2022年8月21日 礼拝「信仰のみによる救いの確認」使徒 15:1~21
- hikaruumichurch
- 2022年8月21日
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信じるだけで救われると言われても、なかなか素直に受け取れないのが人間かもしれません。ただ信じるだけで良いです言われるよりも、これだけの努力をすれば、努力した分だけ救いに近づきますと言われると、その気になります。多くの徳を積むとか、多額のお布施をするとか、救いを受けるにふさわしい善行などをすることで、自分は救われて当然の価値があると思えます。自分の力で救いを手に入れられるのは満足できますし、一所懸命に、いろいろな要求に応じることで、達成感も得られます。プライドを傷つけられることなく救いを得られることの方が良いということかもしれません。
しかし聖書が提示する救いは、神の恵みによって与えられたものであり、私たち人間の業や行いなどの一切を否定します。どれほどの徳を積んだとしても、どれほど道徳的に正しく生きたとしても、どれほど社会的な貢献をしたとしても、それらは救いの条件とはなりません。聖書が提示する、罪からの救いは、十字架で身代わりの死を遂げられた主イエスを信じることによってのみ与えられます。この一方的な神の恵みを受け取る以外に救いはないと言われることに、私たちはプレイドを傷つけられるのです。そしてこれは、罪人となった人間、自己中心に生きる人間にとって最も難しいことです。自分の無力を認める以外に、救いに与かる道はないと言われるのだからです。最も簡単なのに、最も難しい方法、主なる神は人に、この信仰による救いを提示されたのです。
初代教会は、激しさを増す迫害に押し潰されることなく、大胆に福音を宣べ伝え続けたことで、多くの人々が救いに与りました。そのような初代教会には大きな問題が潜んでいたのです。キリストの教会は、外側からの攻撃にはさほど影響を受けません。深刻な問題を引き起こすのは教会内に潜んでおり、福音の根幹を揺がす教えが大きく影響します。そして福音が歪められていく中で、外側からの攻撃に対しても対抗できなくされるのです。
初代教会に潜んでいた問題、福音の根幹を揺るがす問題を公の場で論議したのが、今日の箇所です。教会内部の問題を公に議論し、真理は何かを確認することは大切です。初代教会は、信仰のみによる救いを確認するための、健全な対応をしたのです。
問題の発端は、エルサレムの教会に属するユダヤ人キリスト者の何人かがアンティオキアの教会に来て、主イエスを信じただけでは救いは完全でないと教えたことです。1節。主イエスを信じることを否定したのではありません。主イエスを信じるだけでは不十分だと教えたのです。主イエスを信じることに加え、モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、その救いは本物にはならない、救われないと教えたのです。
割礼は主なる神が命じた儀式です。神の民としてのしるしを肉体に刻み込むことによって、神の民としての自覚を持つようにされた主なる神の配慮です。そして神の民が期待されていたことは、肉体の割礼を通して、心から主なる神に仕えるという決意、心の割礼であり、神の民としての具体的な生活でした。モーセは死を目前にして、決別のことばを語りましたが、その中で心の割礼を勧めたのです。申命記10章16節。肉体の割礼を受けて神の民としての身分を与えられたとしても、強情で、神のことばに聞き従おうとせず、頑なに神に逆らい続けた者たちは、みな滅ぼされました。そのような荒野での体験を基にして、モーセは神の民に対して、心の包皮を切り捨てるようにと勧めたのです。
エレミヤ9章25~26節。神の民イスラエルが新バビロニア帝国によって滅ぼされる理由を、主なる神は預言者エレミヤを通して語られました。神の民としてのしるしである肉体の割礼は、救いの保証ではありません。割礼はあくまでも神の恵みによって神の民としての立場を与えられたということの記念です。だから肉体の割礼だけで満足し、かえって神の恵みを必要とせずに、神と共に歩もうとしなかったイスラエルは滅ぼされました。主なる神が求めておられるのは心の割礼です。主なる神を神として信じ、神と共に歩むこと、神を喜び、神に喜ばれる歩みを追い求める者となる、心の割礼が救いの証拠なのです。
割礼を受けるということは、神が自分を神の民として選んでくださったという、神の恵みを確認するしるしに過ぎないのに、それがいつしか、割礼そのものが神の民とされる証拠であるかのように錯覚してしまったことに神の民イスラエルの悲劇がありました。
使徒の働き15章1節。旧約聖書で示された神の救いを正しく認識していたなら、このような間違いを起こすことはなかったはずです。しかし長い間、律法を表面的に守って来たユダヤ人たち、特に生活習慣の最も大切な部分を占めていた人々にとって、律法に従うことが救いに必要不可欠であるという呪縛から解放されることは難しかったでしょう。
2節。アンティオキア教会で、救いは主イエスを信じる信仰だけで得られるかについて話し合われました。「激しい対立と論争」とありますので、この問題は絶対に曖昧にしてはならないという意気ごみ、そして信仰のみによってだけ救われるという福音を曲げることはできないという決意が見られます。しかし結論を得ることができず、エルサレムで、使徒たちを交えた公の場で話し合うことになったのです。
4~5節。パウロとバルナバがエルサレムに着いた時の出来事です。律法を重んじるパリサイ人でキリスト信者になった人々が確信を持って発言します。割礼を受けさせ、モーセの律法を守るように命じるべきだと。ユダヤ人のようになることが神の救いに与かることだと彼らは主張したのです。6節。初めての教会会議が行われました。
7節からの使徒ペテロの発言によってこの会議の方向性が決まりました。主なる神がペテロを用いて、ローマ人百人隊長コルネリウスとその家族、関係者を、つまり異邦人を救いに導かれましたが、その体験が、ペテロをしてこの発言をさせたと言えます。
8~9節。神が聖霊を与えて、信仰によって私たちの心をきよめてくださいました。まず神の恵みが差し出され、その神の恵みを自分のためであると信じて、罪の赦しを受け取ることで救いに与かるのです。聖霊が罪を教えます。聖霊が主イエスを信じさせてくださるのです。罪人である私たちが救われることにおいて、私たち人間のなすべき行いは何もないのですが、私たち人間は、自分にできる何かを付け加えようとするのです。
旧約律法のしがらみを引きずっていたユダヤ人たちは、自分たちが負い切れなかった数多くの、細々とした律法を行うことを救いの条件にして、異邦人キリスト信仰者にも負わせようとしたのです。10節。律法を行うことによっては、救いの確信を持てなかったはずのユダヤ人たち、そして主イエスを信じることによって初めて救いの確信を得たはずのユダヤ人たちが、そのことを忘れて、律法を守ることが救いには必要であると押し付けてしまう所に、神の恵みを心底から理解することの難しさと自分の肉の力を誇りたいと思う罪人の、罪の性質の奥深さを知らされます。
新しい契約の時代、新約の世界に生きる私たちも、気をつけていないと同じような間違いを犯します。11節。私たちが救われたのは、ただ主イエスの恵みによるものです。主イエスの恵みを信じただけで救われたのです。洗礼を受けることが、私たちを救うのではありません。毎週礼拝を守ることが、私たちを救うのでもありません。日々聖書を読み、規則正しく祈ることによって、救いに与かるのでもないのです。洗礼を受けることは、主イエスを信じ受け入れたという証しとして行う大切で祝福された儀式です。できるだけ毎週礼拝をささげるのは、神を第一にして生きることの最も大きな証しであり、主なる神を愛する、その愛の現われだからです。日々聖書を読み、祈るのは、神から離れやすい、罪人の自分が神のそば近くにい続けるための、最良の手段だからです。その他キリスト者としての新しい生活習慣を身につけることは大切であり、私たちが神の聖さに近づくための霊的成長には欠かせないことです。しかし、それらの一つ一つは、救われるための条件でもないし、救われていることを保証するのでもありません。
もし私たちが、自分の救いに関して、何かの行いが必要であるかのように錯覚しているなら、そのような考えを改めなければなりません。神が与える救いは、罪人である人間の力では、決して手に入れることのできないものです。それはただ神の恵みによって与えられたものであり、神の恵みを信じる信仰によってのみ受けることのできるものなのです。
私たちは自分に罪のあることを知りました。それまで罪の意識を持たなかった事柄に対しても、罪の自覚を持つことができるようになりました。そして主イエスが、私たちの罪の処罰を受けてくださったことによって、私たちの罪のすべては赦されているということを知ったのです。主イエスが十字架で身代わりの死を遂げられたのは、主イエスの一方的な恵みです。私たちがお願いしたからではなく、私たちが罪を悔い改めたからでもありません。私たちが罪の中を生きていたその時に、一方的な恵みのゆえに十字架で死んでくださったのです。そして私たちは、神がなしてくださった救いをただ感謝して受け取りました。神の救いの御業を信じる信仰によって救われたのです。他に何もしませんでした。
初代教会は、救いは主イエスを信じる信仰のみによって与えられることを確認しました。それになにも付け加えてはならないことを公に決定したのです。20~21節は、異邦人キリスト者がユダヤ人キリスト者と交わりを持つための配慮として要請したものです。ここに記されたことはユダヤ人にとって忌み嫌うことなので、ユダヤ人への愛の配慮として受け止めてほしいとお願いした最小限の要請です。
私たちも再確認しましょう。救いは主イエスを信じる信仰によってのみ与えられるということ、私たちが考えることのできるどのようなキリスト者らしい生き方も、救いの条件として押し付けてはならないということ、ただ私たち自身は、心の割礼をさらに確かにするための努力を惜しんではならないのです。救われた者として、与えられた救いにふさわしく生きることは神に喜ばれ、受け入れられることで、さらに霊的な祝福に与ることになるのです。心の割礼を確かなものとする努力を怠ってはなりません。救われたのだから、神の恵みに感謝したのだから、神に喜ばれる生き方を追い求めますし、神を愛する者として、みことばを生きる私たちを目指すのです。私たちの心はきよめられたので、神の聖さに近づくことを喜びとするのです。9節、11節。主の御業を心に刻みましょう。

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