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2022年7月24日 礼拝「復活の希望に生きる」コリント人への手紙I 15:35-58

  • hikaruumichurch
  • 2022年7月24日
  • 読了時間: 8分

 今年も、先に天に召され、天の御国に凱旋された信仰の先輩たちを思って、召天者記念礼拝を主なる神に献げています。私たちが毎年、年に一度であっても、召天者を記念しての礼拝を主なる神にお献げして、主イエス・キリストの復活や天の御国に関する讃美歌を歌い、私たちの死と死後に関する神のことばに耳を傾けることは、本当に幸いである思うのです。年に一度であっても、このような機会を持つことは大事です。


 召天者を記念するのは、世の人々がするような先祖供養のためではありません。故人をなつかしく思い、信仰の先輩の歩みの確認はしますが、それ以上に、私たちもまた死ぬ者であるという事実に向き合い、死後の希望について、神のことばで確認する、とても重要な機会なのです。自分の死について、また死後について、あまり考えないで過ごしている私たちですが、このような機会に、自分も死ぬ存在であるという現実に直面するのです。


 人は必ずこの世を去る時を迎えます。私たちも死ぬ時が定まっています。今は元気で、自分の将来に、様々な夢や希望を持っているでしょうが、年とともに肉体の衰えを実感することになります。そうして死と共に、私たちの肉体は朽ちていきます。しかし私たちの霊は朽ちることはありません。霊は私たちの人格そのものであり、永遠の時の流れにおいて唯一無二の存在として、創造者である神が造られたものです。その霊は、神の主権の下に置かれ、この地上に戻ることはありません。そして聖書は、死を眠りと表現します。眠りと言われるのは、目覚める時が定められているからです。


 創造者である神が、主イエス・キリストによって与えてくださる救いは、永遠のいのちです。そしてイエス・キリストを自分の救い主として信じ、受け入れた者には、永遠のいのちが与えられています。私たちはだれもが、必ず死にます。しかし死んで、終わりではありません。復活が約束されています。復活の時が、目覚めの時です。そして復活の時は、主イエス・キリストが再びこの地上に来られる日、主の再臨の日です。キリスト信仰者は、与えられている地上生涯を、死と復活を見据えながら歩む者とされています。そうして主イエス・キリストの再臨を待ち望みながら、その約束の日を喜び迎える者として歩んでいるのです。


 さて、イエス・キリストは、ローマ帝国の極刑である、十字架刑で処刑され、死にました。約2000年前の出来事です。神の御子、神であるお方が人としてこの世に来られ、人々に神の国を知らせたけれど拒まれ、十字架刑に処せられました。そして死んで、遺体はアリマタヤのヨセフが所有する私有墓地に葬られました。ここまでは歴史的な事実として認められています。その実在を否定するのは、歴史的事実を拒否することです。


 ローマ総督ピラトは、裁判の席上で、イエスの無罪を宣言し、少なくても3度、釈放すると主張したにもかかわらず、ユダヤ教指導者たちの脅しに負けて、極刑である十字架刑の判決を下したのです。さばくべき罪はないと見なされたのに、重罪人とされ、処刑されたのがイエス・キリストです。これは、創造者である神が用意された、私たち罪人に罪の赦しをもたらすための、救いの方法、唯一の方法でした。


 人が自分に罪があると正直に認め、差し出されている罪の赦しを受け取ることで、救いに与る、これが神が備えられた方法です。イエスのあの十字架刑は、私の罪を赦すための身代わりの処罰であったと信じ、自分の罪を悔い改めることで、誰もが罪の赦しを受け、罪からの救いに与るのです。私たちにも罪の赦しと罪からの救いが差し出されています。主イエスの十字架の死は私のためであったと感謝して、罪の赦しを受け取るだけです。罪の赦しを受け取った人は、だれもが救われ、永遠のいのちが与えられます。


 イエス・キリストは十字架で処刑され、死にました。しかし三日目に死者の中から復活したことによって、あの十字架は、罪を赦すための身代わりの処罰であり、信じる者を真に救うということの証明とされたのです。そしてキリストの復活を通して、信じる者に与えられている復活の約束もまた現実となったのです。


 人は一度死にます。私たちも必ず死ぬ時を迎えます。これは誰も避けられません。そして死後に、この地上でなしたすべての言動に対して、公正な神の御前での審きを受けることが定まっていると、聖書は告げています。私たちも死んだ後に、自分が地上生涯でなしたすべての言動の一つ一つに対して公正な審きを受けるのです。その時、主イエスの十字架による身代わりの処罰を自分のためであると信じた者は罪が赦されているので、罪のない者、罪は犯さなかった者と見なされるので、さばくべき罪はないと宣言されるのです。赦しとはなかったことにするということです。私たちが犯した罪に対する処罰は、主イエスの十字架刑による身代わりの処罰で終わっているので、それを自分のためであったと感謝して受け取った者に、罪の赦しが及ぶということです。


 だからキリスト信仰者は、公正な神、義の神を恐れることはありません。さばかれることはないと約束されているので、安心してこの世を去ることができるのです。そうして創造者である神を愛するお父さまとお呼びし、感謝と喜びをもって、父なる神の前に立つことになるのです。死は恐怖ではなく、喜びと希望に変わりました。


 6章14節。神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちも、よみがえらせてくださいます。神のことばの約束は、神が私たちをよみがえらせてくださることです。私たちは死者の復活を否定してはなりません。神が復活させてくださるという約束を確認して歩むということです。神はご自分の計画の中で、死者をよみがえらせ、ご自身の前に 立たせる時を定めておられるのです。


 私たちは死にます。私たちがこの地上に生きている間に、イエス・キリストが来られなければ、私たちもまた死ぬのです。しかし私たちにとって死は終わりではありません。私たちはよみがえるからです。新しい肉体を与えられて神の国を生きるのです。


 15章50節。私たちの肉体はやがて朽ちます。それはこの朽ちる肉体では、神の国に入ることはできないからです。また私たちが目で見ている世界、この地球も、宇宙も、天地万物は朽ちます。すべてが滅びます。神の定めた世の終わりの時に、跡形もなく消え去るのです。そして新しい天と新しい地が、神の約束のとおりに造られます。


 51節。死は眠りです。主イエス・キリストが再び来られるとき、すでに死んだ者と、生きている者がいます。みなが眠るわけではありませんとは、そのとき生き残っている人々のことを指しています。しかし死んだ者たちは眠っているのであり、主イエスの再臨の日に目覚めるのです。死者の肉体は朽ち果てます。しかし神のかたちとして造られた私たち人間は霊的な存在であり、その霊、私という人格は残っています。死者は眠りに入り、神の定めた時に新しい肉体に復活するのです。天上のからだ、朽ちないからだ、栄光あるからだ、力あるからだ、御霊に属するからだと表現され、よみがえるのです。


 52節。万物の終わりの時が定められています。終わりのラッパが響き渡るときです。イエス・キリストが十字架で死なれたことで罪の赦しを備え、三日目に復活されたことで、罪の赦し、救いは完成しました。救いが完成したので、いつ主イエス・キリストが再び来られても良い時代を迎えています。今は終末の時代と言われる所以です。


 神が定められたときに、終わりのラッパが響きわたり、主イエスは栄光を帯びて、御使いたちを引き連れて、公正なさばきを行うために、この地上に来られます。その時、死者はよみがえります。主イエス・キリストを信じた者たちは朽ちないからだ、神の国を相続する天上のからだが与えられて復活し、再創造される新しい天と新しい地で永遠を神とともに生きるのです。死者は朽ちないものによみがえります。生きていてキリストの再臨を迎える信仰者は、朽ちないからだ、天上のからだに変えられるのです。53~57。


 イエス・キリストを信じて、天の御国に凱旋した信仰の先輩たちに対しても、肉体の死は何の力も及ぼしません。また私たち、死んで主イエスの再臨の迎えたとしても、生きていて主イエスの再臨を迎えたとしても、キリスト信仰者は、朽ちないからだによみがえるか、一瞬のうちに変えられるか、どちらかです。どちらであっても、主イエス・キリストを信じた者は、朽ちないからだが与えられて、永遠を生きる者とされているのです。


 だからこの世の生に執着しません。他の人と比較して、それも物質的な祝福の比較で、自分は幸福であるとか、不幸であるとかと考えることもしません。この世がすべてであると考えている人にとって、肉体の死は悲劇です。しかし天の故郷を仰いでいるキリスト信仰者は、死後についての約束があるので、肉体の死を悲劇とは考えません。死は、天の御国へ行く通過点と変えられているからです。死は希望そのものです。


 57節。キリスト信仰者は神に感謝します。死は勝利に呑み込まれました。私たちの主イエス・キリストが私たちに勝利を与えてくださったのです。死の恐怖は取り去られ、死後について、永遠を創造者である神とともに生きることになると約束されているので、私たちは神に感謝するのです。朽ちることのないからだが与えられます。


 主イエス・キリストを信じている方は、神の約束をしっかりと握りしめ、希望をもってこの地上生涯を主とともに、主にあって歩みましょう。また主イエス・キリストを信じていない方は、神の約束を確認し、神が備えられた救い、罪の赦しを受け取っていただきたいとお勧めします。創造者である神は、あなたを愛しておられます。私たち一人ひとりを救おうと招いておられます。救いに必要なことはすべて、神が恵みによって備えられました。私たちは主イエス・キリストの十字架によって備えられた罪の赦しと罪からの救いを感謝して受け取るだけです。そうすると、死は恐怖ではなくなり、喜びと感謝、希望に変わります。これをぜひ自分のものとしてください。



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