2026年4月26日 礼拝「悔い改めを待つ父なる神の愛」ルカ15:11~32
- 4月26日
- 読了時間: 9分
創造者である神は、聖書でご自分を示しておられます。私たちが、神はこのような方で
あってほしいと考えるのではなく、神が私たちに、ご自分をどのような方として示してい
るかを確認して、そのまま受け入れることが大事です。
今日の箇所では、創造者である神は、息子を待ち続ける父と紹介されています。放蕩に
身を持ち崩した息子を待ち続ける父、また父の愛が分かっていなく、義務的に父に仕えて
いる息子を愛し続ける父が紹介されています。どちらも息子の悔い改めを待っています。
創造者であるまことの神は、私たちが悔い改めることを待ち続ける愛の神です。
11節。ある人に二人の息子がいたと、家族構成が記されます。12節。ある日弟息子は
父に向かって、財産の譲渡、すなわち遺産の生前贈与を要求しました。これは父親を侮辱
する行為、父の存在を否定しての要求であり、律法に背く行為として、これほど罪深い行
為はないと言えます。その親不幸の要求を、この父親は、そのまま受け入れました。
13節。弟息子は、すべてをお金に換えて、遠い国へと旅だっていきました。父の目の届
かない、自分の思い通りに生きることができる環境を求めて出て行ったのです。
自立することは大切です。しかし自立することと、今ある環境を否定し、そこから逃れ
ることとは違います。この弟の場合、自立を目指したのではなく、ただ単に自由気侭に生
活したかっただけでした。その当然の結果として放蕩するのです。身を持ち崩すことは簡
単です。自分の身を委ねるだけです。財産を湯水のように使うことには、何の努力もいり
ません。何も考えず、欲望の赴くままで良いのです。
私が会社勤めをしていた、最初のボーナスの時、一緒に入社した同僚が嬉しくなって繁
華街に遊びに行ったそうです。気がついてみたら、あっという間にボーナスの半分がなく
なっていたと言っていたことが印象に残っています。彼はその後、注意してお金を使うよ
うになったのですが、私たちにいろいろな楽しみを提供してくる人々は、お金の浪費を、
少しも惜しいと思わせないように、様々な魅惑的な策略を巡らせてくるのです。
この弟息子はお金をたくさん持っていました。だから、浪費に対する実感がなく、いく
らでも使えると錯覚したのです。そうして財産を湯水のように使い、気がついた時にはす
べてを使い切っていました。しかし金の切れ目が縁の切れ目です。それまでちやほやと持
ち上げていた取り巻き連中は、みな離れていきました。私たちも同じです。私たちのお金
や知識、美貌やその他のものが、彼らの必要を満たすためだけの関係であるなら、それら
がなくなった時点で御払い箱になるのです。
14~15節。その時、その地方に激しい飢饉が起こりました。よそ者の面倒まで見る余
裕もなくなります。弟息子は何とか頼み歩いて、一人の人のもとに身を寄せますが、豚の
世話をさせられるのです。彼にとっては屈辱でした。かつての何不自由ない生活から、豚
の世話をするというどん底に落とされたのです。しかし、この屈辱的な状況に置かれたこ
とで、彼は我に返ることができました。弟息子は、自分は誰で、どこから来たのかを思い
出しました。17節。そして罪を認めて、帰る決心をしたのです。18節。
この世のある人々は、自由とは何の束縛もない状態とします。自由気ままに、何でも好
き勝手にできるのが自由だと勘違いします。しかし真の自由は、決まりや規則の中にある
のです。スポーツにはルールがあります。ルールを全く無視して、プレーヤーが好き勝手
にプレーを始めたらどうなるでしょうか。そのスポーツは成り立ちません。社会生活のい
ろいろな領域でルールが定められています。そのルールによって秩序が保たれ、一人ひと
りは安全が保たれているのです。自由と放縦は違います。
金魚は金魚鉢という制約の中で自由に動き回ります。もし金魚がその制約を嫌って、金
魚鉢から飛び出したら、待っているのは死です。制約は私たちを生かしているのです。人
間は、創造者である神に聞いて生きるという制約の中で、真に自由で、真に自分らしく、
真に主体的に生きることができます。創造者である神が、ご自分に似せて人間を造り、神
との人格的な交わりをする、神と共に生きる存在として、人を造られたからです。
弟息子は、いわゆる困難や不幸という状況の中で、父のもとにいた時の、本当は幸いな
生涯に気づきました。そして彼は自分の過ち、自分が犯した罪を認めて、その赦しを請う
ことを決断したのです。これが大切です。救いの第一歩だからです。本来のあるべき状態
に戻るには、自分の罪を認めること、その罪を告白して、罪の赦しを求めることです。弟
息子は父の許に帰る決断をしました。これが重要です。18~19節。
20節。この父親はどうしていたのでしょう。父親は、一時も弟息子を忘れないで、その
帰り待ち続けていたことが分かります。弟息子が家を出た日から毎日、息子が出て行った
方角を見続けていた父親の姿を想像することができます。
「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆
け寄って彼の首を抱き、口づけした」とあります。その身なりは全く違っており、汚く、
みすぼらしかったことでしょう。しかし父親には、自分の子どもであるとはっきり分かり
ました。まだ遥か遠くにいるその人物を、自分の子どもであると判別したのです。そして
かわいそうに思います。自分から走り寄っていきます。その汚いままの息子を抱きしめ、
悪臭が漂っていた息子に口づけしました。ここに、息子がどんなにひどい罪を犯し、どん
なに自分を侮辱したかに関係なく、なお愛し続け、わが子として扱う父の姿が描かれてい
ます。この父親は、息子の罪を赦して、帰りを待っていたのです。
21節。息子は、自分が言おうと決めてきたとおりを言い始めます。しかし22節。息子
のことばなど聞こないかのように、父親はしもべたちに祝宴の用意を命じます。ただ息子
が帰ってきた、そのことを喜び、そして祝うのです。
主イエスは、創造者である神を、この父親にたとえました。24節を、創造者である神と
私たちに当てはめて、じっくりと噛みしめながら読みます。私たちは創造者である神から
離れた時点で霊的に死にました。そして創造者である神のもとに戻ることで、生き返るの
です。神のいのちに、再び生きるのです。
さて兄息子です。25~26節。家の様子がいつもと違うので、しもべに聞きます。27~
28節。みなさまはこの兄息子をどう思うでしょうか。兄息子がこのような態度を取った理
由が29節です。この通りであるなら、兄息子が怒るのは当然でしょう。
自分は一所懸命に、親に気に入られるように頑張ってきた。友達と遊ぶことも我慢して
きた。それなのに、散々遊びほうけて、財産を使い果たして、ボロボロになって帰ってき
た弟息子を喜び、お祝いをしている。こんな理不尽を認めることはできない。怒り心頭に
発するのは当然だと、私たちは考えます。みなさまはいかがでしょうか。
しかし兄息子は父を誤解していました。間違った自己規制をしていたのです。この父親
は大盤振る舞いをする、子どもの自由意思を最大限尊重することは、弟息子の生前財産分
与に応じたことで明らかです。しかし兄息子は、父は弟びいきをしていると思い込んだの
です。自分は親に愛されていない、大切に思われていないと受け取り、かといって父親か
ら離れることもできず、仕方なく父親の顔色を見て、自己規制していたのです。
父親の息子たちへの愛はあふれているのに、兄息子は父親の自分に対する愛が分かりま
せんでした。父親を誤解し、戒めを破ったら大変なことになると恐れ、落ち度がないよう
に、びくびくしながら仕えていたのです。父親は、友達と楽しむために子ヤギ一匹もくれ
ないと勝手に思うほどに、自分で自分を窮屈にしていたのです。
私たちにも、このような傾向があります。気をつけましょう。私たちが、創造者である
神の私たちへの愛を味わい知って、その愛に応えて神を愛するがゆえに、様々な働きや奉
仕をしているなら、喜びと感謝のうちに信仰生活を全うできます。そうではなく、私たち
が義務的に、仕方なく主への奉仕や働きをしているなら、していない人を見て、何で自分
だけという思いが生じてきます。もしそのようなであるなら、主の御前に静まる時を持つ
ことが大事です。どれほどの愛で愛されているのかを再確認するためにです。
31節。父なる神はいつも一緒です。その幸いを味わいましょう。自分に委ねられている
ものを感謝して、喜んで用いることが大事です。私たちの父である神は愛の神であり、恵
みの神です。再確認しましょう。兄息子は、すべて自分のものとされているのに、理解し
ていませんでした。父は愛にあふれ、恵みに富んでおられるのに、愛のない、厳しい方だ
と誤解していたのです。私たちも父なる神を誤解していないでしょうか。
32節。兄息子が、父親を正しく理解していたなら、弟が戻ってきたことを、死んでいた
のが生き返った、いなくなっていたのが見つかったと共に喜べたはずです。私たちも同じ
です。愛に富む父なる神は、私たち一人ひとりを愛しておられます。私たちが立ち返るこ
とを待っておられ、だれもが自分の間違いに気づき、父なる神に立ち返るなら、すべての
罪を不問にして、喜び迎えてくださるのです。そうして罪を赦され、神の愛を味わい知っ
た私たちは、その人が神に立ち返るとき、主なる神とともに喜ぶことができるはずです。
父なる神は私たちの罪を赦しておられます。そして私たちがいつでも父なる神の許に帰
ることを、罪の赦しを備えて待っておられるのです。私たちの罪を赦すために、父なる神
は、神の御子イエス・キリストに、私たちの罪をすべて負わせて、十字架で身代わりの処
罰をされました。私たちが犯してきた、今も犯している、これから犯すであろう、すべて
の罪に対する処罰を終わらせ、罪の赦しを備えて、私たちが悔い改めることを待っておら
れるのです。私たちは罪を悔い改めて、神に立ち返るだけです。
この弟息子が、罪を犯したと認め、悔い改めて、父親に謝るために戻ったように、私た
ちも自分の罪を認め、父なる神に罪を告白して謝ればよいのです。父なる神はすでに赦し
ておられるからです。そのために主イエスの十字架があります。私たちに罪の赦しを備え
るために、神の御子が十字架で、身代わりの処罰を受けて、死なれました。
創造者である神は愛と赦しの神です。私たちの悔い改めを待ち続けてくださる神です。
神の愛を感謝し、創造者である神との本来のあるべき関係に立ち返るだけです。父なる神
はあなたの帰りを待ち続けています。あなたのすべての罪に赦しを備え、あなたが立ち返
るのを待っておられます。父なる神の自分への愛を感謝して、立ち返りましょう。




コメント