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2022年12月11日 礼拝「神の愛が現された日」ヨハネ3:16~18

  • hikaruumichurch
  • 2022年12月11日
  • 読了時間: 9分

 アドベントの期間も三週目を迎えました。アドベントとは到来、来臨の意味ですが、この到来を待つ、すなわちメシヤ、救い主の到来を待ち望む期間としてアドベントが定められています。私たちは、アドベント第一週目と第二週目で、メシヤ、キリストの誕生、クリスマスを待つという礼拝を献げてきました。クリスマスにどなたが来られたのか、クリスマスによって何が差し出されたのかを確認したのです。


 今日私たちは、もう一つの到来、主イエスが再び来られるのを待つという意味でのアドベントの礼拝を献げます。クリスマスを待つ礼拝は、キリストが人として、人間の赤ちゃんとなってこの世に生まれた日を待つことで、私たちの救いが事実であることを確認し、救いを備えてくださった父なる神への感謝を新たにするアドベントの礼拝です。


 主イエスを信じる信仰によって神の子どもとなる特権を受け取った私たち、父なる神の養子となった私たちキリスト信仰者はもう一つのアドベント、主イエスが再び来られる日を待つ、主の再臨を待っています。今日はこの意味でのアドベントを確認します。


 イエス・キリストは旧約聖書で預言されていた通りに、神の約束の通りに、人としてこの世に来られました。生けるまことの神は約束を守り、言われたことを必ず実現されます。クリスマスが預言の通りに実現したのと同じ確実さをもって、イエス・キリストはもう一度、今度は人間の赤ちゃんとして、人の罪の身代りとして十字架にかかるためではなく、栄光の王として、多くの御使いを従えて来ます。私たちは、クリスマスを迎えるのと同じ確実さで、再臨の主を待ち望むのです。再臨の主がいつ来られるかは、誰にも知らされていません。神のご計画のうちにその日が定められています。そしてその日は盗人のように、誰にも知られないようにやって来ます。しかし再臨されたなら、それをだれもが認めることになります。私たちは、再臨の主がいつ来られても、いつでも迎えられるように心備えをしているのです。再臨の主を待っている私たちであることを再確認しましょう。


 17節。クリスマスが備えられた目的です。神が御子を世に遣わされた、人として誕生させたのは、世をさばくためではありません。御子によって世が救われるためです。神は御子を十字架で殺すために、人とならせて世に遣わされたのです。御子イエスの十字架は、私たちに罪の赦しを与えるための身代わりに処罰です。キリストの人としての誕生、クリスマスは、私たちを審くためではなく、私たちを救うための来臨でした。


 しかし主イエスの再臨は、世を救うためではなく、世を審くためにあります。公正な審き主として世に来られるのです。私たちがアドベントを過ごすもう一つの意味は、再臨の主、審き主を待つ心備えをするためでもあります。私たちはクリスマスを喜び、感謝を新たにすることと同時に、再臨の主を心から待ち望むのです。救いの完成の時だからです。


 まず私たちは、罪人である私たちが、神の愛を受ける資格も、神に愛される価値もない者になったことを自覚していなければなりません。この自覚が明確であればあるほど、私たちが父なる神に愛され、救われたという事実に、感謝が溢れてきます。


 創造者である神は私たちを造られました。神の一方的な恩寵によって、ただ私たち人間だけを特別に、霊的な存在として創造されたのです。神の愛を喜び、神を愛して生きるため、神に聞いて、神と共に生きるためにです。


 しかし人は、神に聞いて生きることを拒みました。自分の判断を優先し、神のことばに聞いて生きることをではなく、自分の好き勝手を生きることを選んだのです。最初の人アダムは神の命令を知っていました。善悪の知識の木の実を食べてはならないこと、食べるとき必ず死ぬという警告を受けていたのに、神に背くことを承知で食べたのです。これが、この世界に罪が入った瞬間です。人は自分の自由意思を使って、神に従うことを拒みました。自分の判断で神に背くことを選んだのです。人は罪人になりました。


 私たちはその罪人です。創造者である神に造られた目的から逸脱し、自分勝手に罪の中をさ迷い、この世を甚だしく悪い世界にしています。創造者である神は罪に汚れ切っている人を、その世界を、その国を、その社会を、滅ぼしてこられました。


 ノアの時代は、全世界を洪水によって滅ぼされました。それはこの地上に悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのを、主なる神が御覧になってのことでした。アブラハムの時代には、ソドムとゴモラの地域を天からの硫黄の火で滅ぼされました。それはソドムとゴモラの叫びが非常に大きく、その罪がきわめて重かったからでした。イスラエルの民がカナンの地に入る時、神はその住民をことごとく聖絶することを命じられました。老若男女を問わず、赤ちゃんも、すべてを殺すようにと命じらたのです。何と酷い命令ではないでしょうか。しかしその時、その土地の住民の咎は満ちていたのです。また神は、神の民イスラエルの国をも滅ぼされました。


 これらの出来事から私たちが知ること、それは、創造者である神から離れた人間は滅ぼされて当然の状態にあるということです。神を無視し、神に従わなくなった人間は罪に汚れ、堕落し切った社会を作り出します。このような私たちは、滅ぼされても、文句を言える正当な理由は何一つないのです。私たちはみな、造り主の目的から逸脱する歩みをする者となっているからです。


 まずこのことを確認しておきましょう。ローマ人への手紙9章22節。滅ぼされて当然である怒りの器、罪に汚れた私たちを、神は豊かな寛容をもって耐え忍ばれました。ここにも神の一方的な恩寵があります。私たちは、罪人である自分が神に愛され、救われたことを知るとき、救い主である神を心から誉めたたえ、感謝せずにはいられません。


 ヨハネの福音書3章16節。神は世を愛されました。罪が横行し、罪に汚れている世、創造者である神を神とせず、感謝もせず、自分の欲望に従って生きている、神の目に堕落していると見なされている世、滅ぼされて当然な罪に汚れ切っている世を、そしてその中に住む罪人の私たち一人ひとりを神は愛されたのです。


 神が愛されたので、私たちに神の子どもとなるチャンスが備えられました。創造の初めの時の、罪が世に入る前のように、創造者である神を愛して、神と人格的に関わり、神に聞いて生きる者となる道が備えられたのです。そのために、神はひとり子をお与えになりました。滅ぼされて当然の私たち罪人が、神のひとり子を信じるという、ただ一つの条件を満たすことで、誰でも永遠のいのちを持つことができるものとされたのです。


 永遠のいのちは全人類に差し出されていて、神の側のなすわざは完了しています。それを受け取るか、拒むかは私たち人間が決めることです。創造者である神はできないことは何もない全能の神ですが、私たち人間の自由意思を踏みにじることはなさいません。私たちの意思による決断を最大限に尊重されるのです。神は愛だからです。


 クリスマスは、神のひとり子が人となられたことを記念する日です。神が愛であることが明らかにされた日です。神のひとり子が人として生まれたのは、十字架で身代わりの処罰を受けるためです。私たち全人類の罪をその身に負って、代わりに処罰されることで、私たちに対する神の怒りを宥めて、救いへの道を開いてくださり、神の御子、イエスを信じる者に、永遠のいのちを与えてくださったのです。神の一方的な愛によることです。


 18節。御子を信じる者はさばかれません。御子の身代わりの処罰を自分のためであると受け取ったので、罪は赦されているからです。さばくべき罪はないと見なされるのです。しかし信じない者は、信じないということで、すでにさばかれています。差し出された赦しを拒絶したからです。罪を犯しており、赦しを受け取っていない者は、その罪のゆえに滅ぼされるのは当然です。


 16節。御子を信じる者は、一人として滅びることはない。これが神の宣言です。御子すなわちイエス・キリストによる救いを信じる者は、永遠のいのちを持つのです。非常に厳粛な決断を迫られ、その選択を人はしているということです。御子を信じるか、信じないか、神が用意された救いの方法をそのまま受け入れるのか、それとも拒むのか。この選択によって、私たちはいのちに移されるのか、滅びのままか、分かれるのです。


 ルカの福音書16章19節。ある金持ちとラザロの話を、主イエスがなさいました。金持ちは神に与えられた裕福さを、自分のためだけに使い、毎日贅沢三昧をして遊び暮していたのです。門前にラザロが座っていて、助けを必要としているのに、見向きもしませんでした。この金持ちは死んでハデスに落され、そこで苦しみもがいています。彼は神を知ってはいても、信じず、神に聞いて生きることもしなかったからです。


 この主イエスの話から私たちが教えられることの一つは、26節、地上生涯で神を信じなければ、滅びから逃れられないということです。地上での神との関わり方、この話では、旧約聖書における神との関わり方が指摘されました。だから29節。モーセと預言者に聞き従うことが問われたのです。私たちには、クリスマスすなわち主イエスの来臨が加えられており、神を信じるとは、神が用意された救いの方法、人となられ、十字架での身代わりの処罰を自分のためであると受け入れるのでなければ、滅びからの救いはありません。


 御子を信じないとは、神が用意された救いを拒むことです。使徒の働きで宣言されています。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。だからヨハネは言います。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。


 主イエスが再臨される時、栄光の王としてこの世に来られる時、御子を信じた者は栄光のからだに復活し、永遠を父なる神と共に生きることになります。しかし御子を信じない者は、赦しを拒んだ罪に対する罰を受けるのです。


 今日私たちは、神の愛が現された日としてのクリスマスを確認しました。クリスマスは神の限りない愛が示された時です。私たちはみな滅ぼされて当然の罪人です。様々な罪を犯してきたからです。そのような私たちが、ただ御子を信じるだけで罪の赦しを受け、永遠のいのちを持つ者とされます。これほどの恵みはありません。この恵みは一方的な神の愛によることで、すべての人に差し出されています。


 一方で、この救いを拒む人は、滅びの中に置かれたままです。自分でそれを選んでいるということです。このクリスマスを迎えるにあたって、神の愛、そして救いの良き知らせを人々に知らせましょう。クリスマスは神の愛が現された日であるとともに、神の義も明確に示された日でもあります。御子を信じるか、御子を信じないか、私たちが滅びからいのちに移されるか、滅びの中に留まり続けるかは、この一点にかかっているのです。


 私たちは滅ぼされて当然の罪人であったことを自覚して、創造者である神の前にへりくだり、永遠のいのちを与えられたことを心から感謝して、主イエスを信じた者として、さらに神に聞いて生きる者とされましょう。再臨の主を待ち望む者となっている私たちであることを再自覚して、主イエスにあって生きる者となりましょう。



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