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2021年10月31日礼拝「最初の殉教者」使徒 7:51~60

  • hikaruumichurch
  • 2021年10月31日
  • 読了時間: 9分

 今日の箇所から、初代教会は新たな局面に入ります。ユダヤ当局によって、キリスト教 会は反社会的なグループであると認定され、公権力による迫害が公に始まるのです。


 これまでは、初代教会を煙ったい存在と見なし、宗教指導者たちは弟子たちの活動を制限しようと圧力はかけても、限定的なものでした。しかしステパノの弁明によって、キリ スト信仰はユダヤ教の根幹を覆すものであると断定されたのです。そして彼らは、自分たちの信仰が否定されるにとどまらず、神に対して罪を犯していると糾弾されたことに腹を立て、ステパノを殺害しました。そして教会に対する激しい迫害が始まったのです。

 今日私たちは、そのきっかけとなったステパノの事件を確認します。そして殺害される に至るステパノの態度を見ることを通して、私たちの信仰を確認したいのです。

 6章8節。ステパノに焦点を合わせた記述が始まります。ステパノは、教会の中のやも めたちへの配給を任せられた7人の中の一人です。教会の事務的な働きをするために選ば れたけれど、福音の真理を正しく受け留め、それを語る人であったことも分かります。ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていました。主の 証人として、不思議としるしを行っていたのです。

 9節。リベルテンと呼ばれる会堂に属する人々とありますが、リベルテンとは自由を得た者という意味です。奴隷とされていたユダヤ人の、ある者たちは解放され、自由を得ま した。その人々がエルサレムで会堂を作ったのです。この会堂にはクレネ人、アレクサンドリア人、またキリキヤそしてアジアから来た人々が集まっていました。ステパノが福音 を伝えていた相手は、彼と同じヘレニストの人々、離散していたユダヤ人であったという ことです。彼らはステパノが語る福音のことばに、ユダヤ教徒として見過ごしにできない教えがあることに気づき、ステパノと議論をすることになりました。

 10~11節。ステパノは神の知恵と御霊によって語ったので、リベルテンの会堂に属する ユダヤ人たちはステパノに対抗できませんでした。それで彼らは暴力に訴えるのです。いつの時代も、言論の自由を暴力で封じ込めようとします。議論で勝てなけれれば、謙虚に自分たちの教えを問い直し、それが正しいのであれば再度理論武装する、正しくないと判 明したなら素直に誤りを認めて、正しい教えを受け入れることが大切であるのに、多くの場合は暴力や権力で相手を抹殺しようするのです。

 12~13節。この13節で、ステパノが宣べ伝える福音、主イエスによる救いのメッセージとユダヤ教との根本的な違いが分かります。ユダヤ人が大切にし、神の国の到来のため に固執している中心的な教えは、神殿中心の礼拝であり、モーセによって与えられた律法を順守することです。しかしステパノを通して知らされるキリスト信仰は、神殿を神聖視する、神殿中心の礼拝を重んじるのではなく、律法主義からの解放でもありました。

 15節。この時のステパノの様子です。ステパノの顔は御使いの顔のように見えたとあるように、穏やかで気高く、平安に満ちていました。全能の神に委ね切ることは、何と幸い ではないでしょうか。敵意に満ちた人々の中にあり、不合理な扱いを受けている最中も、 見る人々を不思議がらせるような穏やかさ、気高さ、平安を保つのです。私たちも、すべ てを主に委ね切る信仰者でありたいと願います。

 7章はステパノの説教です。弁明の機会が与えられて、感情をむき出しにして訴える者 たちを糾弾するのではなく、穏やかに、しかしはっきりと、また理路整然とイスラエルの歴史から始めて、主なる神の救いのご計画を述べているステパノがいます。私たちも、こ の7章のステパノのことばを通して、イスラエルの歴史を整理し、概観できます。そしてその中で示されている神の救いのご計画を確認できるのです。

 神の救いは始めから、神の一方的な恵みによります。モーセを通して与えられた律法もなく、神殿もない時に、すでに神の救いのみわざは始められていて、神の民の不従順にも 妨げられることなく、計画は進められてきました。そして神の民イスラエルはたえず神に反抗し、不従順であり、不平不満の中にいて、偶像礼拝を繰り返してきたのです。結局のところ神の救いは律法を守ることでは得られないと、イスラエルの歴史は物語っています。神を神として信じ、神に聞いて、歩むという信仰によって私たちは救われるのです。

 また神殿中心の礼拝についても、今ユダヤ人たちが固執しているほどの根拠はどこにもありません。ステパノは説教の最後の方で神殿について触れています。47~48節。ダビデの子ソロモンが父ダビデに代わって神殿を建てました。そのソロモンが神殿の奉献式にお いて、主なる神は天地の主ですから、自分が作った宮などにはお住みにならないとはっきりと述べています。預言者イザヤも語っています。49~50節。

 ステパノは議会に立たされています。宗教指導者たちだけではなく、ユダヤ人民衆の敵意をも感じて神のことばを語っています。敵意の原因がどこにあるのかを十分知っていて弁明をしているのです。ステパノは、神が与えてくださった福音の真理を曲げてまで、自分の身を守ろうとは考えませんでした。そして罪を指摘することによって悔い改めの機会を差し出したのです。

 51~53節。神殿を中心とした儀式には忠実であるかも知れない。律法を文字としては守り行っているかも知れない。しかし真の意味で神に聞き従うということをしていないという事実を、ステパノは指摘しています。51節。いつも聖霊に逆らっているということ。

 52節。偽預言者には聞き従うが、神の預言者を迫害してきた先祖と同様に、あなたがたは神のひとり子、救い主、主イエス・キリストを十字架にかけて殺したと糾弾します。53節。 ここでステパノはモーセによって定められたとは言わないで、御使いたちによって定めら れたと、ことばを選んで語っています。確かにモーセの律法を、文字としては守っている つもりかも知れないが、神の律法として守ったことはないと、主なる神に対する信仰の姿勢を糾弾しています。罪を指摘して、罪の赦しを宣言する。結果として、ステパノは赦し を語ることはできませんでした。このような緊迫した状況の中で、ステパノが大胆に語っているということに驚きます。御霊によって語る者の大胆さを見せられます。

 ステパノは、自分がどうなるかを考えていたでしょう。福音の真髄をはっきり語るなら どのような状況になるのか予想がつきます。自分の身の安全を考えてことばを選びたくな ります。しかしステパノは、キリストの証人としての姿勢を貫きました。私たちも自分の身の安全を考えてしまいます。語るべきことが分かっていながら、それを語ることに躊躇 を覚えることがあります。しかしどのような状況に置かれたとしても、そこでキリストの証人としてふさわしく語る者でありたいと願います。主にすべてを委ねることによって、 神を第一とする姿勢を貫きたいと願うのです。

 54節。ユダヤ人たちは怒り出しました。はらわたが煮え返る思いで、歯ぎしりしていたとあります。本来なら心を刺されて、悔い改めを求めるべき状態であるのに、彼らはステ パノに対する憎しみを燃え上がらせました。

 55節。聖霊に満たされているステパノがいます。ステパノの平安に満ちたその言動が記されています。ただひたすらに神を仰ぎ、すべてを委ね切っている、永遠のいのちに生きている者に与えられる平安であり、神の栄光をのみ求めている者に与えられる慰めと励ましを見せられます。

 56節。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」とありますが、まさにステパノの心には一点の曇りもないということでしょうか。神に信頼してすべてを委 ね、神の栄光が現れることをのみ求めて従う者でありたいと願わせられます。

 しかし57~58節。神から遠く離れている者たちに、ステパノが味わっているすばらしい 現実は分かりません。神をごく身近に味わえない者にとって、ステパノの語ることは、ただ神への冒瀆としか映らないのです。彼らはステパノに殺到しました。もう何も聞きたくないという、完全拒否の状態でステパノを町の外に追い出し、石打ちにしたのです。

 59節。憎悪に満ちて石を投げている人々の中で、一人静かに、自分を主イエスに委ねているステパノ。この対照的な状態を見ながら、神の御手の中にある自分を見つめることのできる者の幸いを思わせられます。私たちもステパノと同じ救いを得ています。ステパノ と同じいのちに生きています。全能の神のご計画の中で、この地上生涯が与えられてお り、どのような状況でこの世を去るとしても、ステパノと同じように、主イエスよ、私の 霊をお受けくださいと、全幅の信頼で自分を任せることができます。そのような私たちで あり、そのような信仰をいただいていると覚えましょう。

 60節。自分を殺そうとしている人々のために執り成しをするステパノがいます。憎悪に満ちているのではなく、聖霊に満たされている信仰者の幸いがあります。誰であっても、 どれほどの極悪非道な悪人であっても、最後の最後まで、この世を去る、その瞬間まで、 主イエスを信じて罪の赦しを受ける可能性があるので、執り成しをするのです。その人が 神の御前で自分の罪を自覚し、罪の赦しを求めることを願って祈るのです。主イエスも十字架の上で執り成しの祈りをしました。自分を殺そうとしている者のためにも祈ることができる。これが、キリスト信仰者である私たちの幸いです。主イエスに、そしてステパノ に倣う私たちでありたいと願います。私たちの心が、怒りではなく聖霊に、憎悪でもなく聖霊に満たされて、人々の救いを乞い願う者とならせていただきましょう。

 58節。ステパノは、キリスト信仰がユダヤ社会にとって、反社会的な信仰集団であるこ とが明確にされるために用いられたと言えます。この出来事を目撃し、キリスト教会を迫 害し、抹殺することが自分の使命であると確信した人物として、サウロ、後のパウロが記 されています。そしてステパノのふるまいは、サウロに何らかの衝撃を残しただろうと想像するのです。

 私たちは、自分が、どのような主のみわざに用いられるかは分かりません。悲劇的な、 悲惨な状況に置かれることがあり、肉体のいのちが奪われることもあるでしょう。人と比 較するのは止めましょう。人は人、私は私です。主なる神が用いられる、どのようなことにも、いつも自分を差し出す用意をしておきましょう。私たちが願うことは、私を通し て、主なる神の栄光が現されることであり、主イエスの福音宣教の前進に用いられること だからです。


今週のみことば。

「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ人への手紙 14章 8節)


私たちは主のものです。



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