2022年7月17日 礼拝「主にあって大胆に進む」使徒 14:19~28
- hikaruumichurch
- 2022年7月17日
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前回私たちは、バルナバとパウロが、シリアのアンティオキアにある教会から、第一次伝道旅行に派遣される箇所を確認しました。今日の箇所は、バルナバとパウロによる第一次伝道旅行の終わりの部分です。第一次伝道旅行の記録は13~14章で、バルナバとパウロがアンティオキアの教会から送り出されて、再び戻ってくるまでの出来事です。
配布した地図で、第一次伝道旅行の行程を確認しておきましょう。シリアのアンティオキアが出発地点です。13章4~12節にキプロスでの伝道の様子が、13節以降で、キプロスを離れパンフィリアのベルゲを通り、ピシディアのアンティオキアでの伝道活動が記録されています。14節。ピシディアのアンティオキアで、彼らはユダヤ教の会堂に入り、会堂管理者の要請に基づいて福音を語りました。その内容が16節以降です。
42~43節。多くの人々がそのメッセージを受け入れたことが分かります。44~45節。多くの群衆がパウロが語る主のことばを聞きに集まったのを見たユダヤ人たちは、妬みに燃えて口汚く罵り始めます。しかし49~50節。パウロとバルナバはユダヤ人たちにではなく、異邦人に福音を語り続けたことで、主のことばはピシディア地方全体に広まって行きました。その結果、信じる人々と信じようとしない人々がはっきりと区別されるようになり、信じようとしない人々はパウロとバルナバを迫害し、その地方から追い出すのです。52節。ふたりはイコニオンへと向かって行きました。
14章1節。イコニオンでの伝道活動の記録です。ユダヤ人もギリシア人も大勢の人々が信じたとあります。しかし2節。信じようとしないユダヤ人たちによって妨害がなされたのです。ここでも信じる人々と信じようとしない人々がいて、信じようとしないユダヤ人たちは、町の人々を扇動して悪意を抱かせ、妨害させますが、パウロとバルナバは様々な妨害にも関わらず福音を語り続けます。そして5節。信じようとしない人々によって石打ちにされそうになったのでリステラに逃れました。
6~7節は、その後のまとめです。8~18節はリステラでの出来事を詳細に記し、このリステラでも迫害を受けたことの記述が19節以降です。
19節。パウロとバルナバがリステラで福音を宣べ伝えていることを知ったピシディアのアンティオキアとイコニオンに住むユダヤ人たちがリステラにまでパウロたちを追いかけてきました。何としつこいのでしょうか。それだけパウロに対する憎しみに駆られていたということでしょう。パウロをユダヤ教に対する脅威と考え、危機感をもって攻撃を続けているのでしょう。多くの人々がイエス・キリストを信じ始めている。そのような事態を前にして、妬みとともに激しい怒りとなっていたのではないでしょうか。
ユダヤ人たちは、リステラの町の群衆を抱き込んでパウロを石打ちにします。イコニオンでできなかったことを、このリステラでしたわけです。そしてパウロを殺すことに成功したと思い、町の外に引きずり出して捨て去ったのです。20節。実際にはパウロは死んではいませんでした。主なる神がパウロのいのちを支え、奇跡的な回復を与えてくださったので、立ち上がって町に入ることができました。弟子たちにとっては大きな慰めであったと思います。そしてパウロとバルナバは難を逃れるためにデルベに向かったのです。
さてここからです。今日私たちが注目するのは、パウロの不可思議と思える行動です。21節。デルベで福音を宣べ伝え、多くの人々を主イエスの弟子にしました。パウロは、どこに行ってもそこで福音を宣べ伝えるという使命を果たすのです。そして福音をまっすぐに語るなら、信じる人々を見る喜びを味わうと共に、敵対する人々の妨害を受け、苦難に会う覚悟をしていました。ですからアンティオキアやイコニオンのユダヤ人たちがパウロに危害を加え、瀕死に至らせたことに対してパウロは何の怒りも憎しみを持たなかったと想像できます。自分に危害を加えている人々のために、執り成しの祈りをしたのではないでしょうか。主の恵みに支えられて、敵を愛し、迫害する者のために祈るのです。
私が不可思議と思える行動とは、デルベで福音を語り、多くの人々を主イエスの弟子とした後に、パウロは自分に危害を加えた人々が住んでいる、イコニオンとピシディアのアンティオキアに引き返したことです。
地図を見ましょう。デルベからパウロの故郷タルソはさほど遠くではありません。何よりも、自分を襲って殺そうとした人々から遠ざかれます。そしてタルソを通ってシリアのアンティオキア、神の恵みに委ねて送り出してくれた教会に一刻も早く帰りたいと思ったとしても不思議ではないはずです。パウロは難を逃れるためにリステラからデルベに向かったはずです。しかしパウロはタルソへ向かうのではなく、リステラに引き返して行きました。どうしてわざわざ敵対している人々がいる中に入って行ったのでしょうか。
パウロの思いがどうであったのか正確に知ることはできません。ただ想像させていただけるなら、デルベで福音を宣べ伝え、主イエスを信じる人々が多く起こされる様子を見る中で、パウロの心に浮かんだのは、多くのユダヤ人たちの激しい敵対意識に晒されているリステラなどに住む主イエスを信じたばかりの人々だったのではないでしょうか。彼らを放っておいてはならない。福音の恵みにしっかりと結びつくように、どれほどの激しい迫害に晒されたとしても、なお主の恵みに留まり続けることができるように、神の恵みのことばを伝える必要を覚えたのだと思うのです。だからパウロはタルソを経てシリアのアンティオキアにではなく、危険にさらされたとしても、リステラ、イコニオン、ピシディアのアンティオキアへと引き返したのではないでしょうか。このようなパウロの行動を知る時に、勝利者イエスにすべてを委ねきるキリスト信仰者の真の強さを見るのです。
かつて主イエスは弟子たちに語られました。十字架での死を目前にする緊迫した状況の中で、主イエスの弟子であることのゆえの苦難に備えさせ、様々な苦難に対しての勝利を約束されたのです。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」と。
主イエスの十字架そのものは、一見敗北に見えます。しかし主イエスが十字架でいのちを捨てることは、私たち罪人をその罪から解放し、神のいのちに生かす勝利そのものなのです。勝利か敗北かは、その時には、また表面的に見えることでは分かりません。その時は完全に打ち負かされたように見える主イエスの十字架での死が、人々を罪と死の呪いから解放する神の勝利、救いの方法であったと理解している私たちは、真の勝利は表面的な見え方とは違うということを、主にあって知っています。
パウロが、自分を敵を見なし、殺そうとしたユダヤ人がいる町に戻っていくなら、どのような危険に晒されることになるか予想できます。しかしそのような危機感に押し潰されてしまうのではなく、勇敢に引き返していくパウロに、真の信仰の勇者、キリストにある勇敢な信仰者を見るのです。その勇敢さは、全能の神にすべてを委ねるという、主なる神への信頼から生まれるものです。すべてをご主権の中に治めておられる全知全能の主なる神に自分を委ねきって、その上で自分が果たすべき使命を、働きをなそうとするパウロに苦難に打ち勝つ秘訣、大胆に事を進めていく秘訣を見るのです。
パウロは、自分の身の安全よりも、生まれたばかりの教会の今後を考えました。教会がキリストを信じる信仰にしっかりと立つための土台作りが自分に委ねられた使命であり、その使命を果たすことが主に従うことだと考えたのでしょう。
22節。パウロが戻ってきました。それ自体が主イエスの弟子たちを励まし、その心を強くしたと思われます。主イエスを信じて、主イエスとともに生きることは、この世の価値観や慣習、考え方や生き方と異なる歩みとなります。世の人々から理解されず、非難を受けることになるでしょう。周囲と同調しないので、いろいろな中傷や攻撃を受けます。だから主イエスを信じたのに、こんなはずではなかったと思ったり、主イエスを信じても、何の意味もないなどと動揺させられたりします。様々な苦難に遭います。だから勝利者イエスを見上げて、勇気をいただくことが大事です。大胆にされる必要があるのです。
主イエスを信じる信仰にしっかりと留まるとは、生き方を変え続けることになります。この世の常識や基準ではなく、神と神のことばという絶対的な基準を生きるのです。だからこの世の常識や基準に生きる人々との間に様々な問題が生じます。問題が生じるのは当然なのです。神を第一にするという思いは世の人々にはありません。価値基準が根本から違っているのですから、それを鮮明にすればするほど様々な摩擦や軋轢が生じます。
22節。パウロは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならないと確認させます。神の国に入るとは、神の国を生きるということです。神のご支配を喜び、そのご支配に自分を委ねて生きることです。それはこの世から苦しみを受けることになります。しかしどれほどの苦しみに晒されるとしても、主イエスを信じて、罪が赦された喜びや神の国を生きる幸いを味わうなら、そのような苦しみの中でも勇敢であり得るのです。だからパウロは弟子たちの心を強めます。主イエスを信じる信仰にしっかりと留まるようにと勧め、神のいのちに生きることの幸いを確認させるのです。全世界を手に入れても、いのちを損じたら何の得がありましょうと言われた主イエスのことばの重みを覚えます。
23節。主に委ねることができる。これほどの慰めと平安はありません。委ねる側も、委ねられる側も、全知全能の主がすべてを支配しておられることを確認し、そのお方の御手の中にいることを味わうのですから、これほどの平安はありません。
こうしてパウロとバルナバによる第一次伝道旅行は終わりました。神の恵みに委ねられて送り出されたパウロとバルナバは、神の恵みを確認しつつ、激しい苦難に打ち勝って、福音を宣べ伝え、主イエスを信じる信仰に留まることを勧めて、帰ってきたのです。
私たちにも信仰の戦いはあります。しかし私たちも常に勇敢でありましょう。神のことばに生きることを中断することなく、信仰の戦いを戦い続けましょう。自分の一切を主に委ねることから、勇敢な信仰者の歩みが始まります。そしてこのすばらしい福音を、人を救うことのできる唯一の福音を、大胆に伝える私たちとなりましょう。神の恵みに委ね、主ご自身に自分を委ねて生きる。ここに苦難に打ち勝つ勝利があることを覚えましょう。

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