2022年10月23日 礼拝「救いは主イエスについていくこと」ヨハネ1:35~51
- hikaruumichurch
- 2022年10月23日
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救いとは何かを考える時、一般的には、困難や危険などからの救出、病気や事故などによるいのちの危機的な状況からの救い、経済的困窮からの助け、悩みや苦しみなどからの解放などを思い浮かべるでしょうか。様々な困難や問題、危険などからの救いは、とても大事なことであり、創造者である神も、そのような救いを与えてくださいます。
ただ聖書が語る救い、創造者である神が真に与えようとしている救いは、根源的な問題の解決です。表面に現れている諸課題や諸問題からの救いを、対症療法的な救いと言うなら、主イエス・キリストを信じることで与えられる救いは、根治療法的な救いと言えます。たとえば、生活習慣が乱れていれば、当然、様々な病気を引き起こし、その症状を緩和するための治療は対症療法的であり、それなりの治療効果が得られても、生活習慣が改善されなければ、同じ病気や、全く別の病気を発症することになります。
生活習慣の乱れという、その根源的な原因を正すなら、悪習慣が原因となって発症していた病気はみな解消していくことになります。救いも同じです。対症療法ではなく、根治療法を求めることが重要であり、それが真に私たちを救うことになります。
主イエスが与える救いは、根治療法的な救いです。諸宗教にも様々な救いの教えがあり、それらは救いをもたらしますが、根治療法的な救いとはなりません。そして対症療法的な救いは、キリスト教という宗教に求められることもあるのです。もしかするとクリスチャンと言われている人の中に、キリスト教から対症療法的な救いを求めて、それで満足している人もいるかもしれません。みなさまはどうでしょうか。キリストご自身から根治療法的な救いを求めているでしょうか。それともキリスト教から対症療法的な救いを求めているだけでしょうか。逆に、対症療法的な救い、解決が得られないので、キリストを信じることに失望してはいないでしょうか。自分の信仰を吟味しましょう。
今日私たちは、主イエスについていくことで与えられる、根治療法的な救い、私たちが抱えている根源的な問題からの救いを確認します。悩みや苦しみ、それが精神的なものでも、肉体的なものでも、社会的な問題から来ていても、表面に現れてきた諸問題に対症療法的な解決を求めるだけなら、たとえその問題が解決しても、それは一時的で、また同じような問題が、あるいは違う問題が表面化して、再び悩み苦しむことになります。根源的な問題に解決が得られるなら、様々な問題が起こっても翻弄されはしないのです。
今日の聖書の箇所に、主イエスの最初の弟子となる5人が記されています。主イエスに洗礼を授けたバプテスマのヨハネの弟子二人、そのひとりはアンデレであり、彼は兄シモン・ペテロを主イエスのところへ連れて行きます。もうひとりは、ヨハネの福音書の著者ゼベダイの子ヨハネ、そしてピリポとピリポの証しを聞いたナタナエルの5人です。
35~37節。ヨハネはバプテスマのヨハネです。彼は二人の弟子と共に立っていた時、イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と弟子たちに紹介します。そしてこの二人アンデレとヨハネは、イエスについていくことになるのです。
イエスは「神の子羊」として紹介されました。バプテスマのヨハネが自分の弟子に紹介したのです。29節で、見よ、世の罪を取り除く神の子羊、と紹介しました。ヨハネは自分の弟子たちに、このイエスを見よ。この方こそ、世の罪を取り除くために遣わされた神の子羊、犠牲としてささげられる生け贄であると紹介したのです。王の王、主の主として、イスラエルに神の国を実現するためのローマからの解放者、支配者としての救い主をではなく、世の罪を取り除くために、犠牲としてささげられる、神が備えた、そして神に受け入れられる、宥めの供え物としての救い主を紹介したのです。
さらにバプテスマのヨハネによるイエスの紹介が続きます。30~34節。バプテスマのヨハネがイエスに洗礼を授けた時、天が開け、聖霊が鳩のように降ってイエスの上に留まられました。また、父なる神がイエスに、これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ、と語りかけかけたこと、ヨハネはその目撃者でした。神が認証された救い主、メシヤとしてのイエスです。ヨハネは目撃者として、その証言をしました。この方、ナザレのイエスこそ、神の子キリストであり、世の罪を取り除く神の子羊なのだと。
その証言を聞いて、福音書記者となるヨハネとアンデレは、イエスについて行きます。これが救いに与る第一歩です。イエスについて行ったことで、イエス本人と話しができ、イエスこそメシヤ、キリストであると受け入れました。主イエスとの人格的な、個人的で霊的な交流を持つ時、私たちはイエスこそ救い主であると受け入れるのです。
42節。アンデレはすぐに、兄のシモンを主イエスのところへお連れしました。イエスの神としての権威に満ちた語りかけを受け、シモンは主イエスについて行くことを決心し、ペテロというニックネームを喜んで頂戴したのです。バプテスマのヨハネが弟子のアンデレとヨハネに主イエスを救い主として紹介し、アンデレがペテロに主イエスを救い主として紹介したように、私たちも誰かの紹介を受けて、イエスを救い主として知り、信じ、受け入れることができたわけです。そして主イエスを救い主として受け入れた私たちが、主イエスを救い主として紹介する人々がいます。私だけしか伝えられない人がいます。
43節。主イエスはピリポを見つけ、すぐに「わたしに従ってきなさい」と招きます。ピリポはその招きに応じ、主イエスに従いました。彼の職業は何で、それをどうしたのかは記されていませんが、ピリポはすぐに主イエスに従いました。ピリポは、主イエスは救いそのものであり、根源的な解決を与えるお方だと認めたということです。そしてピリポはすぐに、友人のナタナエルに主イエスを救い主として紹介したのです。45節。ピリポは旧約聖書をよく読んでいたということです。モーセが書き、預言者たちも書いている、約束のメシヤであると証言しました。神の約束を信じて、自分が待っていた、そのメシヤ、救い主に会ったと。そのお方は、ナザレの人で、ヨセフの子イエスだと紹介するのです。
46節。ナタナエルの答えは、ナザレから何か良いものが出るだろうかでした。ナタナエルも旧約聖書をよく知っています。メシヤはガリラヤからではなく、ダビデの子として、ユダヤから、ベツレヘムから出ると、預言者のことばを基にして答えたのです。異邦人が多く混在しているガリラヤの辺鄙な町ナザレから、良いものは出ないと考えたわけです。
しかしピリポはめげません。とにかく会ってみろと促すのです。議論をしても何の良い結果も生み出しません。イエスと直接会い、人格的に交わるなら、イエス自身から聞き、自分の目で確かめるなら、イエスをメシヤとして受け入れることになるとピリポは考えたのです。ナタナエルは、ピリポの熱意に促されてイエスのところに向かいました。ピリポが語った、ナザレの人で、ヨセフの子イエス、には不服があるけれど、ピリポの態度、その確信に満ちた口調、喜びに溢れている様子に惹かれたと言えます。
ピリポのような証には力があります。いろいろと教理を並べて紹介することも大きな証となり得ますが、さほど聖書や教理など分からず、反論されて答えられないとしても、自分が与えられた確信や喜び、感動などを率直に証されて、イエスについて調べ始めて、キリスト信仰者になる人も多いのです。私たちも恐れずに、ピリポのように、とにかく主イエスに会ってみてよと、自分が救われた喜びを単純に証すればよいのです。
47~49節。ナタナエルは主イエスとの会話を通して、イエスを神の子、約束のメシヤであると受け入れました。彼もまた、対症療法的な救いではなく、根源的な救いを与えるお方としてのイエスを受け入れたのです。
主イエスが与える救いは、罪からの救いです。主イエスは、その公生涯の初期には、病気を癒し、悪霊に憑かれている人をその悪霊から解放するなど、人々が求める対症療法的な救いを多く行われました。そして多くの人々は、主イエスに、対症療法的な救いを求めて集まってきたのです。主イエスはそのような人々をかわいそうに思い、それらの必要を満たしました。それらの奇跡は、主イエスが人となられた神であることのしるしとして行われたのであって、人々が主イエスに根治療法的な救いを求めることを期待しておられたことは言うまでもありません。しかし多くのユダヤ人は、ただ対症療法的な解決を求めただけであり、主イエスが与えようとした根治療法的な救いを求めませんでした。
主イエスは、罪からの救いを与えるために、人として生まれ、十字架への道を進まれまたのです。私たち人間は、神のかたちとして、神に似るように、創造者によって造られました。創造者である神を自分の神とし、自分の主として、主なる神に聞き従って生きるように造られたのです。創造者である神を神と崇め、神に聞き従って生きる、本来のあるべき状態から逸脱することを、聖書は罪と指摘します。罪とは的外れの状態なのです。
私たちは、神に聞かなくなった時、的外れの生き方を始めます。自分では正しいと判断して行ったことが、当初の予想とは裏腹に、こんなはずではなかったと言える結果になるのは、初めから的を外していた当然の結果なのです。そのような状態の中で様々な問題が生じてきます。人間関係の問題、社会生活の問題、家庭の問題、自分の肉体的、精神的な闇や苦しみ、病気や経済的困難、徒労感や虚無感、などなど、です。それらに対して、私たちは対症療法的な救いを求めます。そしてそれなりの解決を得て満足します。しかしまた同じような、また全く違った問題が出てきます。それらの解決は一時的であって、根源的な解決にはなっていないので、問題が繰り返されるのは当然と言えます。
創造者である神から離れている、という根本原因、罪が、様々な問題を生じさせます。罪が私たちを不幸にするのです。この罪からの救いという根治療法がなされない限り、真の解決は得られません。罪からの救いを得るなら、すべての問題に解決が得られます。この救いを与えるために神であるキリストが人となりました。主イエス・キリストは私たちの罪を赦すために、十字架で、私たちの罪の処罰を代わりに受けたのです。
この救い主イエスを自分の神として、主イエスについて行く時、私たちに生じてくる諸問題は適切な解決に導かれます。主イエスと共に歩む時、的を射た生き方に整えられるからです。たとい的を外したとしても、主イエスにあって悔い改めることができ、悔い改めた時、主イエスは、その間違いによって生じた結果をも、益に変えてくださるのです。
私たちはいつまで、対症療法的な解決を求めて時間と労力を費やすつもりでしょうか。主イエスは私たちが抱える諸問題の根源にメスを入れ、私たちを罪、すなわち自己中心から解放してくださるために、十字架で身代わりの処罰を受け、私たちに罪の赦しを備えてくださいました。私たちがすることは、主イエスを自分の救い主、自分の神とすること、そして主イエスについていき、主イエスとともに歩み続けることなのです。
創造者である神を神とすることが根源的な救いであり、神が遣わされた主イエス・キリストを救い主とし、自分の主として歩むことが、根源的な救いに与る道なのです。アンデレやヨハネ、ペテロ、ピリポ、ナタナエルのように、主イエスについて行くことが救いのはじめの一歩であり、救われる唯一の道です。主イエスを信じて、ついていくことです。

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