2026年5月31日 礼拝「神に愛されている私たち」ローマ8:31~39
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私たちは神に愛されています。今日私たちは、私たちがどれほど神に愛されているかを
確認します。神は愛です。みなさまは、自分が神に愛されていることを味わい知っている
でしょうか。主イエスを信じた私たちは、主イエスの十字架での身代わりの死を自分のた
めであると信じ、受け入れました。私たちは主イエスに、いのちを捨てるほどの愛で愛さ
れていることを、体験的に知っているはずです。私たちは神に愛されています。
31節。これらのこととは、30節までのすべてを含むでしょう。福音によって、私たちを
救いに導いてくださった神の一方的な恵みのすべてです。そして最後の部分で、26節、御
霊が弱い私たちを助けてくださる、28節、神を愛する私たちのためには、すべてのことが
ともに働いて益となる、30節、さらに栄光が与えられる、ということです。主権者である
神が私たちキリスト信仰者の味方です。全能の神が、全地の主が、創造者である神が私た
ちの味方です。だからだれも私たちに敵対できません。
私たちキリスト信仰者は、繰り返し確認しましょう。全能の神が、全地の主が、私たち
の味方です。これほど心強いことはありません。地上生涯を歩む中で、皆さまの味方とな
る人を思い浮かべることができるでしょうか。その人がそばにいてくれることで、どれほ
ど励まされ、勇気が与えられることでしょう。しかしその人は、四六時中一緒にいられる
わけではありません。助けを必要とするときに、その人が助けにならない時もあるでしょ
う。しかし神が私たちの味方です。この事実を忘れてはなりません。
32節。神は私たちのために、御子を惜しむことなく死に渡されました。神は、罪のゆえ
に滅びに向かっていた私たちをあわれんでくださり、私たちを救うために、神の御子を人
としてこの地上に遣わし、私たちに罪の赦しを備えるために、私たちの身代わりとして、
十字架で御子を処罰されたのです。神は御子を惜しまれませんでした。私たちのために死
に渡された神です。それほどに私たちを愛して、恵んでくださった神です。
その神が、私たちのためにすべてを恵んでくださるのです。神の子どもとし、永遠のい
のちを与え、新しい天と新しい地の再創造を待ち望む者としてくださいました。神が私た
ちに、この地上生涯を与えておられる限り、私たちの必要を満たしてくださるのは当然で
す。地上生涯においても、次の世にあっても、御子とともにすべてのものを恵んでくださ
います。私たちは父なる神にすべてを委ねて、主とともに歩めばよいということです。
33~35節で3節続けて、だれが、と問いかけます。その答えは、だれも、です。まず33
節。だれが、私たちキリスト信仰者たち、神に選ばれた者たちを訴えるのですかとパウロ
は問いかけます。だれも訴えることはできません。神に選ばれた私たちは、御子イエスを
信じる信仰によって罪の赦しを受けています。罪のない者、罪を犯さなかった者と見なさ
れています。神が義と認めてくださった、神が無罪の宣告をなされたのです。
ですから私たちを訴えるすべての訴えは無効です。私たちは弱さのゆえに罪に引き込ま
れることがあります。その罪を指摘して、それでも救われているのか。罪を犯しているの
に、神に愛されているのかと訴えられます。しかし私たちは、自分の罪に気づいたとき
に、聖霊の促しに素直に応じて、罪を悔い改め、罪を赦されます。神が義と認めてくださ
いました。これからも義と認めてくださいます。すべての訴えは無効です。
だから34節。だれも、私たちを罪ありとすることはできません。神が私たちを、罪のな
い者、罪を犯さなかった者と見なしてくださいました。そのために神の御子は十字架で死
なれ、三日目によみがえられたのです。十字架と復活によって救いを完成されたお方、キ
リスト・イエスが神の右の座に着き、まことの大祭司として、私たちキリスト信仰者のた
めにとりなしていてくださいます。
私たちは肉の弱さのゆえに、罪を犯すことがあります。しかし神の右に着座された方、
主キリスト・イエスが、私たちのためにとりなしておられることは、なんと幸いなことで
はないでしょうか。だから私たちは、いつでも罪を悔い改めることができます。罪の赦し
が備えられているので、赦しを求めて悔い改めることができるのです。
35節。だれも、私たちをキリストの愛から引き離すことはできません。私たちは、どれ
ほどの愛で愛されているかを知っています。キリストは、いのちを捨てるほどの愛で、私
たちを愛してくださいました。私たちに愛されるにふさわしい功績があるからではなく、
何の功績もないばかりか、神に敵対し、罪の中を歩み、弱く、不敬虔であった、そのよう
なときに、キリストは私たちのために十字架で死なれたのです。だからパウロは、コリン
ト人への手紙において、キリストの愛が私たちを捕らえていると告白しました。
自分に対するキリストの愛を味わい知った私たちを、キリストの愛から引き離すことは
だれにもできません。私たちがどのような状況に置かれたとしても、十字架でいのちを捨
てるほどの愛で愛してくださったその愛を私たちは握りしめているからです。パウロは、
キリストの愛から私たちを引き離す可能性のある事柄を列挙しています。そして実際に、
初代教会のキリスト信仰者たちは、ここに列挙された事柄に翻弄されていたのです。苦
難、苦悩、迫害、飢え、裸、危険、剣です。キリストを信じて、キリストを自分の主とあ
がめて、主とともに歩むことのゆえに、彼らは様々な苦境に晒されていました。キリスト
の愛にとどまっていない者は、キリストから離れることになります。
しかし、キリストの愛にとどまっている者は、どんな苦境に立たされても、いのちの危
険に晒されても、キリストの愛に捕らえられているので、キリストから離れることはあり
ません。キリストを自分の主とあがめて、主と共に歩み続けます。それはこの世から解放
されているからです。この世がすべてであるという思いから解放され、この世は与えられ
た地上生涯の期間だけで、永遠の中の一期間であると理解したからです。
私たちキリスト信仰者は、自分の地上生涯の終わりを意識しています。またこの世は終
末を迎えること、私たちは世の終わりを生きていると知らされています。主イエスが再び
この世に来られるときに、天地万物は消え去ります。そして、新しい天と新しい地が再創
造されます。私たちは主イエスの再臨と新しい天と新しい地の再創造を待ち望んでいるの
で、委ねられている地上生涯を、主のみこころにふさわしく歩みたいと願い、神のみわざ
に自分を委ねています。どんな苦境であっても、そこに主なる神はともにおられ、そこで
主の最善がなされることを確信しているので、その苦境をも乗り越えるのです。私たちを
キリストの愛から引き離すことは、なにものも、だれにもできません。
37節。だから、私たちは圧倒的な勝利者です、と高らかに宣言するのです。全能の神、
全地の主、創造者であり、支配者である神が、私たちを愛しておられ、私たちの味方となっ
て、どのような状況の中にも、ともにいてくださるからです。私たちがどのような苦境に
立たされることになっても、霊的戦いに負けることはありません。私たちを愛して、神の
御子を人としてこの地上に遣わされた神、私たちのためにいのちを捨てて救いを備えてく
ださった御子イエス、そうして主イエスを信じた私たちの心に遣わされている助け主の聖
霊の神が、私たちを守り、支えてくださるので、私たちは圧倒的な勝利者です。
38~39節。パウロは、私はこう確信しています、と言います。地上にあるどんな被造物
も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
このパウロの確信は、私たちの確信でもあります。この地上のすべてのもの、それらは創
造者である神が創造された被造物です。ここに列挙されているのは、苦境のものばかりで
はありません。いわゆる祝福と言われるものもあります。死も、いのちも、です。死は究
極的な呪いであり、いのちは祝福です。究極的な呪いも、祝福であっても、私たちをキリ
スト・イエスにある神の愛から引き離すことはできません。
私たちに霊的な戦いを挑んでくるサタンとその陣営は、地上での、いわゆる祝福を利用
することで、私たちを主なる神から引き離そうと誘うのです。御使いたちも、とあります
から、支配者たちとは、この世を支配するサタンとその陣営につく悪霊たちと考えられま
す。御使いであっても、支配者たちであっても、地上生涯での祝福やのろいに、私たちを
あわせることで、主なる神ともに歩むことを妨げようとしても、私たちを、キリスト・イ
エスにある神の愛から引き離すことはできません。
箴言に記録されている、マサの人ヤケの子アグルは、神に二つことを願いました。「む
なしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください、貧しさも富も私に与えず、た
だ、私に定められた分の食物で、私を養ってください。私が満腹してあなたを否み『主と
はだれだ』と言わないように。また、私が貧しくなって盗みをし、私の神の御名を汚すこ
とのないように」とアグルは願っています。私たちも同じではないでしょうか。私たちの
父となられた神から離れさせようとする、どのような祝福ものろいも、順境も逆境も、私
たちに与えないようにとの祈りを、私たちもしたいと思うのです。そのように祈り願って
いるのに、祝福が与えられたなら、それを感謝して、主のために用いていきましょう。苦
境に晒されたなら、それは主なる神が許可されたことであり、その苦境の中に、主なる神
がともにおられることを忘れずに、主のみわざを待ち望むのです。
パウロは続けます。今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにある
ものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、です。私たちの主キリス
ト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことは、何にも、だれにもできません。
神の私たちへの愛は、主イエス・キリストの十字架による身代わりの死で明らかに示さ
れました。私たちは神に愛されています。私たちが、自分は神に愛されていないと思える
ような状況に陥ったとしても、神の自分への愛を感じられないとしても、神は変わらずに
私たちを愛し続けておられます。神の愛が分からなくなったときは、十字架に目を向ける
ことが大事です。十字架は、主イエスが私たちの代わりに罪の処罰を受けてくださったこ
との証拠です。主イエスはいのちを捨てるほどの愛で、私たちを愛してくださいました。
十字架に目を向けるなら、私たちは、神の自分への愛を確認できます。私たちは神に愛さ
れています。この事実をいつも覚えていましょう。
罪と死の支配から解放され、いのちの御霊の支配に生きる者となった私たちです。この
地上は過ぎ去るもの、消えてなくなるものであることを教えられています。この地上に依
存することから解放されて、この地上での必要のすべてを満たしてくださる神に依存する
私たちと変えられました。栄光を与えられている私たちです。この地上の何ものも、私た
ちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。私たち
は神に愛されています。私たちは神を第一にする信仰を確立しましょう。




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