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2026年5月3日 礼拝「復活の子として神の子」ルカ20:27~38

  • 5月3日
  • 読了時間: 7分

 私たちは今日、主イエスとサドカイ人たちとの問答を通して、私たちの復活について確

認します。サドカイ人とは、ユダヤ社会における、上流階級、祭司階級、富裕層で、ユダ

ヤ最高法院の主導権を担っている一派でした。この世がすべてと考えており、ローマ帝国

と協調路線をとって政治的安定を保っていました。彼らは、モーセ五書、つまり創世記か

ら申命記だけを神のことばとし、死後の復活、御使いの存在、霊などを否定したのです。

 そのようなサドカイ人が、復活を予告する主イエスに対して、モーセの律法の書から、

兄弟の義務の規定を引用して質問しました。実際にはあり得ないけれど、理論上は考えら

れる仮説をもとに、復活を信じることの愚かしさを突きつけたのです。

 その内容が28~33節です。7人の兄弟すべての妻となったこの女性は、復活の時には誰

の妻となるのかという質問です。この質問によって、イエスを論破できると考えました。

 ユダヤ人にとって、土地は神さまからの割り当て地であり、土地を相続することが重要

な意味を持っていました。なので兄が子どものいないままで死去したときに、兄の相続地

を守るために、弟が兄嫁を妻として、最初に生まれた子どもに兄の名前を継がせることが

定められたのです。サドカイ人たちはこの規定、レビラート婚を持ち出して、復活を否定

する根拠としました。レビラート婚の規定と死者の復活とは何の関わりもないのに、自分

たちの考えを正当化するために、聖書のある箇所を引用するのは、不敬虔です。

 主イエスの答えは34~35節です。まずこの世と次の世についての認識の間違いを指摘し

ます。サドカイ人たちは、この世と次の世は連続しているとの仮説で質問しました。しか

し主イエスは、この世と次の世は全く別物であると告げるのです。この世では、人は死ぬ

ので婚姻関係が定められており、子孫を残す必要があります。次の世では、人は死ぬこと

がないので、婚姻関係は必要ありません。次の世に入るのにふさわしい、つまり死者の中

から復活し、永遠を生きる人たちは、婚姻関係を結ぶ必要はないのです。

 36節。復活するのにふさわしいと認められた人々が、次の世でどのように過ごすことに

なるのかの一面が語られます。キリスト信仰者は永遠のいのちを生きるので、死ぬことは

ありません。それが御使いのよう、と言われる所以です。私たちが復活して、御使いにな

るのではありません。御使いのようになるのです。御使いは霊の存在ですが、復活する私

たちは肉体を持ちます。栄光のからだ、朽ちないからだ、天上のからだ、御霊のからだな

どと表現されるからだです。創造者である神が再創造する新しい天と新しい地で、永遠の

いのちを生きるにふさわしいからだに復活するのであり、主イエスの栄光に輝くからだと

同じ姿に変えられると約束されています。復活は蘇生とは違います。次の世に入るのにふ

さわしいと認められた人たちは、復活の子として神の子です、と宣言されます。

 キリスト信仰者はすでに神の子です。主イエスを信じる信仰によって、神の子どもとな

る特権が与えられているからです。私たちが神の子どもである、その保証として、心に聖

霊なる神を宿してもいます。私たちキリスト信仰者は神の子どもであるので、創造者であ

る全能の神を父なる神と親しく呼んでいます。神の子どもとされたので、血縁関係がない

にもかかわらず、私たちは互いに神の家族、主にある兄弟姉妹と呼び合っています。キリ

スト教会が、神の家族の集まりであるとは、次の世の前味を味わっているのです。

 今私たちは、罪の性質を引きずっている肉体に生きているので、必ず死にます。復活の

子として神の子ですと言われているのは、死ぬことのないからだ、罪の全くないからだに

復活し、次の世で、父なる神と顔と顔を合わせて、永遠を生きる神の子ということです。

この世の血縁関係からは完全に解放されての神の家族として、神の子です。

 37節。主イエスは、サドカイ人たちが神のことばと認める出エジプト記から引用して答

えます。主なる神はモーセに自己紹介をしました。わたしはあなたの父祖の神、アブラハ

ムの神、イサクの神、ヤコブの神であると。主なる神は、あなたの父祖の神であった、と

は言われませんでした。わたしは今も、アブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコ

ブの神であると宣言されたのです。だからモーセも主を「アブラハムの神、イサクの神、

ヤコブの神」と呼びました。主イエスは、このことばをもって、モーセも、死んだ者がよ

みがえることを明らかにしていると告げたのです。

 38節。主イエスは、アブラハムも、イサクも、ヤコブも、主なる神とともに歩んだ聖徒

として、死んだ者ではなく、今も生きている、と宣言されたのです。主なる神を信じた者

たちは、地上生涯を閉じた後も、神にとっては生きていると主イエスは言います。肉体の

死を迎えて、肉体は朽ち果てますが、消滅するのではありません。霊は神のもとで存在し

続けています。十字架上で、主イエスは、罪を悔い改め、救いを願った囚人の一人に「あ

なたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と約束されましたが、私たちもこの世

を去ったときに、パラダイスにいるのです。そして復活の時を迎えます。

 私たちは聖書を、自分の考えや希望を裏付けるために読み込むのではなく、主なる神が

意図されたことを知るために、神の語りかけに耳を傾けることが大事です。そして日々の

生活で、神のことばに自分を合わせて、神のことばを生きる者とされたいのです。決して

自分の好みや都合に合わせて、神のことばを利用してはなりません。

 マタイの福音書には、主イエスがサドカイ人たちに、あなたがたは聖書も神の力も知ら

ないので、思い違いをしている、と語ったことが記されています。聖書を知らないとは、

ことばとして、知的には知っていたとしても、聖書の真意、神のことばの本質を理解して

いないということです。彼らは、人間の論理で聖書を理解しようとしていました。死後の

復活についても、復活後の世界についても、自分たちの論理で否定しているので、思い違

いをしていると指摘されたのです。私たちも注意しなければなりません。自分の論理を優

先して、それに合わせて聖書のことばを選んで、用いようとしてはならないのです。

 神の力を知らないことも同じです。神は全能の神であると知識として知っていても、創

造者である神の全能の力を体験していない、味わっていないという意味で知らないと言わ

れたのです。神の力は、神のことばを実生活で生きることで体験します。信仰の父と称さ

れるアブラハムは神のことばを信じた生涯を過ごしました。主なる神の招きに応じて故郷

を離れ、行き先を知らないで出かけたときから、紆余曲折はあったけれど、神の全能の力

を体験し続ける生涯を送ったのです。年老いてから、人間的には不可能と思える状況にお

いてイサクが与えられました。その子をいけにえとして献げるという命令に対しても、主

なる神は死者をよみがえらせることができると信じて、そ命令に従いました。その結果、

神の恵みとあわれみとをさらに深く味わうことになったのです。

 私たち光る海教会も、神の力を体験的に知っています。人間的には不可能としか思えな

い状況の中、土地と会堂が与えられて、ここまで導かれています。主の恵みとその大能の

力によって、教会再生という主のみわざに、私たちも用いられているのです。主なる神が

事を行うなら、だれもそれを妨げることはできません。これからも味わい知りましょう。

 私たちキリスト信仰者は、復活の子として神の子です。創造者である全能の神を、父な

る神と親しく仰いでいる神の子たちです。次の世に入るにふさわしいと認められた者たち

ですから、いつかは消え去るこの世に望みをおくのではなく、次の世を備えておられる父

なる神に望みをおいて、神のことばに自分を合わせて歩む生涯を追い求めましょう。

 新しい天と新しい地が再創造されたときに、私たちは互いに再会します。この世の様々

な関係のすべてから解放されて、復活の子として神の子である私たちは、父なる神ととも

に永遠を生きるのです。主イエスのことばから次の世を思い、復活の子とされていること

を喜び、新しい天と新しい地の再創造を待ち望みながら、信仰の生涯を全うしましょう。


 
 
 

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