2026年3月22日 礼拝「信仰によってのみ救われる」ローマ3:21~26
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ひとつ不思議だなと思うことがあります。私たち人間はみな、だれもが、永遠への思い
を持っているということです。みなさまは不思議だと思わないでしょうか。なぜ人間は永
遠を思うのでしょう。死んだら終わりだ、自分は消滅する運命だと考えている人も、永遠
を思い、極楽や地獄など、死後の世界を考えます。なぜ人は永遠への思い持ち、死後につ
いて考えるのでしょう。礼拝招詞に「神は人の心に永遠を与えられた」とありました。創
造者である神が、私たち人間を霊的な存在として創造し、その心に永遠を与えられた。だ
から人は永遠を思うのです。私たちに永遠への思いがあるのは、私たちが偶然の産物、つ
まり物質から進化して存在するようになったからではなく、創造者である神が、私たちを
霊的な存在として、特別に造られたからなのです。
そのような私たちに、真に必要な救いは、永遠のいのちを受け取ることです。死んで滅
びるのではなく、肉体は朽ちても永遠のいのちに生きる者となるという救いが必要です。
その救いに与るためには、罪の赦しと罪からの救いが不可欠です。
「罪の報酬は死です」と宣言されます。罪のゆえに、人に滅びが定められています。そ
のような私たちを、主なる神はいのちへと招いておられます。私たちは必ず死にます。死
に向かって生きていると言えます。長寿を全うしても、早死にしたとしても、死に方で悲
しんだり、慰めを得たりしても、死そのものからは逃れられません。私たちは、永遠を思
う存在であるのに、どうして地上生涯に区切りが設けられたのでしょう。永遠を思う存在
であるとは、本来私たちは、永遠を生きる存在として造られたということです。
3章23節。ここに、私たちの造られた本来の状態と、そこから逸脱してしまった今の状
態が記されています。私たちは、神の栄光を受ける存在でした。神の栄光を受けることが
できずとは、脚註を見て分かるように、神の栄光に達せずということです。創造者である
神に造られた当初の状態は、神の栄光に達していました。私たち人間は、他の動物とは全
く違う存在として造られました。人間だけが、神のかたちとして、神の似姿に造られてい
ます。神のような存在として、一人ひとりが固有な人格を備え、霊的な存在として永遠を
生きる存在として造られたということです。
しかし今は、神の栄光に達しない者、神の栄光を受けるにふさわしくない存在となって
います。それは罪があるからです。すべての人ですから、例外はありません。すべての人
は罪を犯して、神の栄光を受けることができない者となりました。これが、罪人である私
たちの出発点です。私たちはひとり残らず、罪を犯しているので、死罪を宣告されいてい
るのです。罪のない人、罪を犯さない人はいません。すべての人が罪を犯し、これからも
犯すでしょう。そして神の怒りは、その罪に対して向けられているのです。
1章18節に「というのは、不義によって真理を阻んでいる人々のあらゆる不敬虔と不義
に対して、神の怒りが天から啓示されているからです」とあります。分かることは、神が
怒りを向けられているのは、罪を犯した、また罪を犯している私たちにではなく、私たち
が犯している罪、不義によって真理を阻んでいる私たちのあらゆる不敬虔と不義に向けら
れているということです。不敬虔とは、神を神としないことであり、そこから生じる言動
です。不義とは、人に対する罪と言えます。神の義にふさわしくない態度や言動を人に行
うことです。あらゆる不敬虔と不義に対して、聖である神、義である神は怒りを向けてお
られるのです。と同時に愛である神は、罪人の私たちを愛しておられ、罪人である私たち
をその不敬虔と不義から解放し、神の怒りが私たちに及ばないように救いを備えておられ
るのです。罪を抱えたままでは、神の怒りが私たち自身に及ぶからです。
3章23~24節。すべての人は罪を犯しました。罰せられ、滅ぼされて当然の罪人です。
しかしそのような私たちを、神は、恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、
価なしに義と認めてくださるのです。義と認めるとは法廷用語で、無罪の宣告をするとい
う意味です。犯してきた罪に対する公正な審きがなされ、検察は死刑を求刑しました。そ
して裁判官は、求刑通り死刑を宣告するはずでしたが、キリスト・イエスによる贖いを受
け入れた者に対して、無罪を宣告したということです。主なる神は、主イエスの十字架に
よる身代わりの処罰を受け取る者を、価なしに義と認めてくださるのです。
25節。神は主イエスを、血による宥めのささげ物として公に示されました。宥めのささ
げ物とは、神の怒りを宥めるささげ物です。私たちのあらゆる不敬虔と不義に対して向け
られている神の怒りを宥めるささげ物として、主イエスは十字架で処刑され、血を流して
くださいました。この方、主イエスを信じて、自分のための宥めのささげ物として感謝し
て受け取るのか、受け取ることを拒むのかが、罪人に差し出されています。
これが、愛である神が私たちのために備えられた救いです。神の栄光を受けることがで
きなくなったすべての人を、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、す
なわち、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物である主イエスの十字架の身
代わりの死を通して、その死を信仰によって受け取る者を、救いへと招かれたのです。
信仰によって救うという救いの方法は、旧約時代も同じでした。「義人は信仰によって
生きる」とは、旧約時代の預言者によって語られた神のことばです。旧約時代、神は一方
的な恵みでイスラエルを選び、エジプトでの奴隷の状態から救い出し、神の民としてくだ
さいました。イスラエルに価値があったからではなく、神の一方的な恵みよって救われた
のであり、さらに神の民としてふさわしく生きる者となるために律法を定められました。
しかしイスラエルは、神の恵みに拠り頼むことを通して律法を生きるのではなく、自分の
肉の頑張りで神に正しいと認められようとして、律法を行おうとしたのです。
自分の肉の頑張りで行うことは、私たちの自尊心を擽ります。自分はこれだけ行ったの
だから、報われて当然だという意識を持ちます。これだけ修行を積んだのだから、これだ
け善行を行ってきたのだから、これだけ業績を残したのだから、それに見合った報いを受
けて当然だと、その報酬を求めるのです。報いは、自分の行いに応じて得られると。
まじめに生きていると思う人ほど、その思いは強くなります。しかし神の宣告は、すべ
ての人は神の栄光に達せないこと、神の基準を満たす行いをすることで、神に義と認めら
れる人は誰もいないということです。自分はあの人よりはましだと思っていても、些細な
罪を犯した時点で、神の絶対の、公正なさばきによって、有罪とされるのです。聖書の宣
言は明確です。「罪の報酬は死です」。行いでは神に義と認められません。
21~22節。イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神
の義が示されました。そこに差別はありません。この神の義は、律法と預言者たちの書に
よって証しされて、示されたのです。律法と預言者たちの書とは、旧約聖書全体です。旧
約聖書は、やがて来たるべきメシヤ、キリスト、救い主の到来を差し示し、この方を信じ
る信仰による神の義が完成すると述べています。この義は、信じるすべての人に与えられ
る神の恵みです。この救いは、その人がどのような歩みをしてきたかに、全く関係なく与
えられます。主イエスを信じる信仰によって与えられる救いだからです。
25~26節。神は、ご自身の義を明らかにされました。ご自分が義であり、イエスを信
じる者を義と認める方であることを示されたのです。神が義とされる基準をそのまま認め
る者、神の義の基準に自分を合わせようとする者を、神は義と認めます。その基準は、神
が宥めのささげ物としてのキリスト・イエスを遣わされたこと、十字架で罪人の身代わり
に処罰されたこと、その身代わりは自分の罪を赦すためであったと信じる者、受け入れる
者を、その信仰のゆえに義と認めることです。神が義そのものであり、神が義と認める基
準を正しいと認める者を、神は義と認めるのです。
神は忍耐をもって、これまで犯してきた人の罪を見逃してこられました。私たちが罪を
犯した時に、すぐに処罰するのではなく、私たちを救いに招くために、その処罰を先延ば
しにしたのです。私たちを愛するゆえの神の忍耐です。私たちが主イエスの十字架による
罪の赦しを受け入れることを待つ、執行猶予期間です。本当に感謝です。
4章4~5節に「働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われる
べきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方
を信じる人には、その信仰が義と認められます」とあるとおり、働く者には報酬を受け取
る権利がありますが、働きのない者が報酬を要求する権利はありません。主なる神と私た
ちとの関係も同じです。私たちは神に対して不敬虔な者であり、背きと罪の中で、神に敵
対していた者たちです。その報酬は死です。神からの良い報いを受ける権利は何もありま
せん。しかし神は私たちに恵みを与えてくださいました。救われるに何の功績もなく、滅
ぼされて当然の私たちに対して、神は一方的な恵みで、義と認められる道を備えられたの
です。神の恵みを感謝し、神の救いの方法を感謝して受け取るとき、神は、その信仰を義
と認めてくださるのです。これが神が備えた、義と認める基準です。
神は不敬虔な者を義と認める方であると信じる人には、救われるための何の功績もない
人、救われる価値のない人であっても、神はその人の、その信仰を義と認めてくださるの
です。これが神の方法であり、神の基準です。ここに私たちの努力とか行いが入り込む隙
はありません。私たちは神に対して、救いを要求できません。私たちが受けるべき報酬は
死であって、救いではありません。しかし私たちが、自分は神に対して不敬虔であり、
様々な罪を犯して、神の栄光に達することのできない者だと認め、その上で、神が義と認
めてくださる方であることを信じるとき、神は私たちの、その信仰を義と認めてくださる
のです。私たちが救われるただ一つの道は、キリスト・イエスの十字架を、自分の身代わ
りであると信じること、それだけです。これが、神の定めた救いの方法です。
今週のみことば「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。そ
れは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と
あるとおり、神の一方的な恵みによって与えてくださった、神のひとり子、御子イエスを
信じる者は、一人として滅びることはありません。罪のゆえに、滅びに向かっている私た
ちに、神は永遠のいのちを持つようにと招いておられるのです。
私たちを愛するがゆえに、神は、ひとり子をこの地上に遣わし、十字架で、罪を赦すた
めの身代わりを処罰をされました。この十字架による身代わりの処罰を、自分の罪を赦す
ための神の恵みであると感謝して受け取る者は、神に義と認められるのです。主イエスを
信じた私たちは、神に、罪のない者、罪を犯さなかった者と見なされます。私たちは罪を
赦された者とされるのです。この救いを感謝しましょう。
主イエスを信じる以外に、私たちが救われる道は与えられていません。




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