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2022年10月2日 礼拝「もう一人の助け主」ヨハネ 14:15~18

  • hikaruumichurch
  • 2022年10月2日
  • 読了時間: 7分

 十字架の死を前にした夕食の席で、主イエスは弟子たちに大切な真理を伝えています。今日の箇所では、御霊なる神について、その方はどなたであり、弟子たちとどのように関わるのかを知らせています。私たちキリスト信仰者にとって、御霊なる神との親密な関わりを保って信仰生活を続けることが、真に祝福された霊的な歩みを保障する秘訣です。


 今日交読した聖書箇所の中で、7章37~38節を読みしましょう。主イエスの宣言です。祭りの終わりの大いなる日に、とあります。この祭りは仮庵の祭りですから、多くの敬伲なユダヤ人たちが世界各地から集まっていたと思われます。イスラエルの3大祭り、過越の祭り、7週のまつり、仮庵の祭りには、神の民イスラエルの男性は、世界のどこに住んでいても、主なる神の前に出ることが定められていたからです。


 仮庵の祭りの終わりの日に、すべての人に聞こえるように、主イエスは大声で語りかけました。だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさいと。だれでもです。だれでも魂に渇きを覚えているなら、心が満たされていないと感じるなら、罪責感に苛まれているなら、いのちの躍動が感じられないのなら、喜びや感謝がなく、不平や不満で心が苛立っているなら、わたしのもとに来て飲みなさいと招いたのです。


 その人がどのような生活をしているかは問われていません。どれほど社会的に貢献していても、どれほど極悪非道を重ねていても、そのような言動に関係なく、だれもが招きに応じることができます。魂に渇きを覚えていて、そのいやしを欲するなら、だれもが行くことができ、そしてだれもが主イエスから飲むことができるのです。


 主イエスが与える水を飲むことは、主イエスを信じると言い変えられます。主イエスのもとに行って、主イエスを自分の救い主、自分の主と信じるなら、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになると約束されます。


 39節。主イエスを信じる者が受けることになる御霊について言われたということが分かります。主イエスが十字架で身代わりの処罰を受けて死に、三日目に死者の中からよみがえられたことによって、罪の赦しと罪からの救いが完成しました。この7章の時点では、まだ救いは完成していないので、御霊はまだ下っていなかったと言われたのです。


 14章16節。さて、今日のテーマである、もうひとりの助け主について、主イエスが予告されました。主イエスが世を去る時が近づいています。この夜、ユダヤ教指導者たちに捕らえられ、夜通しの不正な裁判によって死刑に定められ、翌日、ローマ帝国への反逆の罪で訴えられ、ローマ総督によって十字架刑に処せられるのです。弟子たちは心を騒がせることになります。そのような弟子たちに、安心を与えるための約束をされたのです。


  主イエスは、もう一人の助け主が与えられると約束されました。もう一人のと訳されたことばは、別種のという意味ではなく、同質同等でありながら別のという意味の単語が遣われています。つまりもう一人の助け主とは、主イエスと全く別の助け主ではなく、まさに主イエスご自身が助けてくださるように助けてくださる方、それがもう一人の助け主です。このお方が、いつまでも、あなたがたとともにいるようになると言われたのです。


 17節。この助け主は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので受け入れることができないと、主イエスは言われました。仮庵の祭りでの主イエスの招きのことばを使うなら、主イエスを信じる者が受けることになる御霊です。主イエスを信じない者はこの方、もう一人の助け主、真理の御霊をも、見ることも知ることもないので受け入れることはできません。このお方は、主イエスを信じる私たちと、いつまでもともにおられ、しかも私たちのうちにおられるようになるのです。


 救い主イエスは私たちの助け主です。罪を赦し、罪から救い出して、それで完了とされるのではなく、私たちと日々ともに歩んでくださり、信仰生活を助ける助け主です。あたかも主イエスが助けてくださっているように助けてくださるのが、もう一人の助け主である真理の御霊であると言うのです。


 主イエスと真理の御霊は同質、同等の同じ神です。その本質において、その神性、神であることの特質において、何の違いもありません。全く同等であり、同質なのです。主イエスと真理の御霊の違いは、御霊は霊の存在であるが、主イエスは肉体を取られたということです。私たち罪人に罪の赦しを備え、罪から救うために、私たちの代わりに十字架で死ぬために、罪の処罰を身代わりに受けるために、神の御子は肉体を取られました。


 人となるために、母マリヤの胎に宿るために、受肉したのです。主イエスは人となられた神です。神のあり方を、霊であることを捨てて、私たちと同じ肉体を取られました。肉体を取られたので、時間と空間に制約される存在となったのです。瞬間移動はできても、同時に別の場所にいることはできなくなりました。神の特質の一つである遍在、あらゆる所に満ち満ちている存在ではなくなったということです。主イエスは私たちを助けてくださいますが、別々の所にいる者を、同時に助けることはできません。


 真理の御霊は霊ですから、あらゆる所に同時に存在するのです。もうひとりの助け主である御霊は、イエスを救い主と信じ、自分の主と崇める私たち一人ひとりの心に住んでくださり、あたかも主イエスご自身が助けておられるように助けてくださるのです。


 旧約聖書の時代にも、御霊なる神は信仰者を用いておられました。しかしそれは、ある特定の時、特別な助けを与えるためであって、恒常的ではなかったのです。だから旧約の信仰者ダビデは祈りました。礼拝招詞で読まれた箇所で、あなたの聖なる御霊を私から取り去らないでくださいと祈ったのです。御霊なる神がいつも、いつでもいてくださるという約束は与えられていなかったから、このように祈り求めました。


 しかし主イエスを信じる者のうちに御霊なる神はいつもいてくださいます。私たちキリスト信仰者が、自己中心になり、御霊の語りかけを無視し、自分勝手に行動しても、私たちの心からいなくなることはありません。特別な助けを与えるためにではなく、いつまでもともにおられるのです。心のうちに住んでくださり、日々神のいのちに生かすために助けてくださいます。新しい契約に生きる私たちには、真理の御霊は助け主として与えられています。助け主ですから、旧約時代とは異なって、主体的に御業を行い、信仰者を用いるのではありません。私たちが御霊なる神に助けを求める時、適切な助けを与えてくださるのです。私たちが求めなければ、何もなさらないということです。いなくなることはありませんが、何もなさらないで、私たちが助けを求めるのを待っておられるのです。


 主イエスは、ご自分を信じる者たちに対して、自分の力で頑張って、神の基準に従って生きるように努力しなさいと、突き放すことはなさいません。私たち罪人は、自分の頑張りで、神の基準を満たすように生きる力はありません。そのような私たちに対して、もう一人の助け主である真理の御霊が与えられました。真理の御霊は、罪に死んでいる私たちを神のいのちに生かします。弱い私たちを神の力で助けるのです。あなたが主イエス・キリストを信じたのなら、聖霊なる神、もう一人の助け主はあなたのうちに住んでおられます。これは神の恵みによる賜物です。だから18節。主イエスは、あなたがたを捨てて孤児にはしない、あなたがたのところに戻って来ると約束されたのです。


 だから私たちキリスト信仰者は、もっともっと御霊なる神に助けを求めるべきです。助けを求めないから、霊的に成長できません。神のみわざにも参与できないのです。自己中心の信仰のままで、神を中心とする信仰生活にならず、霊的祝福を味わえないのです。


 主なる神は全能の神ですから、私たちを用いなくても、いや用いない方が、完璧なわざを行えます。しかし私たちを愛しているので、私たちを用いようとしてくださるのです。そのためにもう一人の助け主を、私たちの心に住まわせてくださいました。この恵みを、この祝福を十分に味わって、神のみわざに用いられる幸い、光栄を体験しましょう。


 私たちが助けを求めるなら、真理の御霊はいつでも神のいのちに生かします。助け主の聖霊をいつも意識し、常に導きを求め、その促しに素直に応じて、神のいのちに生きる者となりましょう。自分を明け渡した分だけ、真理の御霊が働かれます。聖霊に満たされたいのなら、完全に自分を明け渡すべきです。自分を明け渡すことが、秘訣なのです。



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