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2026年3月15日 礼拝「キリストとの共同相続人」ローマ8:12~17

  • 3月15日
  • 読了時間: 9分

 私たちキリスト信仰者は神の子どもです。子どもであるなら、相続人です。今日私たち

は共同相続人、キリストとの共同相続人とされている自分であることを確認します。

 前回私たちは、2種類の律法の下に置かれていることを確認しました。2種類の律法と

は、罪と死の律法と、いのちの御霊の律法です。この律法は、原理、法則とも訳されます。

キリスト信仰者は、2種類の原理、法則の支配を受けています。主イエスを信じる前の私

たちは、罪と死に支配されていました。そのような私たちは、主イエスを信じる信仰が与

えられ、神のいのちに生きる者とされて、いのちの御霊に導かれて生きる者とされていま

す。いのちの御霊の法則、原理の下に生きる者とされているのです。いのちの御霊に生き

る者に対して、罪と死の律法は何の力も及ぼしません。私たちは、罪と死の律法の支配か

ら解放されています。ただし、罪と死の律法の影響がなくなったわけではありません。だ

から私たちが、いのちの御霊の支配を拒むなら、罪と死の律法に従わせられるのです。

 12節。私たちキリスト信仰者には義務があると言われます。肉に従って生きなければな

らないという義務ではありません。主イエスを信じて、いのちの御霊の律法に生きる者と

なった私たちは、罪と死の律法から解放されているので、肉に対する義務から解放されて

います。キリスト信仰者である私たちにある義務とは、御霊に従って生きる義務です。主

イエスを信じて、神の子どもとされ私たちは、賜物として聖霊なる神を心に宿す者とされ

ているのですから、聖霊の導きを求めて生きる義務があるのです。

 13節。肉に従って生きるとは、御霊に従って生きることを拒むことであり、いのちの御

霊の支配を退けることで、罪と死の律法に支配され、罪を犯すことになります。罪の報酬

は死ですから、肉に従って生きるなら、行き着く先は死です。だから御霊によってからだ

の行い、肉の欲求を殺すようにと招かれているのです。御霊によってからだの行いを殺す

とは、いのちの御霊の支配に自分を明け渡すことであり、御霊の助けを受けて、肉の欲求

を退けることです。罪の誘惑に打ち勝って、神を中心にして生きる者となります。

 14節。私たちキリスト信仰者はみな、神の子どもです。なぜなら神は、主イエスを信じ

る者に、神の子どもとなる特権を与えられたからです。私たちは神の実子ではありません

が。養子として迎え入れられたのです。実子は神の御子、主イエス・キリストだけです。

養子であっても、神の子どもであることに変わりません。そして、神の子どもとされた私

たちのうちには、賜物として聖霊が遣わされています。その御霊に導かれる人はみな、神

の子どもとして歩むのです。だから、神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもですと断

言されます。私たちは神の子どもとされたのだから、御霊に導かれて歩むことで、神の子

どもとしての特権と恵み、祝福に与るのです。与っていないなら大きな損失です。

 15節。私たちは、子とする御霊を受けました。奴隷の霊ではなく、子とする御霊です。

かつての私たち、主イエスを信じる以前の私たちは、罪に支配されていたので、罪と死が

もたらす恐怖に陥れられていました。しかし今は、キリスト信仰者となり、いのちの御霊

によって生きる者とされたので、罪の奴隷状態から解放されています。

 まことの神を知らず、まことの神と無関係に生きていたとき、私たちは罪と死の呪いの

もとに、罪と死がもたらす様々な恐怖に晒されていました。しかし今、神の子とされたこ

との証印として御霊が与えられています。この御霊によって、私たちは神に向かって「ア

バ、父」と叫ぶ者とされました。「アバ」は、幼い子どもが父親に向かって「お父ちゃん」

と呼びかけることばです。親しい親子関係を表しています。私たちが、父なる神に、親し

く呼びかけることができるのは、子とする御霊が心に宿っておられるからです。

 16節。その御霊が、私たちに、私たちが神の子どもであることを証してくださるので、

私たちは、自分が神の子どもであると確信するのです。

 17節。子どもは法定相続人です。親が子ども以外の人に全財産を相続するとの遺言を残

したとしても、子どもには遺留分を請求する権利があります。子どもであるなら、相続人

でもあるとは、このような意味です。私たちキリスト信仰者は神の子どもです。ですから

神の相続人でもあります。では、私たちは、何を相続するのでしょう。

 17節には「キリストと、栄光をともに受けるために」とあります。私たちがキリストと

ともに相続するのは栄光です。私たちはキリストの死にあずかるバプテスマによって、キ

リストともに葬られました。それは、キリストが死者の中からよみがえられたように、私

たちも、新しいいのちに歩むためです。私たちキリスト信仰者はキリストと一体となり、

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられて、罪のからだが滅ぼされ、私たち

がもはや罪の奴隷でなくなりました。

 神の御子、主イエスは十字架で死なれ、三日目に死者の中からよみがえられました。主

イエスが栄光のからだによみがえられたように、私たちキリスト信仰者は、主イエスの再

臨の時に、栄光のからだが与えられ、永遠を天の御国で過ごすことが約束されています。

私たちは、その栄光を相続する、相続人とされているのです。

 キリストの再臨の時に、栄光のからだに復活することも素晴らしい栄光ですが、この地

上での歩みにおいて、神の御力の現れを体験するという栄光をも約束されています。私た

ちキリスト信仰者は「食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すために

しなさい」と招かれていますが、神の栄光を現すことができる者とされているということ

です。まさに、キリストと、栄光をともに受ける者、相続人です。

 「栄光をともに受けるために苦難をともにしている」とあります。罪と死の律法が支配

しているこの地上において、いのちの御霊の律法に生きるという全く新しい歩みをする私

たちは異質の存在であり、そのような歩みをする者を嫌がる人々から反発を受け、信仰ゆ

えの苦難を受けることに繋がります。主イエスがこの地上生涯において、神の御前に正し

い歩みをしたことで苦難を受けたように、私たちがキリストとともに、神の御前に正しい

歩みをするならば、そのことのゆえに苦しむことがあります。しかしその苦難は栄光を受

けるために通ることが定められているものです。初代教会の聖徒たちは、御名のために辱

められるに価する者とされたことを喜びとして、苦難を受けました。私たちも、キリスト

信仰のゆえに苦しむときに、御名のために辱められるに価する者とされたことを、喜びと

したいのです。その苦難は、キリストと、栄光をともに受けるためのものだからです。

 キリストと、苦難をともにすることを喜びとできるかは、私たちが受ける栄光がどれほ

どすばらしいかを知っているかにかかっています。18節には「今の時の苦難は、やがて私

たちの啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます」とパウロは書き記し

ました。この地上で受ける、信仰ゆえの苦難は、軽々しいものではなく、私たちの信仰を

脅かすものでもあります。しかしその苦難を、取るに足りないと考えられるのは、地上生

涯を終えたときに与えられる栄光を待ち望んでいるからです。

 今の時の苦難とやがて啓示される栄光を比較していますが、パウロは同等のことを、コ

リント人への手紙4章で次のように述べます。パウロは「私たちの一時の軽い苦難は、そ

れとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです」と書きまし

た。地上で受ける信仰ゆえの苦難は、一時の軽い苦難と表現します。実際には軽いもので

はありませんが、重い栄光と比較することで、軽い苦難であると思えるのです。重い永遠

の栄光を待ち望む私たちには、一時の軽い苦難となるのです。

 だからパウロは勧めました。「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留

めます。見えるものは一時的であり、見えない者は永遠の続くからです」と私たちの目を

永遠に向けるのです。主イエスを信じて神の子どもとされた私たちは、何を見ているので

しょうか。この地上での営みでしょうか。やがて明らかにされる栄光でしょうか。私たち

は見えるものにではなく、見えないものに目を留めましょう。

 私たちはいずれ、地上生涯を終えて、天の御国に凱旋します。永遠のいのちに生きる者

とされたので、主イエスの再臨の時、再創造される新しい天と新しい地に、栄光のからだ

が与えられて住むことになります。この約束は絵ぞらごとではなく、現実となります。そ

の栄光の時を私たちは待ち望んでいるので、地上での信仰のゆえの苦難を、キリスト信仰

者として当然のこととして受け止めることができるのです。

 まさに私たちは、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人です。再度確認して

おきましょう。私たちは主イエスを信じたのであれば、神の子どもとされています。主イ

エスの十字架の身代わりの死を、自分の罪を赦すための身代わりの処罰であると受け入れ

ることによって、罪は赦され、神に義と認められ、永遠のいのちが与えられています。神

の子どもなので、神の相続人です。栄光をキリストとともに受ける、キリストとの共同相

続人です。私たちに与えられている神の子どもとしての立場を、私たちは喜びましょう。

重い永遠の栄光を待ち望んでいるのですから、私たちがキリストとともに受ける苦難は、

一時の軽い苦難と受け止めることができるはずです。

 聖霊を心に宿している私たちは、肉に従う義務から解放され、御霊に従って生きるとい

う、御霊に対する義務があります。この義務は重荷とはなりません。喜びとなります。と

言うのは、御霊に従って生きる私たちは、この地上でのすべての営みにおいて、神の栄光

を現す者とされるからです。私たちは、神の子どもとされたお互いですから、互いに励ま

し合って、神の栄光を現す歩みを追い求めましょう。

 私たちは、自分が、キリストとともに共同相続人であることを誇りとしましょう。


 
 
 

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