2026年4月19日 礼拝「被造物もともにうめく」ローマ8:18~25
- 4月19日
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新約聖書時代のキリスト教会は迫害に晒されていて、キリスト信仰者も様々な圧迫を受
けていました。今日の箇所で私たちは、被造物のすべては、ともにうめき、ともに産みの
苦しみをしていることを確認します。キリスト信仰者もともに、ということです。
かつてキリスト教会迫害の急先鋒であったパウロは今、ローマにいるキリスト信仰者た
ちを励まし、福音の恵みに生きるように促しています。パウロ自身も、キリスト信仰者と
されたゆえに、様々な苦難を受けてきました。パウロはコリント人への手紙第2で、自分
は愚かになって、あえて誇ると言うのです。「彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼
らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうで
す。彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそ
うです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたこ
とははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。ユダヤ人から四十に一つ足
りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたこ
とが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。何度も旅をし、
川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海
上の難、偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しば
しば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。ほかにも」と告白します。
前回私たちは、キリスト信仰者は、神の相続人であり、キリストともに共同相続人であ
ると確認しました。私たちは神の子どもとされており、キリストと栄光をともに受けるこ
とが約束されています。そのために、キリストと苦難をともにするとあります。
18節。キリスト信仰者である私たちは、主イエスに従って歩むときに、苦難を受けるこ
とは避けられないと、覚悟しておくことは大切です。その時に、慌てふためくことなく、
キリスト信仰者として証する機会となるからです。私たちは、希望をもって歩むことで、
さらに勇敢に歩むことができます。この地上での、キリスト信仰ゆえに苦難は、取るに足
りないなどとは、到底言えません。しかしパウロがここで「取るに足りないと私は考えま
す」と言うのは、私たちに約束されている栄光、やがて私たちが体験することになる永遠
の重い栄光と比べるなら、それは、取るに足りない軽い苦難となるということです。
私たちは、私たちキリスト信仰者が相続することになる、永遠の、重い栄光を確認し、
望み見ていることが大事です。
19~20節。パウロは、被造物について語ります。被造物、つまり神が創造した世界は、
切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいると語るのです。神の子どもた
ちとは、創造者である神を自分の父と仰ぐ者たちであり、創造の初めに、神から人に委ね
られた、被造世界を管理するという使命を果たそうとする者たちです。しかし彼らの努力
や対応は限られており、被造世界の破壊はとどまるところを知りません。地球環境は壊滅
的な状態にまで悪化しており、修復不可能の限界点に近づいています。
創造者である神が造られた世界、そのすべての被造物は、非常に良いものでした。創造
者である神は、ご自分が創造したすべてをご覧になったとき、非常に良いと満足されたの
です。しかし今、被造物は虚無に服しているとパウロは言います。
被造物が虚無に服するとは、創造された目的が果たされなくなったことです。罪に陥っ
た人間によって、被造世界全体が破壊され続け、その結果、人間に祝福をもたらすために
創造されたのに、のろいを及ぼす存在となりました。服従させた方による処置です。服従
させた方とは、創造者である神です。今日交読した創世記3章に、罪を犯したアダムに対
して、創造者である神がさばきを下しましたが、その中で「大地はあなたのゆえにのろわ
れる」と宣告されました。その結果、大地は人に祝福を与えるために造られたけれど、の
ろいをもたらすものともなったのです。私たちは自然の恵みを大いに受けていますが、そ
の自然は私たちに災害をも及ぼします。祝福とのろいを併せ持つことになったのです。
そのようになった被造世界、被造物は切実な思いで、神の子どもたちの現れを待ち望ん
でいるとパウロは言います。神の子どもたちの現れとは、第一に、福音宣教によって主イ
エスを信じることで、神の子どもとなる、その現れですが、最終的には、主イエスの再臨
による救いの完成、罪の全くない、栄光のからだへの復活、新しい天と新しい地の再創造
です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなる、それを望んでいるのです。
21~22節。新しい天と新しい地の再創造が、滅びの束縛からの解放です。その時、神
の子どもとされたキリスト信仰者も、栄光の自由を享受します。罪の性質を引きずってい
る肉体で歩んでいるので、すべての人は、罪の奴隷となっていました。罪の奴隷であった
私たちが、主イエスを信じる信仰によって、罪を赦され、神の子どもとされ、心に助け主
の聖霊を宿すことで、罪と死の支配から解放されたのです。そして今、いのちの御霊の支
配に生きる者とされたけれど、今もなおも、罪の性質と戦っています。この罪の性質から
の完全な解放は、主イエスの再臨の時にもたらされます。その時私たちは、罪の全くない
からだに復活し、その時、人間を含めた被造物すべても、栄光の自由に与るのです。
被造物のすべては、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしているとあります。ともに
とは、神の子どもとされた者たちとともに、つまり私たちもともに、ということです。私
たちもうめいています。罪の性質を引きずっている肉体での信仰生活は、神に聞き従いた
いと思いながら、神に背く言動をすることがあるからです。信仰生活を続ける中で、神に
聞き従い、神が良しとされること、神に喜んでいただけること、神に受け入れられること
を行えるように変えられていきますが、罪との戦いに、うめいています。私たちがしてい
る産みの苦しみとは、神の子どもとしてふさわしく整えられていくための苦しみです。
23節。私たちキリスト信仰者のうめき、産みの苦しみが述べられています。御霊の初穂
をいただいている私たち自身も、とあります。初穂とは、収穫物の初めであり、その後の
収穫の保証でもあります。キリスト信仰者、罪の赦しを受け取った私たちの心には、賜物
として聖霊が与えられていて、聖霊を心に宿していることが、主イエスの再臨の時に、栄
光のからだが与えられる保証です。主イエスの再臨の時に、肉体にあって主イエスを迎え
る者たちには、栄光のからだに変えられることの保証であり、この世を去ったキリスト信
仰者には、栄光のからだに復活することの保証です。
私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、私たちキリスト信仰者は心の中でう
めいています。罪の性質が残る肉体にあって、罪と戦いながらの信仰生活を続けているか
らです。いのちの御霊の支配に、自分を完全に委ね切ることができるなら、罪との戦いの
中でうめくこともなくなるのですが、神のことばを生きようと努力しているのに、なお自
分の思いや願いを、神に聞き従うことよりも優先する自分がいます。自分中心か、神を中
心にして歩むかの、信仰の鬩ぎ合いの中で、私たちはうめいていると言えます。
24節。この望みとは、栄光のからだに贖われる日の望みです。私たちの救いは、罪の赦
しと罪からの救いです。罪の赦しを与え、罪から救うために、神の御子、主イエス・キリ
ストは神のあり方を捨てて、私たちと同じ肉体を取りました。私たちの代わりに罪の処罰
を受けて、十字架に死ぬためです。この十字架での身代わりの死を、自分の罪を赦すため
であると受け入れ、罪を悔い改めることで、罪が赦されるのです。罪が赦された者は、罪
のない者と見なされるので、公正な神、きよい神に受け入れられます。
私たちの救いの完成は、再創造される新しい天と新しい地で、永遠を神とともに生きる
ことであり、この望みとともに救われたのです。からだの贖われること、罪のないからだ
に変えられるという神の約束の実現を待ち望んでいるのです。栄光のからだ、天上のから
だ、朽ちないからだ、御霊のからだに変えられる、または復活するのです。
目に見える望みは望みではないと言います。目で見ているものを、だれも望まないのは
当たり前です。パウロはコリント人への手紙第2に「私たちは見えるものにではなく、見
えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くから
です」と記し、「私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます」と書き送っ
ていますが、まさにその通りです。
25節。見ていないけれど、神が約束しておられるのだからと、その実現を待ち望むのが
信仰者です。実際にどのように実現するのか、具体的なことは分かりません。しかし神の
約束は明確です。十字架の死と死者の中からの復活によって、救いが完成した今、被造物
のすべては、その贖いの時を待っています。主イエスの再臨は明確に約束されています。
主イエスが再臨される時、この世を去っているキリスト信仰者は栄光のからだに復活し、
生きていて主イエスを迎えるキリスト信仰者は、罪のないからだ、栄光のからだに、一瞬
のうちに変えられるのです。また、私たちが見ている、そして歩んできた被造世界のすべ
ては、跡形もなく消え去り、新しい天と新しい地が再創造されます。被造物のすべての贖
いがなされ、滅びの束縛から解放されるのです。
地球環境はますます悪化していきます。罪人である人間が破壊を続けているので、良く
なることは期待できません。地球環境の改善は望み得ないと言えます。だから私たちは、
聖書に記されているように、目に見えるものに依存しないようにしましょう。目に見える
ものは一時的であり、それらはなくなるものです。目に見えないけれど、神の約束は必ず
実現します。私たちは主イエスを信じて、創造者である神を自分の神としたのですから、
神の約束の実現を、忍耐して待ち望むのです。
私たちキリスト信仰者は、自分のからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でう
めいています。被造物のすべても、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。そ
うして神の約束の通りに、私たちも含めた被造物のすべてが贖われるのです。その時を忍
耐して待ち望みましょう。喜びと感謝のうちに、主イエスをお迎えするのです。




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