の習慣や偶像崇拝と結びついた習俗から解放されます。罪の束縛から解放されるのです。主イエス・キリストが自由を与えます。真の自由は、キリストのことばにとどまって、キリストの弟子になることで与えられるのです。


 34節。再確認しましょう。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。これは衝撃的なことばです。しかし何とも真実を突いたことばです。自分も含めて、本当に多くの人が、自分は自由だと言いながら、様々な点で奴隷となっています。自由を主張しながら、実はいろいろなしがらみに縛られていないでしょうか。日本の伝統的な文化や習俗から真に自由になっているでしょうか。人のことばや目が気になって、させられていることはありませんか。また自分の中にあるどうしようもない悪い習慣や悪癖に悩んでいないですか。自分ではやめたいと考えているのに、してはならないと思っているのに、やめることができない、ついつい行なってしまう悪癖はありませんか。自分の内側から生じてくる欲求を抑えることができなくて、その欲求の奴隷になっていませんか。すべきことは分かっているのに、それをする時間はあるのに、後回しにしていませんか。それが奴隷状態です。


 思い当たる節があるなら、解放されなければなりません。自由を与えるお方、主イエスがおられます。罪の奴隷状態から解放してくださるのです。道徳的な罪はないですか。心の中で罪を犯していませんか。そうであるなら、罪に支配されています。自己中心の、自分好みで、自分の思いを優先する信仰では、罪の奴隷状態から自由になることはできません。自己中心が罪そのものです。神を中心にする、主イエスに聞いて生きる信仰に変えられなければ、真に救いを生きることにはなりません。御子が自由にするのです。


 だから主イエスは、ご自分を信じたユダヤ人を招きました。そして私たちキリストを信じた者たちを、ご自分の弟子となるようにと招くのです。主イエスのことばを聞き、主イエスから教えられ、主イエスのことばにとどまる者、主イエスの弟子となることを追い求めることが重要です。キリストご自身が真理であり、真理そのものであるキリスト、主イエスが私たちを自由にしてくださるからです。


 主イエス・キリストを正しく信じましょう。主イエスのことばにとどまり、主イエスの弟子として歩む信仰者になることが、真に救いに与らせるのです。


 ヨハネの福音書17章17節。主イエスは十字架での死を前にして、弟子たちのために、弟子たちのことばによって主イエスを信じる人々のために祈られました。真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。聖別するとは、俗なる者であった私たちを、神の聖にふさわしいものへと別けることです。神のことばにとどまる者が、神の聖に属する者とされるのです。8章31~32節。自分の信仰を吟味しましょう。そうして正されましょう。



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