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2026年3月8日 礼拝「私たちの格闘~霊的戦い」エペソ6:10~13

  • 3月8日
  • 読了時間: 10分

 パウロはこの手紙の最後で、とても重要な勧めをしています。教会は、そしてキリスト

信仰者一人ひとりは、大能の力によって強められる必要があるということです。

 私たちは、神の一方的な恵みを受けて、十字架で処刑された主イエスを、自分の罪から

の救い主、自分の全存在の主として信じた者たちです。イエス・キリストを信じる以前の

私たちの姿が2章1節にあります。自分の罪過と罪との中に死んでいて、滅ぼされるべき

存在だった私たちを、あわれみ豊かな神は愛してくださり、キリストとともに生かしてく

ださいました。4~5節です。そして神のいのちに生きる者となった私たちは、霊的戦い

の真っ直中に置かれることになりました。戦いの相手は悪魔です。その目的は、私たちを

再び神から引き離そうとすることです。私たちが神とともに生きて、神のみわざに用いら

れるのか、それとも悪魔がそれをやめさせるかの、信仰による霊的戦いです。

 私たちがキリストを信じて救われたのなら、つまり、自分には罪があると認めて、悔い

改め、信仰によって主イエスの十字架による罪の赦しを受け取り、罪からの救いに与った

のなら、私たちはあらゆる霊的な戦いにおいて勝利することが約束されています。私たち

は、悪魔との霊的な戦いを通して、与えられた信仰をより確かなものとして、霊的に成長

していくのです。今日の箇所で約束されているのは、私たちは大能の力によって強められ

ることです。だから悪魔の策略に対して立ち向かうことができ、邪悪な日に際して対抗で

きるのです。勝利は約束されています。そしてたとい、ある霊的な戦いでは負けたとして

も、私たちは聖霊の促しを受けて、罪を悔い改め、信仰は立て直されます。

 10節。キリスト者は、大能の力によって絶えず強められる必要があります。神の助けを

求めなければ、悪魔の策略に惑わされて、キリスト者としてふさわしく歩むことができな

くなります。神に喜ばれ、用いられる信仰生活が妨げられるのです。私たちは、神の大能

の力によって強められると約束されていますから、大いに強められて、喜びと感謝に満ち

た、神に喜ばれる信仰生活、神に用いられる信仰生活に進もうではありませんか。

 1章17節でパウロは「どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知

るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように」と祈りました。

これはパウロが、御霊、聖霊なる神を与えてくださいと祈っているのではありません。聖

霊はキリスト信仰者一人ひとりの心に遣わされ、住んでおられます。その聖霊から神を知

るための知恵と啓示とを受けることで、キリスト信仰者は神ご自身についてさらに深く、

正しく知ることができるのです。パウロはそのことを祈りました。キリスト者一人ひとり

が、自分の心に住んでおられる聖霊を心からあがめ、聖霊によって神ご自身について深く

知ることができるようにと祈ったのです。また19節では「神の大能の力の働きによって私

たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができ

ますように」と祈りました。その神の全能の力の働きによって、私たちキリスト信仰者に

働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、私たちは知るのです。

 6章10節。主にあって、大能の力を求めなさいではありません。主にあって、大能の力

によって強められなさいです。私たちが大能の力を持つのではありません。私たちは強め

られるのです。全能の神が大能の力によって、私たちを強めてくださる、主にあって、主

イエスのご支配に自分を委ねることで、強められることを求めるのです。私たちを強める

お方は、私たちの心に住んでおられる聖霊です。私たちが自分の心に住んでおられる聖霊

を仰ぎ、聖霊の導きに素直で、従順であろうとするなら、聖霊は私たちを導き、大能の力

によって強くし、事を行わせてくださいます。助け主の聖霊を、心の片隅に追いやっては

なりません。心の王座を明け渡し、聖霊の支配に自分を明け渡すのです。

 敵を知り、己を知る者、百戦危うからずという格言があります。敵が何者であり、自分

がどういう状態であるかを知っているなら、どのような戦いにも対処できます。キリスト

信仰者の霊的戦いも同じです。私たちは自分の弱さを正直に認めなければなりません。弱

さを自覚する者は強められることを求めます。自分の弱さを認めないから、強められるこ

とを求めません。パウロはコリント人への手紙に「弱いときにこそ強い」と書き送ってい

ます。自分の弱さを正直に認める者は助けを求めます。そして助け主の聖霊は、その全能

の力によって、その大能の力によって、助けを求める者を強めてくださるのです。

 私たちに霊的な戦いを挑んでくる相手、私たちが戦う相手は悪魔です。聖書には、悪魔

についての呼称が多くあります。その名称は、悪魔、サタン、悪霊どものかしら、試みる

者、誘惑者、武装した強い人、この世の神、この世を支配する者、空中の権威を持つ支配

者、大きな赤い竜、あの古い蛇、人殺し、偽りの父、そして敵、と様々です。悪魔は、何

か漠然とした、曖昧模糊とした存在ではなく、はっきりとした目的を持つ人格的な、霊的

な存在です。

 11~12節。悪魔とその支配下の勢力が列挙されています。主権、力、この暗やみの世界

の支配者たち、そして天にいるもろもろの悪霊です。その勢力が様々な策略をめぐらし

て、私たちキリスト信仰者に、信仰を、霊的力を骨抜きにする戦いを挑んでくるのです。

 私たちは、神は霊であると信じています。そして主イエスを信じた私たちの心には、助

け主の聖霊が住んでおられるという約束を受け入れています。私たちは神の存在と聖霊の

働きを信じているように、悪魔とその支配下の霊的存在をも認めるべきです。しかし彼ら

の存在を恐れる必要はありません。私たちが立ち向かうのは彼ら自体ではなく、彼らの策

略に対してです。私たちは主にあって勝利が約束されているので、悪魔と悪霊たちを恐れ

る必要はないのです。だからといって彼らを侮ってはなりません。主の助けを受けなけれ

ば、彼らの巧妙な策略に惑わされてしまいます。惑わされてはならないのです。

 2章2節。悪魔は、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順の子らの中に働いてい

ます。神に対して不従順な人々の神として君臨し、神に敵対するこの世を支配しているの

です。私たちもかつては、神に対して不従順でした。2コリント4章では、まことの神を

信じようとしない人々の心には覆いが掛かったままであり、この世の神である悪魔が不信

者の思いをくらませて、福音の光を輝かせないようにしているとあります。

 2章3節。私たちも、かつては不従順であり、不信者でした。この世の神に支配されて

いたのです。そのような私たちを、神は暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支

配の中に移し、私たちの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ

くださったのです。だから私たちには霊的な戦いがあります。再度サタンの支配に引き戻

そうとする策略に対する戦いです。悪魔は様々な策略をめぐらして、神への信仰を骨抜き

にし、神に聞き従って生きることを止めさせようとします。神への信頼をなくし、神中心

ではなく、自分中心の生き方に、みことばの基準ではなく、自分の思いを優先する生き

方、罪に引き戻そうと誘うのです。私たち個々人に対して、また教会に対して、戦いを挑

み、私たちが神に用いられないようにと、信仰的に歩もうとすることを妨げるのです。

 悪魔はいつも、私たちの目を、神ご自身にではなく、神以外のものに向けさせ、神への

信頼や神への従順をなくそうと働きかけてきます。そして神ご自身との親密で、人格的な

結びつきのすばらしさを見えなくし、神の愛から引き離すのです。

 6種12節。格闘です。霊的な戦いは、キリスト者個々人の、一対一の戦い、格闘です。

誰かの信仰を借りて戦うことはできません。自分の信仰で戦うのです。教会はその後方支

援をします。悪魔とその勢力に対抗するために、教会は一致して神の武具で身を固めるこ

とを互いに確認し、互いに励まし合うのです。各人が霊的に武装をして、互いに支え合う

必要があります。キリスト信仰者の霊的な戦いは、全員が戦いの前線で個々に戦い、全員

で後方支援をします。私たちの霊的戦いは、教会全体の支えを必要とする、一対一の格闘

です。その攻撃に立ち向かい、打ち勝つのは、一人一人、主にある、あなたです。

 私たちの格闘は血肉に対するものではないとあります。日々の生活の中でふりかかって

くる様々な出来事での具体的な物事や人を相手に戦うなら、的外れの戦いとなり、本質的

な解決は得られません。私たちが格闘する相手は、主権、力、この暗やみの世界の支配者

たち、天にいるもろもろの悪霊であって、私たちの信仰を骨抜きにし、神に用いられるこ

とを妨げようとして、様々な策略を巡らして挑んでくるのです。私たちは常に、悪魔の策

略との信仰の戦いをしているということを確認していなければなりません。

 自分の日々の信仰生活、教会生活を振り返りましょう。神を礼拝することが第1の喜

び、感謝となっているでしょうか。教会の交わり、キリストのからだの各器官である兄弟

姉妹との交わりが煩わしく思えていないでしょうか。神に用いられたいという思いが薄れ

てはいないでしょうか。福音を伝えたいという思いが消えかけてはいないでしょうか。

 今私たちの社会では、信仰ゆえの迫害という霊的戦いはほとんどありません。そうでは

なく、この世での安定した生活を求めさせ、物質的な豊かさを得させ、また社会的な責任

を必要以上に負わせることで、忙しい、慌ただしい日々を過ごさせて、神に用いられる信

仰生活をさせないように、時間的に、体力的に余裕のない日々を歩ませられています。私

たちはこの世の巧妙な誘惑に警戒しなければなりません。私たちの格闘の相手は、この暗

やみの世界の支配者たちです。私たちの信仰を骨抜きにするための手を変え、品を変えて

の巧妙な策略との戦い、霊的な戦いなのです。

 13節。邪悪な日が来ます。いつも邪悪なのですが、ここでは、道徳的な退廃、社会的な

腐敗、治安の乱れということ以上に、信教の自由がない、つまり、主なる神への信仰その

ものが攻撃の対象になるという意味での邪悪さです。初代教会は、まさにそのような邪悪

さの中で霊的戦いを戦い、悪魔との格闘に勝利してきました。そうして福音を大胆に語り

続け、証しし続けたので、福音が、神のいのちに生きる信仰が広がり続けたのです。

 日本も今は、制度としての信教の自由は認められています。しかし現実には、その自由

が制限されている領域や状況があります。教育現場で教師たちには、信教の自由、思想信

条の自由は限りなく制限されています。そのような圧力を、様々な領域に拡げようとする

勢力は虎視眈々と準備を進めています。神への信仰が、様々な形で邪魔され、攻撃され、

惑わされていく、霊的な戦い、信仰者の格闘はいつもあります。それが激しくなったとき

にも対抗できるように、私たちには神の武具が与えられています。

 神の武具を身につけて霊的に勝利するのか、神の武具を宝の持ち腐れにするのか、選ぶ

のは私たち一人ひとりです。私たちは大能の力によって強められることができます。神の

すべての武具で身を固めることができます。私たちは悪魔とその勢力と戦い、勝利して、

霊的に成長していくのです。神の武具については、次回確認します。


 
 
 

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