2022年7月31日 礼拝「互いに一つの体の器官として」ローマ人への手紙 12章3〜8節
- hikaruumichurch
- 2022年7月31日
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私たちは礼拝において信仰告白をしてます。信仰告白とは、自分はこう信じているという自分の主張を述べることではなく、聖書はこう言っていますと、聖書の主張を述べ、その通りですと告白することです。第8条は、教会についてです。教会はキリストをかしらとするからだです。その通りですと、私たちは同意して、告白しています。
主イエスを信じ、キリスト信仰者となった時点で、私たちはキリストをかしらとするからだである神の教会に属する者とされました。これは神のわざです。もし私たちが神の教会に属するのを止めるとするなら、それはキリスト信仰を捨てることを意味します。キリスト信仰者であるなら神の教会の一員である。これが神のみわざです。
神の教会の集まりは、この世の様々な集まりとは本質的に違います。まずそれを確認しましょう。この世の集まりは、多くの場合、共通者で構成されていることが基本です。その集まりに求められるのは、画一化です。学校や会社、地域社会でも、最近は大分弱まってはいますが、画一化を強く求められることがあります。しかし神の教会は画一化は求められません。一人ひとりの個性が認められ、豊かな多様性を目指しています。
神の教会には、様々な背景を持ち、様々な考え方を持ち、様々な価値観を持つ、本当に多種多様な人々が、子どもからお年寄りまで集められて、構成されています。このように多様性を持つ人々の集まりでありながら、なおそこで一致を保ち、一つ心になって進ませるのは、一人ひとりが、主イエスを救い主と信じ、キリストを自分の主として仰いで、主に聞いて生き、互いに助け合い、ともに主に従おうとしていることによるのです。教会を構成している人々が多種多様でありながら、なおそこに一致と平和、愛の交わりが生み出される時、神の教会は、キリストが真の支配者であることを証ししているのです。
教会とは、エクレシア、召し出された者の集まりです。神に呼び出された者たちが主イエスを信じ、集められて、神の教会として建てあげられています。神の教会には、自分とは異なる考え方の人々が集められ、そのような人々によって、神の教会が形造られていると気づく時、私たちは、自分がこの教会に加えられたことに対して、自分の思いや好みを越えた、主なる神のご主権を覚えるのです。私たちは自分の好みでこの教会に来ているのではありません。自分の計画でこの教会に加わったのでもないのです。主なる神が私たち一人ひとりを、この教会に導かれたのです。まずこのことを確認し、認めましょう。
この、自分の意思で教会に属するものとなったのではないということは、それぞれの家庭に属することと似ています。夫婦に関してはある程度、自分たちの好みや考えで、伴侶を選んだと言えるかも知れません。ある程度とは、その背後に、主なる神の導きや許可があったということを覚える必要があるからです。
親子は違います。親も子どもも自分の好みでは選べません。子どもは神の主権によって家庭に与えられます。親は子どもが生まれ、成長するに連れて、その子の性格や、性質など、その個性を知ることになります。その個性が自分には受け入れられないとしても、家族から排除することは許されません。その子がどのような状態でも、どのように変わっていっても、家族として接し、家族としてその成長を助け、見守るのです。子どもの側はさらに深刻かもしれません。子どもの側には選択の自由は全くないからです。
神の教会の交わりも似ています。主なる神の主権によって、主イエスを信じる信仰が与えられて、私たちはこの教会の交わりに導き入れられました。この霊的な事実をまず受け止め、この教会の交わりの中で自分に委ねられた、自分の役割を知り、その働きを担い合うことで、神の教会は愛のうちに建てられていくのです。神の教会は、キリストを中心とする神の家族とされた者たちの集まりであるとは意味深いことです。神の家族としての交わりが、各家庭の模範とされるなら、それはすばらしい恵みではないでしょうか。
今日私たちは、主のご主権によって、自分はこの教会に集められたと自覚して、自分に命じられている、神の教会の交わりについて、みことばから教えられて、私たちの交わりを神の教会にふさわしく整えられていきたいと願う者となりたいのです。
3節。パウロは、慎み深く考えなさいと命じます。1節では、お願いでした。1節の勧めますには脚註が付いていて、お願いしますとあります。しかし3節では、使徒としての権威で命令するのです。自分に与えられた恵みと付け加えることで、パウロは、自分は使徒として召されているとの事実を告げ、その使徒としての権威で命じるのです。
1~2節でパウロは、神のあわれみによって救いに与かった者に対して、自分のからだを神にささげ、聖霊の取り扱いに自分を委ねることを通して、自分を変えるようにとお願いしました。それは私たちの決意によることだからです。自分のからだを神のものとしてささげ、生まれつきの古い自分を変えてもらうことは、パウロが使徒として命じたとしても、私たちにその意志がなく、決意もないなら、何の意味も持ちません。だからパウロは、神のあわれみを受けて救われたのだからと、それを動機としてお願いしたのです。
しかし3節からは、自分のからだを神にささげ、聖霊による新しい人への変革を求める者たちへの語りかけです。だから使徒としての権威ある命令が有効になります。この手紙の読者は、パウロに使徒としての権威を認めています。神が特別に、使徒職を設け、パウロにその権威を委ねました。私たちも、使徒としての命令として受け止めるべきです。
3節。私たちが知らされるのは、一人ひとりに思うべき限度が定められているということです。そしてそれは、神が各自に分け与えてくださった信仰の量りに応じています。ここでの信仰とは、私たちが主イエスの十字架を信じ、罪の赦しが与えられた、その信仰とは違います。信仰の多い少ないでもありません。自分を神にささげ、御霊によって自分を変えられていく過程の中で与えられ、培われる信仰です。信仰的なものの見方、考え方と言い換えられます。みことばに従い、祈りの中でみこころを求めて得られた信仰的な生き方です。霊的なこと、教会の交わりや教会の活動、神の教会に関わるあらゆること、あらゆる人に対して私たちが考える時、主なる神が一人ひとりに与えておられる信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をすべきだということです。
信仰から生じる見方や考え方ではなく、この世の常識や価値観、考え方を、不用意に神の教会に持ち込む時、思うべき限度を越えて思い上がることになります。思うべき限度を越えるのではなく、信仰の量りに応じて、自分に与えられている信仰的なものの見方に応じて慎み深い考え方をすることが求められ、そうする時、神の教会が混乱することはありません。私たちは、霊的な見方、信仰的な考え方を豊かにしていただくために、神への献身をいつも新たにし、御霊によって自分を変えていくことを求め続けるのです。みことばを読み、それに従い、みこころを求め、それに従っていくという、信仰生活を積み重ねていく中で、主なる神は、私たちの信仰的で、霊的なものの見方を豊かにしてくださるのです。神への献身と御霊による自己変革を確認しながら信仰生活を続けていくために、この1~2節を、パウロの神のあわれみによるお願いを、昼も夜も口ずさみましょう。
慎み深い考え方が求められます。これは、教会の交わりを考える時、特に大切です。4~5節。私たちは神の教会に召し集められた者たちです。そして教会は、キリストのからだであると表現されています。からだには多くの、様々な器官があります。一つ一つの器官はすべて大切であり、またすべての器官が同じ働きをするのではありません。
私たち一人ひとりはキリストのからだの各器官です。神の教会を構成する大切な各部分であり、一つのからだの各器官なのです。一つの器官が痛むなら、他の器官も痛みを共有します。ある器官がその機能を失うなら、他の器官がその失った機能を補うために、働き合うのです。各器官は有機的に関わりながら、一つのからだを動かしています。
私たちが互いに器官であると言われる時、それは互いのための器官でもあります。自分に委ねられた働きをするのは、他の器官を配慮し、助け合う働きをするためです。そのようなとき、キリストのからだである神の教会に分裂は生じません。各部分が互いにいたわり合うことで、からだとしての調和が保たれ、一つからだとなるのです。
だから思い上がって、他の器官である兄弟姉妹を、簡単にさばき、非難してはなりません。そうではなく、自分は彼の助けになっているかを考えるのです。思い上がるのではなく、慎み深く考えて、自分がキリストのからだの一つの器官であることを覚え、自分に委ねられている働きに忠実であろうとすることが大切なのです。
私たちが互いに器官であり、それぞれに異なる働きが委ねられていることは、私たちに与えられている賜物の違いからも分かります。6~8節では、7つの賜物が、その具体例として記されています。6節で分かることは、それぞれに異なる賜物を持っているということです。ここで列挙されている賜物は、私たちが生まれつき与えられている才能や能力ではありません。また永遠のいのちのような、キリスト信仰者みなに共通する、神様からの恵みの賜物でもありません。私たち一人一人は、神様からのすばらしい、救いという賜物を受けています。しかしここに列挙された賜物はそれらとは異なるものです。
これらは、私たちが神の教会に仕えるために、主なる神が恵みによって与えてくださった、教会を建てあげるために必要な、優れた霊的な能力の一部です。そしてこれらの賜物は、神の一方的な恵みによって与えられるものであり、それは、キリストのからだが建てあげられるために与えられたものだということです。
主なる神は、神の教会が神の教会としての様々な働きを行うために、一人ひとりに、恵みに従って異なる賜物を委ねておられるのです。思い上がるために、賜物が与えられているのではありません。優越感に浸ったり、自己卑下に陥るために、一人ひとりに賜物が与えられているのでもないのです。一人ひとりが神の教会の徳を高め、またお互いの徳を高めるために、賜物が分け与えられているのです。自分には、人とは違う、どのような賜物が委ねられているでしょうか。それを生かして、他者のために、教会全体のために用いることが期待されています。それを比較するのではなく、優劣をつけるのでもなく、違いは違いとして認めて、それを生かし合い、助け、補い合う関係を築くということです。
私たちは互いに、キリストのからだを構成する器官です。互いのための器官なのです。だから、互いに器官として、互いのために働き合って、神の教会の徳を高め、お互いの徳を高め合う、そのような交わりを深めていこうではありませんか。一人ひとりが信仰的なものの見方、霊的な判別力を豊かにしていただいて、慎み深い考え方をして、キリストのからだを建てあげ、キリストの栄光を現わすお互いとなりましょう。互いの違いが多種多様であればあるほど、それだけ神の教会は豊かな賜物を持っているということです。

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