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2022年11月6日 礼拝「御父の刈り込みを受ける」ヨハネ15:1~6

  • hikaruumichurch
  • 2022年11月6日
  • 読了時間: 7分

 私たちは誰もが、たった一度しかない人生を、悔いのない、豊かなものにしたいと思っています。同じ人生を送るのなら、実り豊かな生涯を送りたいと思いのは当然であり、大切です。しかし、どのような人生なら悔いはないのか、どのようになれば、豊かな実を結ぶ生涯となるのか、その判断は一人ひとり違っているでしょう。ただこの世の多くの人々は、多少の差はあれ、この地上で成功すること、裕福になること、人から羨まれるほどに満足できる生涯であることが、実り豊かな人生だと考えているのではないでしょうか。そうして、それに少しでも近づけようとして、たゆまない努力をするのです。


 しかし私たちキリスト信仰者には全く異なる価値観が与えられています。私たちは、一人ひとりが創造者である神によって造られたと認めていますから、互いを比較し合って、相対的な基準で、人の優劣や存在価値を判断しません。私たちは、創造者である神が目的をもって一人ひとりを造られたとの神のことばに立っているので、その人を、そして個々人を、絶対的な価値を持つ者として尊重します。どのような結果を残したのかというその結果ではなく、存在そのものに価値があると判断するのです。


 自分は神に造られたと認めていますから、私たちが求めている、私たちの結ぶべき人生の実は、この世の人々が考え、求めているものとは、全く異なるはずです。


 では、私たちキリスト者が人生で結ぶ実とは何でしょうか。そしてそれは、どのようにして結ぶことを得させるのでしょうか。今日の箇所から、このことを考えます。


 主イエスは、ご自分とご自分を信じる者を、ぶどうの木とその枝にたとえています。たとえですから、語られていることばの枝葉末節にとらわれずに、中心的な教えに目を向けることが大切です。このたとえの中心は、実を結ぶことです。農夫は父なる神です。


 1節。主イエスは自分はまことのぶどうの木と宣言されました。なぜでしょうか。ただ単に、主イエスと弟子たちとの関係を、木と枝との関係にたとえるだけなら、ぶどうでなくても、いちじくでも、また実のなる木なら、何でも良かったでしょう。しかもここではまことのと言っておられることから、ぶどうの木に意味があることがわかります。そして弟子たちは、この意味を十分に理解したはずです。


 ぶどうは、旧約聖書において、度々イスラエルを指して使われていました。神の民としての共同体であるイスラエルは、ぶどうにたとえられたのです。主なる神はイスラエルを純良種の良いぶどうとして植えたと、預言者を通して語られました。イザヤ書5章1~2節。良いぶどうを植え、甘いぶどうがなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができてしまったと神は嘆かれました。エレミヤ書2章21節。純良種の良いぶどうとして植えたのに、質の悪い雑種のぶどうに変わってしまったのかと、神は嘆いておられるのです。イスラエルは神にとって、期待はずれの実を結んでしまいました。


 イスラエルという神の民の共同体に属しているから自動的に、神が期待される良い実を結ぶのではありません。イスラエルという共同体にではなく、イスラエルを選ばれた神ご自身に信仰によって属する者となることが大事だったのです。新約時代では、いのちの源である主イエス・キリストに信仰によってつながることで、神に喜ばれる、期待通りの良い実を結ぶことになるのです。主イエスは、まことのぶどうの木です。神の民の基盤です。私たちが、神の民として、神の子どもとして、神のいのちに生きるためには、まことのぶどうの木である主イエスにつながっていることが、不可欠です。


 5節。私たちは枝です。これを忘れてはなりません。木から離れた枝に、いのちはありません。幹につながっていなければ枯れるだけです。枝は幹から養分を貰って、花を咲かせ、実を実らせます。いのちも、実を結ぶ力も、幹から貰うのです。幹から離れた枝は死んでいるのです。それと同じで、私たちには霊的な力もいのちもありません。いのちであるキリストから離れるなら、私たちは霊的に死んでいるのです。


 2節。まことのぶどうの木の枝であるのに、実を結ばない枝があると言われます。ぶどうの木につながっているように見えるが、実際には幹からいのちの供給を受けていない枝のことです。彼らは主イエスにつながっているように見えます。言い換えるなら、キリストのからだである神の教会に属しているように見えます。しかし実を結びません。彼らはキリストにとどまろうとせずに、キリストからいのちを得ていないので当然です。キリストとの霊的なつながりを持たないので、害を及ぼすことはあっても、益を及ぼすにはなりません。だから父なる神は、神が取り除くと断定した時に、取り除くのです。


 実を結ぶ枝があります。主イエスにしっかりととどまっていて、キリストからいのちと養分を豊かに得ているので、実を結ぶのです。ただもっと多くの実を結ばせるためには、刈り込みが必要です。父なる神が熟練した農夫として、刈り込みをなさいます。


 刈り込み、剪定作業には熟練の知識と技術が必要です。どの枝が実を結ぶかを見定め、その枝がより多くの、良い実を実らせるために、どのように刈り込むべきかを見極められなければ、害を及ぼすことになります。父なる神は熟練した農夫であり、私たち一人ひとりを見定め、どの部分が実を結ばせるのに邪魔になるのか、どの部分を残すことでより多くの良い実を結ばせることになるのかを正確に判断して刈り込みをなさるのです。


 創造者である神が、私たち一人ひとりをユニークな存在として造られました。他者とは違えて固有に造っておられます。しかし私たちの社会は同質を求め、標準化させようとします。学校教育はしかり、職場でも、地域社会でも、同様ではないでしょうか。しかし私たちは個性豊かです。そして造られた本来の私がどのようであるのかをよくご存じなのは、創造者である神です。この父なる神が、私たち一人ひとりを、造られた本来あるべき私にふさわしく刈り込みをなさるのです。私たちは神のことばに養われ、聖霊ご自身の取り扱いを受けながら、本来の自分ではない部分を刈り込んでもらう必要があります。刈り込みは痛みを伴います。しかし主なる神を信頼して、自分を明け渡して、神の霊的な取り扱いを受けることが大事です。みことばに促されて、聖霊の助けを求めて、みことばに従う一歩を踏み出し続けることで、適切に刈り込まれるのです。


 だから4節です。私たちが求められているのは、ただ1つ。主イエスにとどまることです。簡単です。主イエスを信頼して、主イエスに従い、主イエスにあって、主イエスとともに生きようとするなら、かしらであるキリストが責任をもって、実を結ばせてくださいます。私たちが実を結ぶのではありません。キリストが私たちを用いて、実を結ばせるのです。幹は花を咲かせることも、実を結ぶこともしません。枝が実を結ぶのです。同じようにキリストは、私たちキリスト信仰者を用いて、実を結ばせてくださるのです。


 では、私たちはどのような実を結ぶのでしょうか。バプテスマのヨハネは群衆に向かって、悔い改めにふさわしい実を結べと招きました。悔い改めるとは、神の基準に従う者になるということです。自分のしていることを、神の基準で吟味し、反しているなら改め、神の基準に従って歩むことです。悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、自分の判断や考えを優先させるのではなく、神の基準を優先することです。マタイの福音書に、主イエスが宗教指導者に向かって次のように宣言されました。神の国は、神の国の実を結ぶ国民に与えられると。これも悔い改めにふさわしい実のことです。神の国の住民として、神の国の基準に、定めに従う。神のみこころを求めて生きる生き方を身につけるのです。


 悔い改めにふさわしい実は、主イエスを信じた時に与えられる基本的な実であり、非常に大切な実です。自分の願いや判断、好みや価値観、考えを優先させるのではなく、神の基準に自分を合わせようとする生き方が私たちをして、もっと多くの実を結ばせることになるからです。そして父なる神は、私たちに多くの実を結ばせようと、不必要な枝や、邪魔な枝を剪定するように、私たちを点検し、信仰生活に邪魔になっているもの、不必要なものを刈り取るのです。このためには、悔い改めの実を結ぶことが大切です。


 そうして私たちは、聖霊に導かれて、キリストに似た者と変えられていきます。聖霊は私たちに、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制という、素晴らしい霊的な品性の実を結ばせ、また義の実、神の御前に正しい歩みをさせる実をを結ばせる、さらに人を救う器として用いられる、救霊の実を結ばせます。世の人々が求める結果とは違う実です。業績ではなく、あり方そのものという実なのです。


 私たちは枝です。キリストにつながり、キリストにとどまるなら、実を結ぶのです。とどまっていなければ、投げ捨てられます。わたしたちは悔い改めにふさわしい実を結び、父なる神の刈り込みを受けて、より多くの豊かな実を結ばせていただこうではありませんか。主イエスにしっかりと結びつき、とどまり続けるのです。



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