2026年5月17日 礼拝「御霊のとりなしがある」ローマ8:26~30
- 5月17日
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前回私たちは、私たちも、すべての被造物も、滅びの束縛の中で、ともにうめき、とも
に産みの苦しみをしていることを確認しました。そうして私たちは、私たちのからだが贖
われることを、忍耐して待ち望んでいることも確認したのです。
26節。同じように御霊も、とあります。御霊も忍耐しています。忍耐して、弱い私たち
を助けてくださるのです。弱い私たちとは、自分の弱さを自覚している私たちという意味
です。自分の弱さを自覚する者は、助け主の聖霊に助けを求めます。私たちキリスト信仰
者の心には、賜物として助け主の聖霊が宿っておられるので、いつでも助けを求めること
ができます。罪の性質を引きずっている肉体で歩んでいる私たちですから、聖霊の助けを
受けるのでなければ、弱い私たちが、罪と死の支配から解放されることはできません。
そのような私たちを、御霊は助けてくださるのです。私たちは、何をどう祈ったらよい
か分からないような、困難を極める状況に陥ることもあります。肉体的な、精神的なトラ
ブルに巻き込まれて苦悩に落ち込むこともあります。主イエスに従うことのゆえに苦難を
強いられることもあります。そのような苦しみの中で、何をどう祈ったらよいか分からな
いときにも、御霊ご自身が、私たちのうめきにしかならない祈りに合わせて、私たちのた
めにとりなしてくださるのです。
だから私たちは、どんなときでも、いつでも祈ることが大事です。ことばにすることも
できない、ただうめくことしかできないときにも、父なる神の御前に自分を差し出すこと
ができます。御霊がとりなしてくださるので、私たちのことばにならないうめきの祈りを
も、父なる神に届けられるからです。父なる神は、私たち神の子どもとされた者たちが祈
ることを待っておられます。そうして、どんな祈りにも、耳を傾けてくださるのです。
27節。人間の心を探る方とは、創造者である神です。神は全能であり、全知です。詩篇
139篇の作者は、私たちのことばが舌にのぼる前に、神はそのすべてを知っておられると
告白していますが、まさにそのとおりです。今、キリスト信仰者のうちに住んでおられる
御霊が、私たちの思いを知って、私たちのためにとりなしてくださるのです。
私たちの心も思いも、すべてを知っておられる神の前では、すべてがさらけ出されてい
ます。ですから私たちは、心のすべてを注ぎだして、父なる神に祈ることができます。自
分を取り繕う必要はありません。その時の思いをそのまま述べて良いのです。
28節。私たちキリスト信仰者は、神を愛する人たちです。神の自分に対する愛を、主イ
エスの十字架の死を受け入れることで知った私たちです。その神の愛に応えて、私たちは
神を愛する者となりました。そしてそれは、神のご計画にしたがって召されたことにより
ます。パウロはエペソ人への手紙に「神は、世界の基が据えられる前から、キリストに
あって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」と記していますが、
まさに、私たちキリスト信仰者は、神のご計画にしたがって召された者たちです。
そのような私たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは
知っているとあります。父なる神は、私たち神の子どもたちのために、害を与えることは
なさいません。益を与えてくださるのです。このことを覚えているなら、その時々の状況
に左右されることなく、父なる神に信頼して、神とともに歩むことができます。
ヤコブとその家族がエジプトに移住する、その経緯を私たちは知っています。11番目の
子であるヨセフは、父ヤコブの寵愛を一身に受け、兄たちのねたみと怒りを買いました。
そうして兄たちによって奴隷として売られ、エジプトに連れて行かれたのです。ヨセフは
奴隷としても、その後濡れ衣を着せられて囚人として牢獄に入れられたときも、ともにお
られる主なる神に信頼して、自分のできることを誠実に、忠実に行うことで、周囲の人々
の信頼を得て、エジプトでファラオの次の位に就くことになるのです。そうして7年間の
大飢饉をきっかけとして、ヤコブとその家族はエジプトで養われることになります。
父ヤコブが死んだ後、兄たちはヨセフの仕返しを恐れて謝罪するのですが、その時のヨ
セフのことばに同意したいのです。ヨセフは「あなたがたは私に悪を諮りましたが、神は
それを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人
が生かされるためだったのです」と語っています。兄たちの妬みを買い、奴隷として売ら
れて、主人に仕えたこと、囚人として監獄の長に仕えたこと、これら13年間を通して、ヨ
セフは国の指導者としてふさわしい資質を身につけたと考えられます。まさに、すべての
ことがともに働いて益となるのです。神がすべてを働かせてくださいます。私たちは父な
る神のご主権のもとに生かされていることを忘れてはなりません。その時々の状況に一喜
一憂するのではなく、どのような状況に置かれても、そこで誠実に、忠実に、自分のでき
ることを行うことが大事です。すべてのことがともに働いて益となるからです。
パウロがこの文脈で、すべてのことがともに働いて益となる、と語っているのは、地上
で物質的に益となることだけではありません。それが29~30節です。
29節。神は、あらかじめ知っている人たちを、とあります。これは、神を愛する人たち
であり、神のご計画にしたがって召された人たちです。神は、あらかじめ知っている人た
ちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められました。私たちキリスト信仰者は、主
イエスのかたちと同じ姿になるように定められています。私たちは、霊的成長を遂げるこ
とで、御子のかたちと同じ姿に変えられていきます。これが神のご計画であり、私たちが
召された地上での目的です。この文脈で考えるとき、最大の益は、私たちキリスト信仰者
がキリストに似た者へと整えられることです。この最大の益のために、すべてのことがと
もに働くということです。まさに御霊なる主の働きによるのです。
このことをパウロは、ピリピ人への手紙に書き記しています。「私たちはみな、覆いを
取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたち
に姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」と。私たち
の信仰生活において、様々な試練や困難に遭うことを、父なる神が許可されるのは、私た
ちの霊的成長のためです。その目指す姿は、キリストに似ることです。
多くの兄弟たちの中で御子が長子とされるためです、とあります。長子とは、初穂であ
り、中心ということです。キリスト信仰者は神の家族であり、霊的に兄弟姉妹です。その
神の家族の中心が御子イエスです。キリスト信仰者は、御子イエスのかたちと同じ姿に整
えられていきます。御子イエスの聖さに似せられていく、これが霊的成熟です。
30節。世界の基が据えられる前から、キリストにあって、神に選ばれた私たちです。御
子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた私たちを、神は召してくださいました。私た
ちは神に召されたので、主イエス・キリストを信じる信仰が与えられたのです。ここに私
たちの誇りとするところは何一つありません。一方的な神の恵みによって選ばれ、召され
たので、主イエスの十字架による罪の赦しを信じる信仰が与えられました。
罪が赦される。これが義と認められることです。義と認めるとは無罪の判決を下すこと
です。私たちは様々な罪を犯してきました。そのすべての罪を犯さなかったことにする、
罪のない者と見なすということが、罪を赦す、義と認めることです。私たち全人類の罪の
ために、神の御子は人となられ、私たちのすべての罪をその身に負って、私たちの代わり
に十字架で、罪の処罰を受けてくださいました。私たちの罪に対する刑の執行は、主イエ
スの十字架によって完了しています。この神のみわざ、差し出されている罪の赦しを感謝
して受け取ることで、私たちは義と認められるのです。罪は赦されました。
義と認めた人たちには、さらに栄光をお与えになったとあります。主イエスの十字架を
自分の罪のためであると受け入れ、罪が赦された、義と認められた私たちですが、なおも
罪の性質を引きずっています。だから罪の誘惑に引き込まれ、罪を犯してしまうことがあ
るのです。まさに、いのちの御霊の支配と、罪と死の支配とが鬩ぎ合っています。
私たちキリスト信仰者は、いのちの御霊の支配を歩んでいます。かつては、罪と死の支
配下に置かれ、隷属させられていたので、肉の頑張りでは対抗できなかったのです。しか
し今は、いのちの御霊の支配に自分を委ねているので、罪と死の支配から解放されていま
す。しかし私たちが、いのちの御霊の支配に自分を委ねることを止めると、罪と死の支配
に隷属させられるので、罪に引き込まれるのです。そのような私たちですが、神は、義と
認めた私たちには、さらに栄光をお与えになったのです。私たちが、罪と死の支配から解
放されて、神の栄光を現す者となるということです。
私たちに与えられた栄光の完成は、罪のないからだに復活する、あるいは変えられるこ
とです。主イエスの再臨の時に、生きていて主イエスを迎える者は、一瞬のうちに栄光の
からだに変えられます。すでに死んでいるなら、栄光のからだに復活するのです。私たち
には、この望みがあります。栄光のからだ、朽ちないからだ、罪のないからだが与えられ
て、永遠を、新しい天と新しい地で歩むのです。その日を、忍耐して待ち望んでいます。
神は、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりましたとあります。栄光が与え
られたとは、神の栄光を現す者とされたということです。この地上での信仰の生涯で、神
の栄光を現す歩みをするのです。パウロはキリスト信仰者に、自分のからだをもって神の
栄光を現しなさいと招きました。また、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の
栄光を現すためにしなさいと招いています。なぜこのような招きをしたのでしょうか。そ
れは罪の性質を引きずっている肉体にあっても、神の栄光を現すことができる者とされて
いるからです。だから、神の栄光を現すようにと招くのです。神の栄光を現す歩みをする
ために、私たちのうちには、助け主の聖霊が宿っておられます。
私たちキリスト信仰者は、御霊によって聖なる者へと整えられていきます。御子のかた
ちと同じ姿に変えられていくのです。義と認められる義認から、御子のかたちと同じ姿に
変えられ、聖なる者へと整えられていく聖化、そして罪の全くない、栄光のからだに変え
られる栄化へと、私たちには神の約束があるのです。
今は、罪の性質の残る肉体にって、罪との戦いにうめいてはいても、御霊のとりなしが
あり、御霊の助けがあって、神の栄光を現すことができるという、栄光への約束が与えら
れています。望みがあるのです。
8章24~25節。私たちは、この望みとともに救われたのです。目に見える望みは望み
ではありません。目で見ているものを、だれが望むでしょうか。私たちはまだ見ていない
ものを望んでいるのですから、忍耐して待ち望みます。
御霊の助けがあり、御霊のとりなしがある私たちであることを感謝しましょう。




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