2026年3月1日 礼拝「神への責任、社会への責任」ルカ20:20~26
- 3月1日
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ルカが独自の視点で、主イエスの十字架への旅を書き記しているのを見ています。ルカ
の福音書9章51節から、少しずつ見てきて、26回目となりました。受難週に入っていて、
ユダヤ教指導者たちとの問答が始まっています。彼らは、主イエスのことばから、訴える
口実を得ようとしています。彼らの悪意は次第に強くなっています。
今日私たちは、主イエスが、彼らの問いかけに答えた、そのことばを通して、神に対し
ても、社会に対しても、果たすべき責任があることを教えられます。20節。機会を狙って
いた彼らは、とあります。彼らとはユダヤ社会の指導者たちですが、マタイの福音書やマ
ルコの福音書では、パリサイ派の人々とヘロデ党の者たちと明記されています。宗教指導
者と政治的集団が伴って、主イエスをことばのわなにかけ、亡き者にするために派遣され
たのです。義人を装った回し者とルカは記します。彼らが考えたわなは22節、ローマ政府
に税金を納めることは、神の律法にかなっているかどうかということでした。
彼らは謙遜を装っています。21節。主イエスを尊敬しており、その教えを仰ぎたいと見
せかけて近づいてきました。しかしその心は全く邪悪でした。主イエスが仰せられること
に聞くという思いは全くなく、主イエスがどう答えたとしても、主イエスを訴えることが
でき、葬り去れると考えていたのです。彼らの偽善者ぶりが現れています。
当時、ユダヤ社会はローマ帝国に支配されていました。ユダヤ人の多くはローマに支配
されていることを屈辱と考え、その象徴である税金を納めることを嫌がっていました。こ
の納税問題は政治的な問題と同時に、宗教的な問題でもありました。神の選びの民である
イスラエルから、異邦人が税金を徴収することは、主権者である神の権限を侵すものであ
ると考えられました。パリサイ人はそのように考え、多くの民の支持を得ていたのです。
それに対してヘロデ党とは、ヘロデ王家の再興のためにローマと親しい関係を築くことが
大事であると考えており、税金をローマ政府に治めることを容認していたのです。
このように、ローマ政府への納税に関して対立していた二つのグループが手を組んで、
主イエスの答えを待っています。彼らの策略は完璧でした。主イエスが答える、その答え
の反対者が、主イエスを厳しく糾弾できると考えたのです。もう一度22節。質問に隠され
ている悪意、そしてこの質問は完璧であると考えている彼らの傲慢さが窺えます。
もし主イエスが、税金を納めることは正しいのだと答えるなら、パリサイ人はすぐに群
衆に主イエスの答えを伝え、群衆を扇動して、主イエスへの憎しみを煽ります。主イエス
がもし、税金を納めるべきではないと答えるなら、ヘロデ党は主イエスをローマに訴える
のです。主イエスはローマへの反逆者として、処刑されることが期待できます。
23~24節。主イエスは彼らの悪巧みを見抜いておられました。そうしてデナリ銀貨、つ
まりローマ帝国の通過デナリウス銀貨にだれの肖像と銘があるかを確認させるのです。彼
らは答えます。ローマ皇帝カエサルの肖像と銘であると。
25節。その答えを引き出して、主イエスは彼らに「カエサルのものはカエサルに、神の
ものは神に返しなさい」と言ったのです。パリサイ派の人々とヘロデ党の者たちは、主イ
エスの答えを、ローマ政府か神かのどちらかであると考えていました。しかし主イエスの
答えは、ローマ政府にも、神にもでした。この主イエスの答えを、彼らの質問をかわす詭
弁と考えてはなりません。苦し紛れに考えついた言い逃れではないのです。彼らの悪意あ
る質問を用いて、主イエスは大切な真理を教えています。私たちが責任を果たすのは、地
上政府に対しても、神に対してもということです。私たちは社会的な責任を誠実に果たす
べきです。と同時に神への責任も誠実に果たすべきです。
主イエスはユダヤ教指導者たちを偽善者と呼びました。それは、彼らの心にある悪意と
は裏腹に、彼らが恭しく主イエスに語ったこと、彼らが心にもない称賛をもって主イエス
に近づいてきたことも当然偽善ですが、彼らを偽善者と呼んだ、その最も大きな理由は、
彼らが神の基準で生きようとしないあり方です。自分たちが作った基準を絶対化して、神
の求めを無視していているあり方そのものが偽善だということです。神が良しとされるの
は、国家に対しても神に対してもです。しかし彼らは、神に従っていると言いながら、自
分たちが作った基準を絶対化したのです。私たちも神を信じている、従っていると言って
いても、自分で作った基準を神よりも優先するなら、私たちも偽善者となります。
主イエスは国家に義務を果たすことは正しいとされました。それは神が権威を与えて、
国家が立てられているからです。国家はその国に秩序をもたらし、その国民が安心して暮
らすために立てられています。無政府状態ほど悲惨な集団はありません。国家は神によっ
て立てられています。この事実を覚えていることが大事です。国家が創造者である神に敵
対させるのでなければ、国家への責任を果たすべきです。国に税金を納めること、国の法
律を守ることは正しいのです。その社会にあって責任を果たすべきです。そのためにも、
私たちは為政者のために祈る必要があります。神がその権威を委ねておられる為政者が、
間違った政治を行うことがないように祈り、また監視しなければなりません。私たちが無
関心であることは、正しいことではないのです。
もう一度25節。主イエスは「返しなさい」と言われます。政府が立てられ、政府がその
社会に秩序を与え、国民の生活を守っている。その様々な恩恵に浴しているのだから、国
のものは国に返すのです。主なる神に従うことを禁じるのでなければ、国に従うのは当然
です。カエサルのものはカエサルに返すべきです。
同時に主イエスは、神のものは神に返しなさいと言われます。私たちは通常、社会的な
責任を果たすことに忠実かも知れません。しかし神のものは神に返すという点において、
社会的な責任を果たすことと同等に、あるいはそれ以上に忠実でしょうか。主イエスは明
確に語られます。カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさいと。もし私た
ちが、この二つの点において、忠実に、誠実に行っていないなら、しかも自分のキリスト
者生活は正しいと思っているなら、私たちも偽善者たちと言われてしまいます。
では神のものとは何でしょうか。ユダヤ人にとっては、自分の所有物の十分の一が神の
ものでした。主なる神と神の民イスラエルとの契約においては、十分の一は神のものとし
てささげることが定められています。ですからユダヤ人が十分の一や定められた奉納物を
ささげない時、神は彼らを盗人と呼んだのです。預言者マラキを通して、あなたがたはわ
たしのものを盗んでいると糾弾されました。それは神との契約を破っているからです。
私たちキリスト信仰者と神との契約には、十分の一の定めはありません。ですから神の
ものを盗んでいると糾弾されることはありません。私たちは主イエスを信じる信仰によっ
て救われました。十字架と復活による罪の赦しを受け取ることで、神の子どもとされる特
権が与えられています。そしてそれは、主イエスの十字架の血によって買い取られたこと
を意味します。つまり私たちキリスト信仰者は神の所有となったのです。
コリント人への手紙6章19~20節に「あなたがたは知らないのですか。あなたがたの
からだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはも
はや自分自身のものではありません。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」とあります。
私たちが神の子どもとされる契約の条件は、イエス・キリストを信じることです。主イ
エスは私たちのために、十字架でいのちを捨てられました。主イエスのいのちによって私
たちは買い取られたのです。私たちは十字架を仰ぐ時、感謝を新たにします。新しい感動
が湧き上がります。主イエスの十字架の死に厳粛な思いを持ちます。今私たちは、自分が
神の所有とされている幸いを覚えるのです。私たちの存在すべてが神のものです。
神のものは神に返すのです。自分自身が神のものです。だから、自分のからだをもって
神の栄光を現すようにと招かれています。まず時間と空間を返しましょう。主の日に教会
に集まって、神を礼拝するのです。委ねられたすべては神のものです。それを神に返すの
です。十字架の福音を味わった者として、十字架の福音を宣べ伝え、自分のすべての営み
を通して、神の栄光を現すのです。神のものである自分を自覚しましょう。




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