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2022年6月26日 礼拝「人生の土台」マタイ7:24~27

  • hikaruumichurch
  • 2022年6月26日
  • 読了時間: 10分

 皆様は洪水を経験したことがあるでしょうか。あるいは、洪水の後片づけを手伝ったことがあるでしょうか。私は実家が水害にあったとき、一週間ほど後かたづけをしたことがあります。私の実家は福島県の郡山市ですが、30年ほど前の大雨で阿武隈川が氾濫し、ある地域は屋根まで水に浸かる被害も発生しました。実家の被害は、家の脇を流れている阿武隈川の支流が氾濫したことによります。阿武隈川からの逆流を止めようとして、行政が水門を閉じたため水が溢れ出し、腰の高さまでの床上浸水となったのです。


 堤防が決壊したのではないので、家が流されることはありませんでしたが、家の中は汚泥のため、酷い臭いが鼻をつきました。元の生活に戻すために相当数の時間と労力、そして費用をかけたけれど、床のぶかぶかは直らず、結局は建て直したのです。


 今は毎年のように、各地で洪水が起こります。洪水でなくても、津波によって家屋が流されることもあります。東日本大震災の時の大津波はひどい被害を生じさせました。八重山でも津波被害の経験はあり、そろそろ起こるのではないかとも言われています。大地震で家が倒壊することもあり、台風で吹き飛ばされることもあります。私たち人間の想定をはるかに越えて、私たちの生活を根底から覆すような自然災害はいつ起こってもおかしく ないと言えます。ただ、私たちが住む家が被害を受けたとしても、いのちが保たれていれ ば、復興に向かえます。意気消沈したり、絶望的になったとしても、復興に向かうことは できるのです。困難はあるけれど、やり直しはききます。


 しかし、この地上の家ではなく、自分の人生という家、しかも永遠がかかっている家を考えるなら、壊れたら作り直せばよいという安易な取り組みはできません。ただ一度きりの、永遠のいのちに関わる人生という家を建てることだからです。自分の人生の土台を何にしているのか、どのような土台の上に建てているかを問うことは非常に重要です。


 皆さまはどのような人生を築いているでしょうか。築こうとしているでしょうか。この世での成功を目指しているでしょうか。金持ちになる、平和で安定した生活を送るという人生でしょうか。この世での、いわゆる人々から羨ましがられる、良いと言える人生を築き上げることができたなら、それはそれなりに素晴らしいでしょう。


 私たちが、自分の人生に理想を求め、それを手にするために努力し、取り組むことは大切です。ただ私たちがキリストの教会に来たのは、この世で金持ちになるとか、この世で成功を収めるとか、この世での出世や名誉を手にするためではなかったはずです。慰めを得たい、癒しを味わいたい、平安を持ちたい、心の満たしが欲しいというような求めだったのではないでしょうか。どのような願いであっても、私たちはただ一度の人生を歩んでおり、それはこの地上だけのことではなく、永遠を見据えての人生を築いているという認識が重要なのです。そして永遠を見据えての人生を築くにあたって、何を土台にするのかが重要です。そのことを考えながら、主イエスの語りかけに耳を傾けましょう。


 主イエスは群衆に、神の国について語ってきた、そのまとめをしました。そして28~29節を見ると、話を聞いていた群衆は驚いたとあります。なぜ驚いたのかというと、イエスが権威ある者のように語られたことに驚いたのです。


 ナザレ出身のイエスは、今人々から注目を集めている新進気鋭の人物です。無名だった男が、突然人々の前に姿を現し、イスラエルの北部、ガリラヤ地方全土を巡って、神の国について語り、あらゆる病気を直し、悪霊に憑かれた人を解放し、不治の病をも癒していたので、人々が大勢集まってきたのです。そして山の上で、ナザレのイエスは、長い長い話を、律法学者たちのように、モーセはこのように言った、昔の人はこのように言ったと語るのではなく、わたしはあなたがたにこう言いますと、権威ある者として、従うなら神の祝福に与ることになる、天の御国の住民として生きることになると招いたのです。


 では、私たちはどう応答するでしょうか。24節。わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。26節。わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。このように語るとは、この人はいったい何者なのでしょう。自分のことばを聞いて行う者は賢い人で、自分のことばを聞いて行わない者は愚かな人だと断言するのです。主イエスが権威ある者として、神としての権威で語っているとするなら、真伨に耳を傾けなければなりません。そして、イエスのことばを受け入れるのか、無視するのかを問わなければならないのです。


 主イエスは別の箇所で次のように語っています。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。主イエスは、自分こそが父なる神に到達できる道、天の御国に行くための道、永遠のいのちに通ずる道だと言いました。自分こそが真理そのものであり、いのちの根源、人を真に生かすいのちそのものだと言い切ります。


 この世の多くの人々は、ナザレのイエスを三大聖人のひとりに位置づけていますが、もし本当に三大聖人の一人だとするなら、イエスは単なる人間となり、このような戯れ言を言う人物を、まじめに相手にしてはなりません。大言壮語そのものであり、精神異常者の虚言と言えます。ナザレのイエスが人間であるなら、こんな男を信用してはなりません。


 しかし神であるお方が人となられたなら、様々な奇跡も奇跡ではなく、行えるのは当然になります。何もなかったところに宇宙万物を創造なさる神ですから、病気を直すこと、悪霊を追い出すこと、湖の上を歩くこと、嵐を静めること、死人を生き返られることも、その他のいろいろな奇跡と言われることすべては、できて当たり前です。


 だから私たちは主イエスのことばに真っ正面から向き合う必要があります。ナザレのイエスは十字架で処刑されました。重罪人として極刑で死刑にされた男です。世の人々は、キリスト信仰者である私たちを、重罪人として処刑された男を救い主として、神として信じる哀れで、滑稽な人たちと見なしています。


 しかしイエスは神の子キリストであり、あの十字架は、罪人たちの身代わりの処罰、私たちが犯してきたすべての罪に赦しを与えるための処刑であって、その身代わりを自分のためと信じ、受け入れる者は罪が赦されるという、神の約束を信じ、受け入れたのがキリスト信仰者です。キリスト信仰者は大真面目に、十字架で処刑された男を、神の子キリストであると信じ、十字架による罪の赦しを受け取った者たちです。


 主イエスは宣言します。人の子、イエスはご自分を人の子と呼び、人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来た、と人にいのちを与えるために、死ぬために来たと言われたのです。


 愛する皆さま。ぜひナザレのイエスについて吟味してください。ナザレのイエスは私たちと同じ人間なのか。それとも神の子、つまり神であるお方が人となられたのかを吟味してほしいのです。すぐに判断はつかないでしょう。しかし調べ、探求してほしいのです。そして、私たちと同じ人間だと判断したなら、ナザレのイエスは頭のおかしい、信じるに値しない人物として、その人のことばなど聴く価値がないと退けることが大事です。


 しかし、ナザレのイエスは単なる人として扱ってはならない。神の子なのかもしれないと判断し始めたなら、その語ることばに対して真剣に取り組む必要があります。愚かな人とならないで、賢い人となりたいのなら、イエスのことばを聞いてそれを行う者となることが必須条件だからです。愚かな人が築き上げた人生は、洪水に巻き込まれて倒れてしまいます。しかもその倒れ方はひどいと言われています。再建不可能な倒れ方になると警告されているのです。イエスのことばを聞いて行うことが賢い人になる条件です。


 私たちは今、主イエスが山の上で長い話をされた、そのまとめを見ています。群衆はナザレのイエスの長い話を聞きました。それは権威ある者として語られたことばです。5章3節から始まっています。その冒頭で「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」と語られました。


 心が貧しい者とは、心が極貧状態という意味です。自分は何もできない、自分には何の力もない、神を仰ぐことしかできない、神の憐れみにすがる以外にないと自覚し、だから神にすがっていく者の心の貧しさです。その人たちは天の御国を生きることになります。だから幸いなのです。天の御国を生きるとは、神の支配に自分を差し出し、神のことばにすがって生きることです。自分に力があると思う者は、その部分において神の助けを必要としません。神に聞き従うことを退け、自分の判断を優先します。だから神の支配に自分を差し出しません。天の御国を生きることをしないのです。貧しいとは自己破産の状態であり、自分では何もできない、助けを仰ぐ以外にないと自覚する状態です。


 続いて4節。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。何を悲しむのでしょうか。自分の罪深さを悲しむのです。神の御前に何の自己弁護もできない、自己正当化できない、数々の罪を犯してきた、その罪深さです。神を神として仰がなかった、神に聞き従うことをしないで、自分の判断を優先してきた、その罪深さを悲しむのです。


 少しでも自己正当化するなら、自分の罪深さを悲しむことはしません。環境のせいにしたり、人のせいにして、自分を被害者の立場に置いて、人を罪に定めることで、自分は悪くないと、自己正当化します。しかしその人は不幸です。慰められないからです。自分の罪を自覚し、その罪を悲しむ者は、罪の赦しを受け取ることで、慰めを受けるのです。


 そのような人たちは5節、柔和な者となります。自分の弱さ、自分の惨めさ、自分の欠けを知っていて、そのような自分が愛され、受け入れられていると知ったので、人の弱さや欠けを攻撃し、見下すのではなく、その人の弱さや欠けを受け入れ、補い、助け、支え合う者となるからです。地を受け継ぐとは、地で人々と良い関係を築くことです。


 そして6節。義に飢え渇く者となります。神の義を追い求め、神の義にふさわしい者となることを追い求めます。自分が義の基準を作り、それを押しつけるのではなく、神を義そのものであるとし、神のことばを絶対的な基準として、自分には神の義にふさわしいものは何もないと自覚し、飢え渇く者は、神の義を追い求めて神に助けを求めます。その結果神の義を身に付けていき、神の義に満ち足りる者へと変えられていくのです。


 7~9節。憐れみ深くなり、心のきよい者とされ、平和をつくる者へと変えられます。伴は、心の貧しい者です。主イエスの一つ一つのことばに対して、自分は何一つできないと自覚した上で、そのことばを行う者となりたいと願って、神の助けを求める者が、主イエスの語る、わたしのこれらのことばを聞いて行う者です。天の御国はその人たちのものです。最大の洪水、肉体の死によっても流されない、堅固な土台の上に自分の家を建てる賢い人と言われるのです。決して倒されない、頑強な土台は主イエスであり、主イエスのことばです。その土台の上に自分の永遠のいのちに至る家を建てる者となりましょう。


 神に愛されている皆さん。ナザレのイエスは十字架で処刑されました。私の罪を赦すために、あなたの罪を赦すために、私の代わりに、あなたの代わりに、十字架で身代わりの処罰を受けました。そして死んで、墓に葬られたのです。しかし三日目に、埋葬された墓からイエスの遺体はなくなりました。予告していた通りよみがえられたからです。そして40日後に、弟子たちが見ている中、天に上っていかれました。だからその後、誰もイエスのからだを、その遺体であっても、指し示すことができずに今日を迎えています。


 主イエスの復活の事実こそが、ナザレのイエスが神の子キリスト、神であるお方が人となってこられたことの証拠です。神であるお方が罪を赦すために、私たちの代わりに、十字架で罪の処罰を受けました。このお方を信じる以外に救いはありません。神が人となられたお方、主イエス・キリストを信じたのであれば、このお方のことばを聞いて行うのは当然です。このお方のことばを聞いて行う者となりましょう。ここに永遠のいのちに至る家を建てるための土台があります。主イエスが土台であり、主イエスをことばを聞いて、それを行う歩みが、人生の土台なのです。



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