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2022年11月27日 礼拝「どなたが来られたのか」ヨハネの福音書1:1〜5

  • hikaruumichurch
  • 2022年11月27日
  • 読了時間: 8分

更新日:2022年11月27日

 クリスマスが商業施設から始まるのは当たり前になりました。町の様々な商業施設が、華やかに飾り立て、クリスマスキャロルを流し始めると、ああ今年もクリスマスの季節になったのだと多くの人が気付かされています。


 今日から、教会歴では待降節、アドベントに入ります。4週間にわたって、クリスマスに思いを向け、その意味を確認し直し、その上でクリスマスの日を迎えるのです。今年は25日が日曜日となり、アドベントの礼拝を4回行った上で、クリスマスイブ礼拝、クリスマス礼拝を行う年となります。年末であり、何かと気ぜわしい季節ですが、静かに自分の救いに思いを潜め、改めて救われた者としてのキリストにある自分の生き方を振り返ることができるのは、本当に幸いと言えます。


 さて、教会以外でも多くの人々がクリスマスを特別な日として過ごしていることは、ある意味喜ばしいことと言えます。多くの人々は、単にお祭りの一つの行事として楽しんでいるとしても、無意識の中でも、キリストの近くまで来ていると言えるからです。そしてこれは、クリスマスの本当の意味を、キリストのことを知らない人々に伝える絶好の機会とすることができるということです。


 キリスト教会もクリスマスを楽しむということに心を奪われ、キリスト礼拝を忘れてしまうなら、それこそ本末転倒です。クリスマスとはキリスト礼拝という意味ですから、真にキリストを礼拝するにふさわしいクリスマスを過ごすことが大事です。


 私たちは気をつけたいのです。気をつけていないと、キリスト礼拝を忘れ、ただ楽しむだけのクリスマスを過ごすことになりがちだからです。主役不在のクリスマスが横行している社会において、キリスト教会だけが真にクリスマスを祝うことができるのです。毎年行なわれるクリスマスの諸集会をマンネリ化させて、ただなんとなく過ごしてしまうのではなく、今年も新たな思いで、キリストが人としてこの世に来られた意味を考え、さらに感謝と讃美に溢れて、この良き日を、救いを与えてくださった神を礼拝し、キリストの誕生を祝う時としましょう。神に喜ばれるクリスマスを過ごしたいと思うのです。


 1節。初めにことばがあった。このことばは、誰かが口にしたことばではありません。1つの人格をもつ存在としてのことばです。初めにとは時間的な始まりではなく、起源としての初めです。天地万物、宇宙のすべてが創造される前に、「ことば」はすでに存在していたのであり、時間が始まる前からある、永遠の存在としてのことばです。


 このことばは神とともにありました。ここで言われている神は旧約聖書においてご自身を啓示された、唯一まことの神です。そして今私たちは、この方を、新約聖書で明らかにされた父なる神と知るのです。ともにとは、相対して、面してという意味です。このことばなる方は、神と相対して、顔と顔を合わせて存在しておられたのです。使徒ヨハネは、ことばを神とは区別して、別の人格として、しかも神と密接に結び付いて存在していたと記しているのです。さらに、このことばなる方は神でありました。本質において、神性において、ことばなる方は父なる神と全く同一の神であるのです。


 使徒ヨハネはここで、注意深く、ことばなる方を、旧約聖書で啓示されていた神、父なる神とは異なる人格を持つ神として紹介します。ヨハネは定冠詞を使い分けることで、この主張をするのです。「神とともにあった」では、神に定冠詞をつけて、この方が唯一まことの神、父なる神であると限定します。そして、「ことばは神であった」では、神に定冠詞を付けないことで、すぐ前に記した神と区別するのです。すなわち、ことばなる方は神であり、本質において、神性において、神そのものであるけれど、父なる神とは別の神であること、すなわち父なる神とことばなる神とは人格において異なっているとします。


 2節。ヨハネはここでもう一つの主張をしています。神であるが、ことばとしてご自分を現されたキリスト、このお方は、天地創造の前から、永遠の初めに、父なる神とともに存在しておられたということです。神とともにいなかったことは全く無かったのです。


 1~2節で、4回「あった」が使われています。これは、造られたでも、そうなったでもありません。あった、存在したのです。しかもこの「あった」は、過去のある時にあったではなくて、その時既にあり続けていたし、これからもあり続けるということです。このお方、キリスト、世界が造られる前から存在し、父なる神と密接に結び付いておられ、神そのものではあるが、父なる神とは異なる人格である方、このお方が人となってこの世界に来られた。このことを記念する日がクリスマスです。クリスマスとはキリスト礼拝という意味です。キリストを礼拝することで、真のクリスマスとなるのです。


 さて、永遠の初めから存在し、父なる神とともにおられ、神そのものであることばなる お方、キリストは私たちとどんな関わりがあるのでしょうか。ここでヨハネは、このお方 は私たちを含む、すべてのものを造られた創造者であり、いのちそのものであり、私たち を導く光であると述べるのです。


 3節。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。ことばなるお方は、初めに神とともにあって、天と地、その中にあるすべてのものを造られた創造者です。宇宙万物の創造は父なる神のみわざであるのと全く同様に、ことばなる神、御子、キリストの御業です。


 本日交読したコロサイ人への手紙1章16節。存在しているものはすべて、このことばなるお方と無関係なものは何一つない。まことの生ける神だけが、無から有を造り出すことのできるお方です。他のなにものにも依存することのない自存のお方です。


 4節。続いてヨハネはこの方にいのちがあったと記しています。ここで言われているいのちは、すべての生き物を生かしている命ではなく、天地創造の記述で、神が土地の塵で人を形造った後に、その鼻にいのちの息を吹き込まれたとある「いのち」です。すなわち私たち人間だけが、他の生き物とは区別されて、霊的な存在であり、神と人格的に関われる存在として、特別に生きる者となるその「いのち」です。


 人は、神と人格的に関わることによってのみ、造られた本来の自分として生きることができます。しかし人は、神と関わって生きることを拒み、神を無視して自己中心に、自分の判断で生きることを選びました。これが罪です。人はその時から、霊的に死んだ者、神のいのちに生きられない存在となったのです。このように罪に死んでいた者を、神のいのちに生きる者とならせるために、ことばなるお方、キリストが人として来られたのです。キリストこそいのちの源泉であり、私たちを神のいのちに生かすただ一人の神なのです。


 そして、このいのちは人の光でありました。主イエスは言われます。わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。また詩篇の作者は、あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です、と告白します。すなわち人の光であるとは、人が歩むべき道を照らし、人を正しい道に導く光であるということです。そして人が神に造られた存在であるなら、その造られた人がどのように生きるのが最善であるか、どの道を歩むのが正しいかは、造り主が最もよく知っていることになります。なぜなら造り主は、私たち一人ひとりを固有な存在として、独特の持ち味を持つものとして特別に造られたからです。この方、ことばなる神、神の子キリストはいのちの源泉であり、私たちを導く光なのです。ここも「あった」です。すなわち永遠の初めからキリストは人に霊的ないのちを与えるお方であり、人を正しく導く光なのです。


 私たちはこの方に造られました。それゆえ、この方に生かされ、この方に導かれて歩むとき、造られた本来の自分の目的を見出して生きる者となるのです。


 このお方が私たちの世界に来られました。私たちに造られた本来のあり方に生かすいのちを与えるために、私たちが間違わずに進む光となるために、神であるお方、創造者が人となって来られたのを記念する日がクリスマスです。そして東方の博士たちや、幾人かの羊飼いたちが、生まれたばかりのみどりごを救い主と認めて礼拝したように、私たちもこの方を自分の救い主として礼拝するとき、それが真にクリスマスとなるのです。


 5節。光が輝くと、暗闇は退けられます。輝く光をなにものも否定することができないように、キリストがこの世界に来られたことを、誰も否定できません。光は闇のなかに輝き続けています。闇は光を覆い隠すことはできないのです。人がその光を見、その光に来るなら、いのちを得ます。しかし光のあることを否定できない人も、その光を無視することはできます。また悟ろうとしない人もいるでしょう。この日本の多くの人々が、クリスマスの本当の意味を知ろうとも、悟ろうともしないで、ただ自分たちの欲求を満たすために、クリスマスという行事を利用して、楽しんでいます。クリスマスはその人に、神のいのちに生きるいのちと光を与えるためのものなのに、それを知ろうとしません。


 さて、今日私たちはアドベント第1週の礼拝で、クリスマスに来られた方はどなたかを見ました。このお方は永遠の初めから存在しており、本質において、父なる神と全く同一の神性を持つ神であるが、人格において父なる神とは異なる方であり、永遠の初めから父なる神と密接に結び付いて、父なる神とともに創造のみわざを行なわれた方です。見えるもの、見えないもの、この世界とその中にあるあらゆるものは、この方によって造られました。この方は私たち人間をも造られた神、私たちを神のいのちに生かすいのちであり、私たちを正しく導く唯一の光です。このお方が私たちを罪から救い出すために、十字架で身代わりの処罰を受けて死ぬために、人となって来てくださいました。このことを覚えながら、この方を自分の救い主として改めて信じ直し、自分の主と改めて告白するために、新たな思いでアドベントを過ごし、クリスマスの良き日を待ちましょう。



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