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2022年11月13日 礼拝「子供への信仰継承」申命記6:1〜9 子ども祝福礼拝

  • hikaruumichurch
  • 2022年11月13日
  • 読了時間: 9分

 今日私たちは、子ども祝福礼拝として主にささげ、子どもたちのための祝福を祈り求める時を持ちます。教会に与えられている子どもたち一人ひとりが、真に霊的な祝福に与ることができるようにと、教会全体で、心を一つにして祈り求める時を持つのです。子どもたちの一人ひとりが自分の意思で、自分の救い主として主イエスを信じ、生涯主に信頼して歩むことを決断し、主に仕える信仰者として成長していくこと以上の幸いはないということを確認して、祈り求めるということです。


 今日私たちは、旧約聖書の申命記から、神のことばを確認します。申命記は、エジプトでの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が、約束の地カナンに定住するにあたって、神の民として整えられるために、モーセによって語られたことばがまとめられています。出エジプト時に20歳以上の者たちは、荒野での40年間に死に絶えました。ヨシュアとカレブの二人だけは約束の地に入ることができましたが、他の者たちはすべて、主なる神に聞き従うことを退けて、荒野で死んだ方が良いと口にしたその結果責任を負って、荒野での放浪期間に死んだのです。


 出エジプト時に20歳未満の者たちと荒野で生まれた者たちが、いよいよ約束の地を相続して定住することになります。約束の地で神の民として整えられるために、再度モーセが神からのことばをイスラエルに語り聞かせたということです。その語りかけの中で、子どもへの信仰継承も命じられています。それを確認し、新約時代に生きる私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰によって与えられた救いを、まず自分自身が味わい、その幸いと光栄を子どもたちにも受け継がせるために、その秘訣を確認するということです。


 私たちはだれもが、子どもへの信仰継承を願っています。キリスト信仰者である親は、自分の子どもにもキリスト信仰者になってほしいと願っているのではないでしょうか。そうして子どもたちの一人ひとりが健全なキリスト信仰を持ち、生涯主なる神と共に歩む者となるなら、これほどの喜びはありません。だから、神の教会全体として熱心に祈り求めていきたいのです。今育児真っ最中の方も、育児とは無縁になっている方も、共に神の家族として、子どもへの信仰継承を願い、祈りつつ取り組んでいきましょう。


 まず私たちが知っておくべきことは、子どもへの信仰継承は、淡い願いとして持っていれば良い事柄ではありません。神の命令だということです。子どもたちに信仰を受け継がせるための努力を惜しんではならないのです。今日私たちは、何をすべきかを確認し、その神のことばに誠実に取り組んでいきたいのです。


 子どもへの信仰継承に王道はありません。このようにすれば子どもたちも必ず信仰を持つ、というものはないのです。しかし私たちには、神のことばの原則が示されています。神のことばに誠実であることが祝福に与る秘訣です。それは私たち大人も、子も孫も同じなのです。キリストを信じる信仰による救いに与った私たちは、子どもたちにキリスト信じる信仰を受け継がせることで、子どもたちを救いへと導くということです。


 信仰の継承は神が命じていることです。この命令に従って、私たちに与えられた健全な信仰を、子どもに受け継がせるための努力を惜しんではなりません。やがて子どもたち自身が、キリストを受け入れるか拒むかを決断する時が来ます。その時ある者はキリストを自分の救い主、自分の主として受け入れ、生涯をキリストと共に歩むことを決断するのですが、ある者は、それを拒むかもしれません。ただ拒む決断をしたとしても、その後の人生でキリストを受け入れることができるような基盤を数多く残しておくことが大事です。


 まず私たち自身が、主イエスを信じて、主なる神を神とできたこと、神を神として生きることがいかに幸いですばらしいことなのかを味わい、その光栄を子どもたちに伝えたいのです。この喜び、感謝、誇りが日常生活で滲み出ているなら、子どもたちに対する大きな証となります。子どもたちが私たちのキリスト信仰とその信仰生活を見て、そこに喜びと感謝、平安と希望などを見出せないなら、主イエスを信じたいとは思わないでしょう。


 まず私たちは、子もどたちがキリストを自分の主と崇め、聞き従って生きることを選び取る環境造りをすべきだということです。このことは、私たち自身が日々主を愛し、また主に愛されていることを誇り、主を心から喜び、また主に喜ばれる歩みを求め、さらに主のことばに従うことを喜びとする、そのような私たちの日々の姿が、子どもたちへの主イエスを信じる信仰を生み出すのです。私たちにできることは環境造りです。後は主なる神の憐れみに委ね、祈りつつ子どもの信仰告白を待つのです。


 さて今日の箇所です。2節。親への命令です。まずあなたも、です。あなたの神、主を恐れて、すべての主の掟と命令を守ることが命じられます。そしてあなたの子も孫も、すべての主の掟と命令を守るようにと命じられるのです。救いに与り、神の民とされた者は、自分だけが守り行えば良いことではありません。あなたの神、主を恐れて、すべての主の掟と命令を守ることは、一生の間、神の民とされたあなたは当然であり、あなたの子も孫も行う者となるようにと命じられているのです。


 7節。子どもたちによく教え込むことが命じられます。教え込む内容は4~5節です。そしてこれは、まず私たち自身が心に刻むべき内容です。6節で言われている通りです。まず主イエスを信じて救われた私たち、主なる神を自分の主と仰ぐ者とされた私たち自身がこれを心に留めた上で教えるのでなければ、表明的なことばとしての教育になり、それは白々しい教えとなるでしょう。よく教え込むとは、押し付けであったり、洗脳することであってはなりません。子どもたちがやがて、自分の意思で、キリストを自分の主、自分の神として受け入れるための備えとしての教えだからです。いやいやであったり、機械的にキリストを受け入れたとしても、それが彼を救うことにはなりません。


 キリスト者である親は、自分の子どもを押え込むのではなく、押し付けるのでもなく、洗脳するのでもなく、自分の、主にある歩みがどれほど祝福に満ちたものであり、どれほど光栄に富んだものであるか、どれほど幸いであるかを、その生き方によって現わし、また神のことばをもって教えるのだと命じられているのです。


 7節にある、子どもたちによく教え込むという命令の前後で、私たち自身に命じられていることに注意しましょう。まず私たちが、心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛することです。神を愛し、自分の主と崇めて生きるのです。神の自分への愛を喜び、主を愛することを喜びとして聞き従うのです。主は私たちの神、主は唯一です。他に私たちが主とすべき存在はいません。主だけを神とし、自分の全存在で主を愛する。主にだけ頼り、主にだけ仕えることが、私たちに命じられているのです。


 これを真理とし、また事実として、まず自分の心に留め、刻みつけます。心に刻み込むことで、このように生きることを得させるのです。


 7~9節。心に刻んだ生き方を実生活で具体化することの命令です。自分の全存在で主なる神を愛することを口にする、常に確認し、その生き方を公に表明するのです。4~9節をじっくりと読みます。


 主の宣言は明確です。主は私たちの神です。主は唯一である。私たちが主と崇めて従うお方は、このお方ただひとりです。これを認め、受け入れますか。主を愛しますか。あなたの全存在をかけて主を愛する決意をしましたか。主の宣言を心に留め、刻みましたか。自分の生活の全領域で、主を神として生きることを心に決めましたか。これらを決断する中に、子どもによく教え込むことが含まれているのです。


 私たちが、心の伴っていない、知識だけの信仰生活を続けていて、口先だけで、主のすばらしさを伝えても、主を愛しなさいと子どもに教えたとしても、それは空しい響きでしかありません。主は私たちの神であるとことばで教えても、日々の実生活において、主は第2のもの、第3のものと軽んじているなら、子どもは主なる神を真に尊重することはないのです。子どもは親のことばではなく、親の生きざまを見ています。親のことばに聞き従うのではなく、親の生き方をまねるのです。私たちはどのような影響を子どもに与えているのでしょうか。吟味し、正すべきところは正さなければなりません。


 今私たちは、子どもと一緒の礼拝をささげています。子どもたちが、親と一緒に礼拝の場にいます。この状態を、子どもの礼拝参加の好機と捉えるか、静かにさせられてかわいそうな時間と考えるかで、その子の、その家庭の礼拝に対する姿勢は変わります。幼い子どもが、何も教え込まれなければ、礼拝の時間を喜ぶことはできません。こどもと一緒の礼拝を、子どもが礼拝を学んでいく好機にするのです。親が礼拝を大切にし、神を愛し、主に仕える親の姿勢を、子どもは肌で感じ取っているのです。


 礼拝の間、子どもを参加させることはかわいそうなどと考えてはなりません。大人が考えるほど、子ども自身は、自分はかわいそうとは考えないからです。初めから静かにできないのは当然です。小さな声で、内緒話を身につけるには時間がかかります。体調が悪くて、ぐずる時もあります。だから回りの大人の理解が必要です。あまり神経質にならないおおらかさが大切です。教会全体が一緒に育てるという意識が必要なのです。子どもは少しずつ礼拝の大切さを肌で感じ始めます。礼拝の進行をも理解し、けじめを身につけ始めます。そしてこれらは親の礼拝に対する姿勢に左右されるのです。親が礼拝を重んじていなければ、子どもにとっても礼拝は重んじるべきものとはなりません。親が礼拝を大切なものと考え、礼拝に取り組んでいるなら、子どもも礼拝の大切さを肌で感じとり、礼拝を大切なものとして受け留めるのです。時間はかかりますが、親が大切にしているという事実を、子どもなりに理解し、受け継ぐのです。


 私たちの信仰姿勢は、礼拝への姿勢に如実現われます。子どもは親の姿勢を、本能的に感じとります。表面的な姿勢ではなく、心の姿勢を見抜くということです。子どもを前にして、どのような影響を与えているかを吟味することによって、自分の神への姿勢、礼拝への姿勢を問い直すことができます。主の日を、喜びの日、栄えある日として迎えているか、それとも、また礼拝かという思いで日曜日を迎えているのか。主への礼拝を喜び、光栄としているか。それとも義務として過ごしているか。子どもはその思いを肌で感じとり、その親の姿勢を身につけます。私たちは何を子どもに継承させるのでしょうか。


 4~6節のことをして、7節に続きます。親が心に留め、親の心に刻まれたことを、子どもは継承します。神に対する健全な信仰、礼拝を重んじ、神に聞き従う姿勢をです。まず親である私たちがしっかりと身につけ、その信仰姿勢を、その信仰を子どもに継承するのです。信仰継承は、神が私たちに委ねられた大切な働きです。しかも親に与えられた重要な働きです。そしてこれは、子どもにとって何にも代え難い最良の財産になります。この事実を確認し、肝に銘じましょう。このことを教会全体が祈り、協力するのです。


 キリスト抜きの人生ほどむなしいものはありません。信仰の継承に取り組みましょう。



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