2022年8月14日 礼拝「主のあわれみの介入」ダビデNo.6
- hikaruumichurch
- 2022年8月14日
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皆さまは、何らかの問題が生じたときに、その解決を得ようと、自分の知恵と力でいろいろと努力たけれど、結局は二進も三進も行かなくなってしまったという経験をお持ちでしょうか。事態は悪化する一方で、自分ではもはやどうすることもできなくなり、お手上げ状態になったという経験です。
今日の箇所のダビデは、そのような状況に陥っています。もはやダビデ自身ではどうすることもできない状況の中で、主なる神はあわれみの介入をしてくださり、ダビデをこの窮地から解放してくださったのです。
イスラエル王国2代目の王として選ばれているダビデですが、初代の王サウルの執拗な追跡から逃げ続けていました。そうしてダビデは、イスラエルの領土内を逃げていては、いつまでもサウルに追われることになると考え、サウルによる討伐を終わらせるために、イスラエルの敵国、ペリシテの一つの都市国家ガテの首長、アキシュの許に身を寄せたわけです。敵であるアキシュが、なぜダビデを迎え入れたかは、想像するしかありません。考えられることは、ダビデはサウルに追われていることを、アキシュは情報として掴んでおり、ここで主君に殺されかけているダビデを助けるなら、将来何らかの時に、使いものになるかもしれないと打算的に考えたからではないでしょうか。その経緯は27章にあります。1~2節。
7節。ダビデがペリシテの地に滞在したのは1年4ヶ月です。その間、どのような振る舞いをしていたかは8~10節に記されています。そして12節。ダビデは、虚偽の報告をしながら、アキシュの信頼を勝ち取ったわけです。
8節に記されている、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人は、イスラエルが約束の地カナンを占領するときには聖絶させるようにと命じられていた住民でした。ダビデがそのことを知っていたかどうかは分かりませんが、アキシュの信頼を勝ち得るための一つの手段として、しなくても良い虐殺をする結果になっていたと言えます。ペリシテ人の地に滞在する限り、ダビデはイスラエルの敵である民の集落を攻撃し、全住民を殺害した上で、アキシュに対して嘘の報告をし、さらに信頼を得なければならないのです。不毛な殺害と虚偽の報告を続ける、ダビデの心中はいかばかりかと想像します。
29章3節。アキシュのことばを読むと、ダビデのアキシュに対する態度が想像できます。私は彼に何の過ちも見つけなかったと言わせるダビデの生活は、誠実であり、忠実であったことでしょう。主君のサウルに対しても、ダビデは常に誠実でした。忠実に仕えてきたのです。嘘の報告をすること以外は、心底信頼の置ける人物として、そのままアキシュに仕えていたと言えるのです。
そのようなダビデにとって、事態は二進も三進も行かなくなる方向に進んでいきます。ペリシテとイスラエルの全面戦争の時が来ました。ダビデはペリシテ連合軍 にアキシュと共に組み入れられ、サウルが率いるイスラエル軍と戦うことになったのです。主なる神にあって契約を結んだヨナタンとも戦うことになります。28 章1~2節。ここでダビデは、曖昧な応答をしてるのですが、アキシュはダビデを 護衛に任命するほどに信頼しきっていることが分かります。
さて29章です。ダビデはアキシュと共にペリシテ連合軍に合流することになりました。ダビデはアキシュに対して忠実であろうとします。誠実を尽くしてアキシュに仕えてきましたし、これからも仕えようとします。それがダビデの偽りのない姿勢なのです。だからこそ、アキシュはダビデのことばを信用したし、ダビデのためにペリシテ連合軍の首長たちに対して弁護しているのです。
しかしダビデにとっては、イスラエルとの戦いの場に、ペリシテ連合軍として出ていくことは避けたいというのが本音です。このペリシテへの避難は、サウルが自分を追い回すことをやめさせるための窮余の策であって、主なる神の計画に従って、自分がイスラエルの王位に就くまでの期間、アキシュに対して誠実であろうとしているからです。
これがダビデが置かれた状況です。4節。ペリシテ人の首長たちは、アキシュと一緒にいるダビデを見て不信を募らせます。なぜアキシュほどの首長が、イスラエルの王サウルよりも民衆に尊敬され、称賛されているようなダビデを信頼して、イスラエルとの戦争に出陣させるのか理解できないというわけです。3節のアキシュの弁護を読むとき、ダビデのアキシュに対する態度が、真に誠実であり、忠実であったことが想像できるでしょう。それだけダビデの心には、激しい葛藤があったものと思われます。
この29章に、主なる神は登場していません。しかし表面的な出来事の背後で、ご自身の計画を遂行しておられる主なる神を、私たちは意識するのです。今主なる神は、ペリシテの首長たちを用いて、二進も三進も行かなくなっているダビデを、その窮地から解放するのです。ダビデは、主なる神の時を待つまでは、アキシュに忠誠を尽くし続ける必要があると考えています。同時に、イスラエルの王となる神のご計画のためには、将来に禍根を残してはならないとも考えています。ペリシテ人の陣営にあって、イスラエルとの全面戦争に臨むとするなら、たとえペリシテ人を裏切り、イスラエルに勝利をもたらしたとしても、イスラエル全国民からの信頼を得ることはできなくなるでしょう。
このような窮地は、ある意味ではダビデ自身が背負い込んだと言うことができます。ダビデの人間的な力量ではこれが精一杯ということです。6節。主は生きておられると、アキシュは語りました。これはアキシュが主なる神を信じていたと考える必要はありません。最大限のリップサービスと考えた方が良いでしょう。ダビデが信じている神の名を用いて、アキシュはダビデの生き方に対する心からの称賛をしているのです。ここまで言わせるダビデの誠実さを、私たちも見ならうべきではないでしょうか。人に対しても誠実でありたいですね。
8節。曖昧です。どっちにも取れるようなことばを用いて、アキシュとの関係を壊さないようにしているとも言えます。もしダビデが出陣することになったとしたら、やはりダビデはペリシテの敵としてアキシュを裏切ることになるのではないでしょうか。9節でもアキシュは言います。あなたが神の使いのように正しいことを知っていると。虚偽の報告以外は、神の使いのように正しいと言われるような言動をしていたダビデにとって、殺戮と虚偽をしてきたことは、耐えられないような苦悩だったのかもしれません。
アキシュがどれほどダビデの肩を持って弁護したとしても、ペリシテの首長たちが頑なにダビデを排除しようとしたところに、主なる神のあわれみの介入を見るのです。10節にあるアキシュの命令によって、ダビデは居留地に帰ることになり、サウルやヨナタン、イスラエルとの戦いに臨むことなく、またアキシュを裏切ることもしないですんだわけです。しかも30章に記されていますが、アマレク人によってダビデたちの居留地は襲撃され、家族や財産が略奪されていました。もしダビデとその部下がペリシテ連合軍に加わっていたなら、家族や財産を取り戻すこともできなくなってしまうところだったということです。
ダビデがペリシテ人のアキシュの許に身を寄せたこと自体、主のみこころにそぐわなかったとも思います。26章でダビデは再度、サウル王を殺す機会がありながら、サウルを助け、その事実を告げています。とするなら、神の守りがこれからもあると確信していたと思いますが、イスラエル国内を逃亡し続けることに耐えられなくなったとも言えます。神の時と神の御業を待ち続けることの難しさを知ります。ただ、ダビデはダビデなりに、主にあっての最善を考えようとしたことは事実です。そして、そのようなダビデを主はあわれみ、主ご自身が介入して、ダビデを、その泥沼のような窮地から救い出してくださったことを見るのです。
私たちは主の御前での誠実さを追い求めなければなりません。自分のしたいことをするのではなく、主が行わせようとしていることは何かを考え、それを行うことに誠実であるということです。表面的に繕うのではなく、心底から、主に喜ばれ、主に受け入れられることは何かを考え、それを行い続けるのです。そのためには忍耐が必要です。主の時と主のみわざを待ち望むことから来る忍耐です。約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐ですとある通りです。
今週のみことばを確認しましょう。ローマ8章28節。主を愛し続けることが秘訣です。主なる神を愛する者は、主の格別な愛で愛される者となります。そして主を愛する者は、神のご計画にしたがって、主のみわざのために召され、その者のためには、すべてのことがともに働いて益となるという、主の祝福の約束が実現していくのです。アキシュは真に理解したわけではないけれど、ダビデと主なる神との関わりについて、主は生きておられると語りました。
主は生きて働かれるお方です。たとえ私たちが主を信頼しきれずに、みこころにそぐわない選択をしたとしても、そこで主にあっての最善を求め続ける私たちを、主は助け、守り、導いてくださるのです。主なる神のあわれみと恵みを、改めて確認し直し、主を愛し続ける者となりましょう。自分の意思による決断です。神を愛するという意思決定をし続けることが大事です。

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