2022年12月25日 礼拝「東方の博士たちに倣う」マタイ2:1~11
- hikaruumichurch
- 2022年12月25日
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クリスマスおめでとうございます。クリスマスも今や、日本の年中行事の一つとして、社会に定着しています。私の子どもの頃はまだ、キリスト教会以外に、クリスマスを特別な日として過ごす人はあまりいなかったと思います。しかし今は、本当に多くの人々がクリスマスを特別な行事として過ごしています。ただその多くの人々は、クリスマスが何を記念する日であるかを知らないでいます。救い主、神のひとり子が人として誕生したのを記念する日、自分の救い主がお生まれになったことを記念する日であるのに、そのことを知らないで過ごしているのです。主役と無関係に、ただ楽しんでいるということです。
今日私たちは、東方の博士たちが、救い主の誕生を知り、その方を自分の救い主として礼拝するために、遠路はるばる旅をしてきたことを確認して、その姿勢に倣いたいと考えています。東方の博士たちは、神の民であると自負していたユダヤ人たちから、神の救いからはほど遠い人々と見下されていた人々です。
創造者である神は、神の民であると自負していたユダヤ人たちにではなく、そのユダヤ人たちから見下されていた人々に、救い主の誕生を知らせました。東方の博士たちには、不思議な星の出現によって、羊飼いたちには、御使いによって直接知らせたのです。ユダヤ教の宗教指導者や、一般民衆にではなく、当時社会的に底辺に置かれ、律法を守っていないからと、職業的に見下されていた羊飼いたち、そしてユダヤ人ではないという、それだけの理由で民族的に見下されていた東方の博士たちに、救い主の誕生を知らせたのです。しかも救い主は、王宮にではなく、裕福な家庭にでもなく、家畜小屋で生まれ、布にくるまれて、飼葉おけに寝かされました。救い主はどん底の状態で現れたのです。
どうして救い主は、飼葉おけに寝かされるようなどん底の状態で、この世に生まれたのでしょうか。それは、あらゆる境遇にある人のための誕生であり、その人が自分の救いを必要とするなら、人々から救われるに値しないと見なされていても、救いを求めることができ、救い主のもとに行くことができるためです。事実、羊飼いたちは救い主を捜し当て、救い主の誕生を喜びました。救い主は家畜小屋で生まれたのでお会いできたのです。救い主は家畜の糞尿の悪臭が漂う環境の中に、不衛生で汚い場所に生まれました。救い主は、私たちが願うなら、私たちの心がどれほど汚く、醜いとしても、そこにも入ってきてくださいます。そして私たちが迎え入れる時、私たちの心は喜びと感謝に溢れるのです。
今日私たちは、一般的に、三人の博士として知られているクリスマスの場面を、聖書で確認します。司会者が読まれた時に気づいた方もいたと思いますが、博士が何人で来たのか記されていません。博士たちのささげた贈り物が3種類なので、三人の博士と限定したのでしょう。実際は何人か分かりませんし、人数は重要ではありません。
この箇所には、東方の博士たちの他に、ヘロデ王、エルサレムの住民、祭司長たちや学者たちがいます。これらの人々は、救い主の誕生という知らせに対して、異なる対応をしました。その対応の違いを見て、私たちはヘロデのようにではなく、宗教指導者たち、また民衆のようにでもなく、東方の博士たちのように、救い主を捜し、自分の救い主として認め、受け入れ、自分の王として崇め、礼拝する者でありたいのです。
東方の博士とは、バビロンかペルシア、現代の国で言うなら、イラクやイランの人で、占星術や夢の解き明かしなど、呪術的な事柄に関係していた人々と思われます。かつて神の民イスラエルの人たちは、バビロン捕囚という屈辱の中で、不信仰と神への背きの罪のゆえに国が滅ぼされたことを認め、と同時に、神の救いと回復の約束に立って、罪を悔い改め、救い主誕生の希望を語っていたと考えられます。ユダヤ人たちの、この、メシヤ待望に関して、一部の学者たちが研究を続けていたということです。
東方の博士たちは、不思議な星の出現を確認したとき、ユダヤ人たちから聞いていたユダヤ人の王の誕生が実現したと考えたのです。そして1000km以上も旅をして、エルサレムに到着しました。彼らは、ユダヤ人の王として生まれた方を求めました。そのお方を拝みたいと考えて、旅をしてきたのです。東方の博士たちに学ぶ、第一のことは、救い主を求めることの大切さです。求める者は受け、捜す者は見出すのです。
東方の博士たちと対照的な人々は、神の救いに最も近いと自負していた神の民イスラエルでした。しかも政治的な指導者、宗教的な指導者たちが、実際には神の救いから最も遠い存在になっていたのですから、人の考えとか判断はあてにならないと言えます。
2~3節。東方の博士たちは当然のようにエルサレムの王宮に向かいます。ユダヤ人の王として生まれたからには、王子として王宮にいるに違いないと考えたわけです。博士たちの謁見を受けた時、ヘロデ王が、そしてエルサレムの住民も、動揺しました。約束のメシヤ誕生の知らせに対する喜びや感謝はなく、動揺であったという事実に、神の民イスラエルの、霊的貧困の状態を見ることができます。
ヘロデは自分の王位を守ることに神経をとがらせる人物で、猜疑心が強く、常に自分の地位がねらわれているのではないかと恐れ、妻や子どもでさえも疑いの目で見、実際に殺してしまったほどの人物です。ローマ皇帝アウグストゥスは、ヘロデの子どもであるよりも、ヘロデの豚の方が安全だと言ったと伝えられています。
そのようなヘロデにとって、ユダヤ人の王が生まれたと聞かされた動揺は、相当のものであったと想像できます。だから8節。博士たちには丁重に応対しながらも、すでに、新しい王と思われる者の殺害方法を練っていたのです。
エルサレム住民の動揺は、ヘロデが何をするか分からないところから来る恐れです。新しい王が生まれたと聞かされたなら、ヘロデは手段を選ばずに抹殺にかかるだろうとの予測から来る動揺でしょう。待望のメシヤ誕生の知らせのはずでした。しかし住民は、その知らせに驚きはしても、それを良き知らせとして感謝し、受け入れて、自分の目でメシヤを見出し、拝もうとは思わなかったのです。彼らの霊的貧困も相当のものです。
宗教指導者たちは怠慢です。祭司長たち、律法学者たちは、救い主誕生の地名をすぐに答えました。5節。彼らは救い主誕生に関する知識とその根拠を持っていたのです。しかしそれだけでした。東方の博士たち、神の救いから遠いと見下している異邦人たちがはるばる来て、救い主を求めているのに、自己満足に陥っていた宗教指導者たちは、救い主に会いに行こうとはしませんでした。どこに行けば良いのかが分かっているのに、何もしない霊的怠慢さであり、霊的鈍感さです。求めないから、得られません。
9節。博士たちは教えられた通りにベツレヘムに向かいました。エルサレムからベツレヘムまでは8km程です。普通に歩いて2時間ほどです。しかし学者も、住民も、誰ひとり行こうとはしませんでした。博士たちは釈然としない思いを抱いたことでしょう。しかし博士たちは、すでに1000km以上も旅をして来たということ、そしてすぐ近くまで来ているという思いに押し出されるように、とにかく救い主を捜し出して、自分の目で見たいと考えて、ベツレヘムに向かったのです。
しかし新しいユダヤ人の王が、ベツレヘムのどこにいるかは分かりません。その時、何と自分たちの出発を促したあの星が輝き出し、先導しているではありませんか。彼らは神の不思議な導きを目の当たりにしたのです。心からの驚きと感動を覚えたことでしょう。そして救い主にお会いできたのです。私たちはここで、第2のこととして、救い主を自分の目で見ることの大切さを知ります。人から聞くだけでなく、自分で確認するのです。博士たちは、人々の態度に左右されず、救い主を求め続けました。
さて、博士たちが目にしたのは何だったでしょうか。11節前半。彼らが導かれたのは民家です。そこには普通の親子がいました。その頭に後光が射しているわけでもない、一般的な家族を見たのです。しかし博士たちは、その家族を、救い主の家族として受け入れました。彼らを導いた不思議な星が、その家族が救い主の家族であることのしるしとなったからです。そして彼らはまだ弱々しい、何の力もないように見える幼子を、ユダヤ人の王、メシヤとして礼拝したのです。ここに博士たちの謙虚さがあります。自分の判断を優先するのではなく、神の導きを認め、受け入れる謙遜さです。
私たちも、王の王、主の主としての救い主を見たことはありません。私たちはイエスを見ていないのです。しかし私たちも、イエスを救い主として信じることができます。博士たちにとっては、不思議な星の導きが救い主のしるしであったように、私たちには、聖書の記述がしるしとなるのです。イエスの生涯を記した福音書によって、ナザレのイエスはどのような方であり、どのように生き、どのように死なれたかを知ります。
裁判の席上で、罪を全く認めない、だから釈放すると、裁判官であるローマ総督ピラトに何度も言わせたお方です。そのお方が極刑とされる十字架刑で処罰されました。そして墓に入れられて三日目に、墓は空になり、その後だれも、イエスのからだを差し出すことができないまま、今に至っています。主イエスは三日目に復活し、その後40日に亘って弟子たちに復活のからだを示し、弟子たちが見ている前で、天に上って行かれました。
主イエスの十字架刑は、私たちの罪を赦すための身代わりの処罰であり、信じ、受け入れる者を罪から救う神の恵みです。博士たちから学ぶ第3のことは、救い主について知るだけではなく、自分の神として礼拝することの大切さです。イエスを自分の救い主として受け入れ、礼拝することが、救いに与かる道です。
11節後半。博士たちは、自分たちの宝をささげました。王の王、主の主として崇めるにふさわしいお方として、自分の大事な宝を献げることで、真に自分の救い主、自分の主、自分の神とする信仰の表明をしたのです。私たちも博士たちのように、自分の主、自分の神と崇めるにふさわしいささげ物を献げて、真に自分の神とするのです。
クリスマスは私の救い主、あなたの救い主が生まれたことを記念する日です。神であられるお方が、私たちの代わりに十字架で処罰され、私たちに罪の赦しを与え、私たちを罪から救うために、人として生まれたことを記念する日です。私たちは、エルサレムの住民やヘロデ王、祭司長たちのようにではなく、東方の博士たちのように、救い主の誕生を喜び、自分の救い主として崇め、受け入れる者となり、喜びと感謝に満たされる生涯を歩もうではありませんか。クリスマスはそのために設けられたのです。

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